四月に考えたことなど(ヨルシカ「晴る」,映画「グリーンブック」,朝井リョウ「正欲」などを題材にして)

またブログを更新するのが遅れてしまった。

最近は、あまり本も読めていないし、

本から内容を得て、何かを書くこともできない。

 

ここまでインプットが少ないのも珍しいものだけれど、

論文の内容を書くわけにもいかないし、

どうしたものか、と悩みながら書いている。

 

とりあえず、四月だから、四月に思うことを少し書いてみようと思う。

皆さんは、花見に行っただろうか?

僕は花見が大好きだ。

毎年、この季節になると、どうしてもウキウキしてしまう。

コロナ期でも欠かさずに花見をしていたし、

友達を誘って、散歩をしながら花見をするのはすごく心地いい。

冬の寒さが和らいで、緊張から解き放たれるようなそんな空気が好きだ。

 

春をテーマにした歌も多い。

最近だったら、ヨルシカの「晴る」がお気に入りだし、

「春泥棒」も割と頻繁に聴いている。

 

youtu.be

 

このMVも僕は好きだ。

最初は何を描いているのかさっぱりわからなかったけれど、

何回も見ているうちに、どんなことを描いているのかおぼろげながらにわかってきた。

 

「降りやめば、雨でさえ、あなたを飾る晴る」

っていう歌詞の部分が特に好きだ。

 

雨が降っているときは、どうしても気分が落ちたり、

やる気が出なかったり、ネガティブなことが多いけれど、

そういうネガティブなものも、とおり過ぎてしまえば、

人生を飾ってくれる糧に変わってくれていたりもする。

 

まあ、何か大変な時期に差し掛かっていたときに、

それもいずれ終わるのだという気持ちになれることって、

本当に大事なことだと僕は思う。

 

めっちゃ簡単な例を言えば、

例えば、仕事で上司に怒られているとする。

怒られている最中は、どうしたって緊張してしまったり、

おびえてしまったり、気分が落ち込んだりするものだけれど、

上司も永遠には怒ることができないわけだし、

ミスをして、大変なときにあったとしても、

永遠にミスをし続けることなんてできない。

 

そんな当たり前なことだけれど、禍中にあるときは忘れがち。

永遠には続かないっていうのは、ある意味においては希望だし、また絶望でもあったりするけれど、

基本的には希望のほうを採用していればいいのだと僕は思う。

万物は流転する。諸行無常。

いろんな言葉で先人たちが残している。

 

四月って、いろんなものが入れ替わるし、新しくなる。

そういう芽吹きの時期だからこそ、頑張りすぎることもある。

思えば、僕は毎年四月は頑張りすぎていた。

小学生や中学生や高校生などのときにも、

毎年新学年になるたびに頑張りすぎて疲弊していたような気がする。

人一倍、感受性が強かったのもあるだろうし、

緊張していたのはよく覚えている。

 

僕は、何事も軌道に乗るまでがしんどい。

誰でもそうなのかもしれないけれど、

人間関係も軌道に乗ってきて、

自分が今年度何をするか、

何をしなければならないのか、

ということが固まってくるまで、

無駄に緊張して無駄に疲弊してしまうのだ。

 

いずれにしても、もう少し手を抜いて、

力を抜くっていうのを意識していかないといけないなと思っている。

 

まあ、すべての人間関係を良好にするまでには時間がかかるけれど、

誰か一人の人と仲良くなれればいいや、

くらいの気持ちで、一人から始めてみるっていうことは、最近意識するようにしている。

それを思うようにしてからは、割と力を抜いて過ごせることも増えてきたような気がする。

 

僕自身、今までの人生で身に着けてきた偏見や、固定観念みたいなものがあるし、

それは、間違いなく、親との関係性や学校社会の中で築かれたものだ。

でも、もうそれにこだわる必要もない。

初対面の人とうまく話せなくても大丈夫だし、

陽キャ、陰キャみたいなつまらない価値観も必要ない。

それが意味を成すのは、学部までだと思う。

 

いや学部ですら意味はなかったはずだ。

今年は、そういう意味のない価値観を白紙に戻していきたいな、と思う。

もう今年一年で学生も終わるし、それには最適なタイミングだといえる。

 

そういう学生時代に身に着けた価値観(スクールカースト的な上下意識)は、

人を悪者にしてしまったり、自分と合う人合わない人を大して関わってもいないのに、

決めつけてしまったりする。

こういう雰囲気の人とは自分は関わりません。みたいなことになりがちだ。

でも、「こういう雰囲気」の人(自分とは違う属性の人)と関わるからこそ、

違う価値観が学べたり、自分の盲点だったことに気づくことができたりする。

 

全然インプットしていないといったけれど、

そういえば、最近「グリーンブック」を見た。

youtu.be

グリーンブックで描かれているのも、まさに違う者同士が手を取り合うからこそ生まれることだ。

グリーンブックでも、人種差別という無意味な価値観に対する抵抗が描かれていたり、その価値観をぶち壊すための挑戦が描かれている。

 

そういう意味合いでも、僕は今年は、今までの人生で身に着けてきた、もう必要がなくなった価値観を捨て去る挑戦をしていきたいなと思う。

 

そんなことを考えながら書いていたら、結構いいテーマで書けたし、

割と書くことあるやん、っていう自分への突っ込み。

 

グリーンブックは本当にいい映画なので、おすすめです。

朝井リョウの「正欲」についても書こうと思ってはいます。

サクッとここで書いてしまうと、

グリーンブックともつながりはあるのだけれど、

とらわれていた価値観を捨て去るっていうのがテーマだと思います。

 

朝井リョウ氏の作品には、スクールカーストだったり、

今の若者の承認欲求だったり、僕らが生きづらいと感じてしまう価値観を題材にしているものが多い。

 

「正欲」でもそういうものが題材になっていて、

僕自身、これまでの言動だったり、人に自分の正しさを押し付けてしまっていたな、と思わされることが多々あり、

人生を反省させられるような作品でした。

 

生きづらさっていうのは、自分で作り出しているもんです。

僕自身、生きづらいなと思うことは今までたくさんあったのだけれど、

その生きづらさが最近軽減されてきているのは、自縄自縛になっていたことに気づいているからです。

社会から押し付けられる正しさを自分の正しさだと思い込んでいるとき、人は生きづらいと感じるのだと思います。

ある意味開き直って、社会から押し付けられる正しさと自分の正しさは全く別なんだとあきらめてしまうことは、大事なことなんじゃないかな、と思います。

社会に迎合しないっていうのは言うに易しではありますが。

 

それを考えるときには、福田恒存の言葉を僕は思い出します。

内的な正しさと外的な正しさの折り合いをつけていくっていうことです。

福田恒存は、処世術について肯定していて、社会でうまくやっていくのは大事なことだと。

社会の中でうまくやっていく、っていうのは、外的な正しさをうまく利用していく、ということ。

でも、人間、外的な正しさだけで生きているんじゃない。

内的な正しさも間違いなく存在しています。

 

簡単な例でいえば、春眠暁を覚えず、という通り、

春は寝心地が大変よい。だから朝起きる時間を遅らせたい。

そして、優雅な朝の時間を過ごしながら、花見でもして、お酒を昼からのみたい。

こういう内的な心地よさみたいなものは誰しもあるでしょう。

だけど、社会からは、仕事をすることを求められているし、そういう要請が否応なく訪れるわけです。

そういうときに、ちゃんと折り合いをつけて、自分でコントロールしながら、内的な欲求も外的な圧力にもうまく対処していく、それが処世術っていうものです。

 

でも、現代を生きていると、どうしても外的なほうばっかりに偏ってしまいがち。

外的なほうに偏って行くところまでいってしまうと、人は内的なものと外的なものの区別もつかなくなる。

これが自縄自縛モードのときです。自縄自縛モードがさらに加速すると、もうわけのわからん状況。

 

だからこそ、内的なほうを充実させていく必要がある。

内的なほうっていうのは、感動を伴うものです。

感動するっていうのは、理屈じゃないし、理由とかを聞かれても究極はよくわからん。

よくわからんけど、なんかいい。

そういうのを大事にしていこうぜっていうことを今年はやっていこうと、思っています。

 

話はそれたように見えて、実はそれていなくて、

朝井リョウ氏の「正欲」でも最終的には、内的なほうを優先させていく人たちが描かれているわけです。バッドエンドといえばバッドエンドなのだけれど。

誰かに理解されなくてもいいや、っていうあきらめが最終的には救いとして描かれていて、でも誰にも理解されないでもいいや、って思っていても社会から見つかってしまうと、何かしらの理解を押し付けてくる。

その理解は、固定化されたものでしかなく、社会が納得する形での理解、という浅はかなものです。

でも社会っていうのは、根っからそういうものでしかなく、そりゃ、社会っていうものは、ある程度多くの人に当てはまるある程度納得できるもので構成されているので、

本当の意味でマイノリティを救うことのできる社会は存在していないのではないか。

 

そんなことを考えさせられた作品でした。

 

外的な価値観にとらわれている人として検事の人が描かれているのだけれど、

その検事の人は人を裁く。理解できないものにはふたをして、今まで通りの価値観から理解を押し付ける。枠にあてはめることでしか考えられない。

アイロニーとして、そういう外的な正しさの象徴のような職業なのに、家庭はうまくいっていないっていうことが描かれている。

外的な正しさの中でどれだけ成功しても、家庭はうまくいかないこともあるし、外的な正しさって、もうすでに形骸化してきていて、外的な正しさの中で生きることによって得られるインセンティブはもうなくなってしまった。

昔は、外的な正しさの中で成功すれば、経済的にも成功し、家庭も充実し、理想の毎日を過ごすことができる!みたいな活気のある考え方があったはずだ。

現在でも若干残っているし、自分の中にそれがあることも理解している。

けれども、その外的な正しさを貫くことで得られるインセンティブは、もう老人たちが吸い尽くしてしまっている。

そういう話だ。

理想がない、ということでもあると思う。

理想は幻想だったと、気づいてしまっているから、生きづらい。

これは正常といえば、正常なことで、理想が幻想だったし、どれだけ頑張っても、得られるものはあまりない。っていうことに気づいて、そこに冷めてしまうっていうのは普通のことだと思う。

 

現代の日本には活気がない、と言われるけれど、

当たり前だ。理想がないのだから。

頑張っても無意味じゃん、

成功しても無意味じゃん、

そういう冷めた価値観のなかで生きているのだから。

 

理想がなく、頑張る意味もわからない人たちが向かう先は、刹那的快楽。

それも当然の話で、僕も意識していないと、向かう先は刹那的快楽。

生きていくうえで、理想とか頑張る意味みたいなものをしっかり自分の中にもてていないと、生きづらい。

そういうことを正欲を読んで思った。

 

手っ取り早く理想や頑張る意味を求めると新興宗教に身をゆだねることになるんかな。

僕は古典的な宗教や古典的な名作を知ることは、理想や頑張る意味を見出す上で大変有意義だと思う。

そもそも、ブッダとかイエスとか孔子とか老子とか最澄とか空海とかかっこいいやん。

かっこいい😍って惚れるのって内的なものやん。

こんな風になりたいな、っていうのが本来持つべき理想だと僕は思うねん。

こんな生活したいな、よりもこんな生き様で生きたいな、っていうほうが強度が強いやん。

そういう人生の師となる人物とは本でも出会えるし、リアルにも存在するかもしれない。

そういう理想と出会えて、心底惚れたら、人は頑張って生きようって思うし、社会からの圧力、外的なものに押しつぶされそうになっても復活できると思うねん。

それは別に古典的な名作だけじゃなくて、五条悟でも極論いいのかもしれん。

それはわからんけど、理想を見出して、燃えるっていうのは人間が根本的に抱ええている欲求にあるような気がしてならない。

 

まあそんなところです。ってどんなところやねん。とここまで読んでくれるような忍耐力のある読者はツッコんでくれるだろう。

 

まあ、とりあえず、せっかく読んでくれたので、

最後にまとめておくと、

今年一年、僕自身が意識していこうと思っているのは、今まで身に着けてきたけれどいらない価値観を捨て去ること。

そして、内的なものと外的なものの折り合いをうまくつけていく処世術をみにつけていくこと。

また、自分を熱くさせてくれる理想を見出し、(もう見出しているけど)さらに熱く理想に向かって歩んでいくっていうこと。

あとは、僕自身が誰かの理想になれたらそれは最高やなと思いますが、それはまだ荷が重いかもwまだまだ未熟ものですしね。

とりあえず、フルスロットルで頑張っていきましょう!

 

最後まで読んでいただき、ありがとうございます!

では!

最近ブログを書けてないので、軽く更新する。

こんばんは。

お久しぶりです。

 

久しぶりの更新となってしまったので、

本当に軽く書きたいこと、最近起こったことなどを書いていこうと思います。

 

4月になりましたね。

3月末には学会もどきのようなものがあって、ひたすら忙しく、発表前日まで発表資料ができていなかった笑

 

いや、あれは笑えないくらい焦りましたね。そもそも、学会あるけど何発表する?っていう話になったのが、その2週間前くらいの話で、遅すぎました。

 

割と内輪な感じの学会だったので、多少良かったものの、そうでなかったときを考えると、ゾッとします。

 

とりあえず、頑張って発表しました!

めっちゃガチガチでカミカミだったけど!

それは良いことでしたね。

ちゃんと頑張ったので、そんなに激詰めされることもなく、あっさりと終わっていきました。

 

まあ、あとは、4月になり、修士二年になりました。

あと一年で学生生活も終わってします。

そんな感じなので、

ちゃんと頑張って、

ちゃんと後悔なく、

ちゃんとやり切ったな、

という清々しさを抱えて卒業したいなと、今のところ思っています。

 

ブログもちゃんと更新して、

ちゃんと生存報告を頑張っていきます!

 

それと、朝井リョウさんの「正欲」という小説を読んだので、近いうちに、その感想などを書こうとは思っているし、昨日も書いてみたんです。

しかし、なかなか難しいテーマで、なかなか書き上がる気がしない。

大作になる予感。

 

そんなことを匂わせながら、最後まで読んでいただき、ありがとうございます。

では!

宗教と精神性

今回は、宗教と精神性について書いていこうと思う。

これは、日本全体に広がってしまった宗教観と、

僕自身の宗教観についての記述になる。

 

まず、日本人全体として、どういう宗教観になっているかについて。

日本人は自分は無宗教だと自己認識している人が多い。

そして、宗教というのは、怪しいもので、ぶっちゃけ洗脳されてるんじゃないの?w

っていうのが普通の価値観なのだと思う。

 

これは、オウム真理教の事件だったり、

最近だったら、統一教会の問題だったり、

そういう新興宗教を大きくメディアで取り上げてきたことが影響していると思う。

 

ほかにも、創価学会だったり、幸福の科学だったり、

政治とつながっている宗教もあり、

それに対する不信感や、それってどうなん?という疑問があるのかもしれない。

 

ちなみに、僕は別にそういう政治とつながりのある宗教を否定するつもりでこれを書いていないし、貶める意味は全くないので誤解のないようにお願いします。

 

歴史的にみても、ヨーロッパではキリスト教と政治がつながっていた時期があり、

政治と宗教が癒着すると社会が腐敗していくという経験則からも、

宗教に対する不信感を抱いてしまうのかもしれない。

 

また、日本でも仏教と政治は昔から結びつきがあって、

政治にも利用されてきた歴史がある。

 

そしてニーチェが説いたキリスト教批判についても、

共通認識としてあるのかもしれない。

人間のルサンチマンが、奴隷的な道徳観を生み出しているという考え方だ。

そして、そうしたルサンチマンを利用しているのが宗教であると。

ルサンチマンを解消してくれる宗教は、

弱者を救済しているように見えて、実は信者を利用しているだけだと。

 

これは全くその通りだと思う。

常識的に考えて、その通りだ。

政治や権力と宗教の癒着は社会を腐敗させてきたと僕も思う。

 

けれど、僕は、宗教を考えるときには、その根本を見るのが大事だと思う。

宗教の理念と言ってもいい。

その宗教の目指すところを考えることが大事だと思うのだ。

 

具体的に言えば、

釈迦が本当に残したかった教えは何だったのか?

キリストが本当に残したかった教えは何だったのか?

空海は?最澄は?

そういうことを考えることが大事だと思う。

 

もともとのキリスト教は、

弱者を利用してやろう、

なんていう動機ではじまっているわけがない。

 

仏教も、政治とつながりをもって、

信者からお金を巻き上げよう、

なんていう動機ではじまっているわけがない。

 

歴史を経て、ねじ曲がってしまったり、

権力者の都合のいいように解釈されてきたのが宗教だからこそ、その宗教の本来の教えの部分に立ち返ることが重要だ。

 

日本人の本来の宗教っていうのは自然崇拝だ。

宗教でもないのかもしれない。

なぜなら具体的な善悪も教えも存在しないからだ。

 

僕は日本人の精神性の源流は、間違いなく自然崇拝にあると思う。

山をご神体と見立てたり、巨石をご神体と見立てたり、天地自然の万物に神が宿るというのが日本古来からの信仰のあり方だ。

僕らの先祖は、みな自然を崇拝してきたのだから、そのDNAには自然を神なるものとして扱う精神性が宿っていると僕は思うのだ。

 

日本人の精神性と宗教が切っても切り離せないほど密接につながっているのは、その信仰が自然崇拝だからだ。

日本人の根底に流れているのは自然崇拝だということを誰も説いていない。

それだから日本人は無宗教だと自分を認識する。

じゃあなんで、いただきます、というのか?

じゃあなんで、もったいない、と思うのか?

なんの宗教性もない荒廃した精神性しか持ち合わせていない人間は動物化するだろう。

動物には、いただく、なんていう価値観は存在しないはずだし、

あればある分だけむさぼりつくすのが動物ではないか。

 

じゃあなんで日本人は動物化せずに、その道徳観を維持できているのだ?

そこに古来からの自然崇拝が残っているからではないのか?

 

というのが僕からの問いかけだ。

 

自然崇拝は、1フェムトメートルも怪しくない。

これだけ恵まれた自然環境があって、

四季があって、美しい山や空や桜や海や川があって、

豊かな漁場や豊かな畑があって、

それで自然にありがたみを感じるな、っていうほうが無理がある。

 

日本の場合は、自然災害も多い。

けれど、古代の日本人たちは、それすらも神と思い、祀ってきた。

自然のよい部分、恩恵の部分、プラスの部分だけではなく、

ネガティブな部分も引き受けて、それでも自然を信じて生きてきたのが日本人なのだ。

 

人生にも四季はある。

冬のような寒さに耐えるような時期もあれば、

パッと明るく花開くような春の時期もある。

人間も自然の一部なのだから、当たり前だ。

生きていくっていうのは、ポジティブな面だけではなく、ネガティブな面も引き受けていくっていうことだ。

 

そういうたくましい精神性が日本人の中には今も根付いている。

その精神性と自然崇拝がつながっていないとは、僕にはどうしても思えないのだ。

 

僕はエヴァのカヲル君が好きだ。

エヴァQのカヲル君はたくましい。

覚悟が定まっていて美しい。

シンジのネガティブな部分も引き受けていくあり方がかっこいい。

 

あらゆる宗教は、もともとは、人間に知恵を授けてくれて、

人間がたくましく生きていくことを手助けしてくれるものだったはずだ。

それが宗教の本来性の部分だ。

宗教は逃げるために使うものではない。

逃げないために、力を借りるものだった。

その宗教の本来性が失われたことをニーチェは神は死んだと表現した。

 

その点でいうと、日本では宗教の本来性は、神社には残っている。

僕は人生から逃げないために、神社に通っているのだ。

神社には経典もなにもない。

ただ祈りが残っているだけだ。

 

僕は日本はすごいと思う。

神社は本当にすごいと思う。

僕には愛国心があると言われるけれど、

愛国心を持っているという意識はない。

 

ただ、日本はすごいと思っている。

この国に生まれてきたことに深い意味を感じるし、

この国に生まれてきたことに深く感謝している。

本来、僕の精神性と宗教観はそこだけだ。

 

それに気づくまでに、ずいぶんと時間がかかったし、

いろんな紆余曲折を経たけれど、

それにも意味があったなと、今では感謝している。

「灰の劇場」を読んだので、感想を書いておく。

久しぶりに、恩田陸さんの小説を読んだ。

 

 

恩田陸さんの小説にハマったのは、

大学1年の時だったと思う。

大学1年のときは、とにかく知性を高めようと、

高い知性に触れたい!っていう欲求が強くあって、

佐藤優さんの本を読んでいた。

 

佐藤優さんの本の中で、

恩田陸さんの「夜のピクニック」が紹介されていたのだった。

それで、「夜のピクニック」を読んでみたら、

めっちゃ面白くて、深い学びもあり、

とにかくいい小説だった。

 

小説の一つの効能として、

人生観をストーリーを通して深められるということが挙げられる。

恩田陸さんの小説は、何かしら、

人生観を深められるような視点が盛り込まれているように思う。

それは、今回読んだ「灰の劇場」でもそうだった。

 

この小説は、事実を基にした小説で、

一風変わった構成をとっている。

「事実」は、一緒に暮らしていた女性二人が飛び降り自殺をするということで、

その事実を基にした女性二人に対する想像の部分と、

「灰の劇場」を執筆している筆者のエッセイ的な部分から構成されている。

「灰の劇場」が舞台化されるという設定の小説の部分もある。

 

それらの部分が入れ替わりながら、話が進んでいく。

まあ、当然ながら結末は「事実」に行きつくわけだから、

読み始めなくても、結末は想像がつく。

 

「灰の劇場」

を読んで、思ったのは、

生活を選ぶのか、人生を選ぶのか、ということである。

この「灰の劇場」に登場するMとTという二人の女性(飛び降り自殺をする二人)

がいるのだが、

Tは、早々と結婚して、身を固める。

けれど、すぐに本当は夫のことがすきではないことを悟り、

結局のところ、離婚する。

 

なんということだろう、あたしにも感情というものがあったのだ、夢見がちで、無邪気で、うじうじした、娘らしい感情が。

なのに、自分にはそんなものなどないと思っていた。ずっと押し殺してきたもの、見ないふりをしてきたものに気付かないふりをして、重大な決断をしてしまったのだ。

灰の劇場, 河出文庫, 恩田陸, 94頁

 

これは、Tが、結婚に対して後悔の念を抱いている場面。

Tは、生活を選んで結婚した。

安定した生活を求めて、自分の感情を無視して、条件で結婚を選択したのだ。

 

僕も、もう24歳であり、

結婚というものについて考えたりする夜があったりする。

 

結婚する相手などいないのに、

漠然と、もう20代中盤か、

みたいな気分と同時に、結婚ってどんな感じなんやろ?

みたいな漠然とした妄想みたいなものだ。

 

僕は、昔にブログで恋愛観について語ったことがあった。

 

zakioza.hatenablog.jp

もう3年前か。

めっちゃ懐かしい。

 

根本的には、当時に書いた恋愛観と変わってはない。

ただ、もっと現実的な部分を思い浮かべる。

ずっと一人で生活していく寂しさについて考える。

 

世の中で結婚する人の大半は、純粋にその人を愛しているというよりも、

自分を大切にしたいという思いから、結婚しているのではないか、

と思ってしまう。

 

本来の結婚というのは、

愛を社会的な形にしたものであるはずだけれど、

それは形骸化していて、

中身の伴わない、形だけのポーズになっているような気がする。

 

けれど、一人の寂しさもこの歳になると考える。

独りぼっちで生活していくのは、思っているよりもきついことだ。

考えただけでも鬱屈した気持ちになってくる。

 

寂しさをどうにかしたい、

寂しい思いをしたくない、

そういうネガティブな動機の結婚は、

今や当たり前になってきているのかもしれない。

 

女性の場合は、子供を産んでみたいという場合もあるかもしれない、

お母さんという立場にあこがれを抱いている人もいるのかもしれない。

 

いずれにしても、相手を愛しているから、結婚するというわけではない。

 

これらは、すべて生活を選んだ結果なのだと思う。

先ほど引用したTの後悔は、生活を選んで利口に生きようとした、

けれども、利口に生きられない自分を自分の中に見た、

ということだと僕は思う。

 

たしかに、頭で考えれば、条件が良い方がいいし、

結婚してさみしくない方がいい。

自分のあこがれをかなえられた方がいい。

けれど、人生は頭ではない部分の決断の方が大事だ。

 

もっと言うと、

腹や胸から湧き上がってくる思いによる決断の方が大事だ。

 

えてして、そういう決断は、

一見すると損に思えたりする。

頭ではそっちに行かない方がいい、

とわかっているのに、

行ってしまう、とか、

 

そっちに行くのは怖い、

でも、

行きたくなる、とか、

 

そういう感じの決断だ。

もし、その決断を迫られたときに頭で理屈で自分を押し殺すとどうなるか、

人間はクズになる。これはわかりきっていることなのだ。

 

別に、生活と人生のどちらかを選ぶかという決断を迫られたときに、

毎回、人生を選び続けるのは難しいかもしれない。

 

でも、ここぞ!

というときには、絶対に人生を選び取る勇気がいる。

 

その、ここぞ!のときが、

結婚の人もいるだろうし、

就職の人もいるだろうし、

受験勉強の人もいるかもしれない、

 

いずれにしても、ここぞ!っていうときに逃げないことを心にとめておくしかない。

 

まだまだ、いろいろ書けそうだけれど、

ボリューミーな内容になってしまったので、

またの機会にとっておく!

 

最後まで読んでいただき、ありがとうございます!

では!

 

追記(2024/03/16)

生活を選ぶか、人生を選ぶか、という二者択一で全ての選択を分けるような書き方をしてしまっているけれど、

本来、人生と生活は切り分けることのできないものである。

1番良いのは、生活も人生も諦めないことなのだと思う。

うまくその折り合いをつけていくのも、また人生の一部のような気がする。

ただ、ここぞ!という場面は誰にでもある。

その瞬間には、生活を捨てでも人生を選ぶことも必要なのではないだろうか?

「おりる」思想(集英社新書)を読んだ感想

「おりる」思想という本を読んだので、その感想を書いていこうと思う。

 

 

この本は第一部と第二部に分かれていて、

第一部では、「おりる」というアイデア

第二部では、朝井リョウの作品を基にした「おりられなさ」

について書かれている。

 

第一部と第二部では、抱く感想が違ったりもした。

僕は朝井リョウの作品には親しんできたつもりだ。

とはいいつつ、

ちゃんとすべて読み通せたのは4作品で、

100ページくらい読んで飽きてしまったものもある。

 

僕が感銘を受けたのは、「どうしても生きてる」という短編集で、

これを読んでから、朝井リョウにドはまりした。

それから「死にがいを求めて生きているの」もすごく面白かったし、

「スター」も好きな作品だ。

 

朝井リョウと言えば、「何者」のイメージが強い。

僕は「何者」は映画だけ見たことがある。

けれども僕は基本的に、

映画で内容を知ってしまった小説は読む気にならない

という性分を抱えているので、

「何者」は積読されたまま放置されている。

 

それで、『「おりる」思想』の中でも朝井リョウの作品について言及されているのだが、

その批評?が面白かった。

ぼくが初めて朝井の小説を読んだころに感じたのは、これほどしらけた様子の登場人物たちの中に、じつは「好き」という直球の前向きさが封じ込まれている、ということへの意外さと、自分の中にそうした要素があるのなら、それに沿って好きなように生きればいいのに、という素朴な疑問、さらに、そう思いつつも朝井作品の登場人物らが自分にとっての「好き」と距離を取ってしまうことへの妙な納得感だった。

「おりる」思想, 飯田朔, 集英社新書, 230頁

僕も同じような感想を抱いたことがあった。

なんというか、しらけているのに、しらけきれないっていう感じ。

「おりられなさ」と書かれているけれど、まさにそんな感じで、

日本の社会は生きづらいし、苦しいし、しんどい。

 

でも日本の社会を変えるようなことは難しいし、そういうマクロはあきらめている。

自分の人生についても、正直あきらめそうになっている。

でも自分の人生については、あきらめきれない。

そういう葛藤が朝井リョウの作品の中では描かれているように思う。

 

朝井リョウの作品の中で描かれているのは、

人間の上下意識だと僕は思う。

誰かが上で、誰かが下という考え方だ。

 

例えば、お金持ちは偉くて、貧乏人はさげすまれるべき対象だという価値観。

特別な才能を持っている人、または注目を浴びている人が偉くて、

そうではない人は偉くない、もしくは下である。という価値観。

こういう価値観を総じて上下意識と呼ぶ。

 

ピラミッド型の思考でもある。

昭和の日本っていうのは、この上下意識を利用して、

戦後の復興を遂げたわけだ。

要するに、戦争に負けて、一番下まで落ち切った日本は、

ピラミッドの上のほうに理想を求めて経済的に発展することを求めたのだった。

 

でも平成になり、経済的には復興して、世界的にも裕福な時代になっても、

社会的な問題は全く解決しなかった。

解決しなかったというより、新しい問題が次々と噴出してくる世の中になった。

 

そしたら平成になってからは、

経済的にいくら発展しても世の中はよくならないという時代に突入した。

でも、日本人は何を使って戦後になりあがったのかと言えば、

上下意識なわけで、

その意識を利用してきたからこそ、

いまだにその上下意識の呪縛から逃れられないでいるのである。

 

たしかに経済的に発展して、物質的にすごく豊かになった。

コンビニは便利だし、アマゾンも便利だ。

スマホも今やなくてはならないものになったし、

誰でも素晴らしいテクノロジーを手に入れられるようになった。

けれども、政治はいつまでたっても腐敗し続けているし、

日本の政治が良くなったと思っている人はたぶんほとんどいない。

 

僕にとって大切なのは、

上下意識から「おりる」ことである。

誰かより上でありたいとか、誰かに勝っている状態でなければ気が済まないとか、

そういう意識から「おりる」ことが大事だと思っている。

 

別に自分が特別であることを証明しなくてもいい、

別に誰かと比較して優れていなくてもいい、

そうやって他人との比較や上下意識からいかに脱するか、

これは人生を通じて向き合っていくべき課題だと認識している。

 

僕は自分でいうのもなんだが、学歴の上ではピラミッドの上のほうにいる。

だから、たまーに上下意識に飲み込まれていると、

学歴のない人を下に見てしまっている自分がいたりする。

僕にだって上下意識はある。

それに飲み込まれているとき、

つまりハッキングされているときもある。

けれども、ハッキングされてしまっているな、と気づくこと。

 

これが大事なのだ。

ハッキングされている状態から抜け出すには、

ハッキングされているということを自覚すること、

ハッキングされているかもしれないと疑いを持つこと。

これしかない。

 

集合的無意識からのハッキングというのは、

いとも簡単に起きる。

それは映画「マトリックス」で描かれている通りだ。

この本の中で言われているのは、

「生き残る」のではなく、「生き直す」ということだ。

言い換えれば、今までの生き方の基準(上下意識)を「手放す」ということだ。

 

生きづらさ、というのは思い込みによって生まれる。

こうしなければならない、ああするべきだ、

というhave toの考え方。脅しのような感じ。

 

よく言われたであろう、

「学歴がないと大変」だとか、

「結婚しないと大変」だとか、

そういう脅し文句だ。

実際の人をよく観察してみれば、○○しないと大変、

と言っている本人のほうが大変そうである。

結婚を進めている本人が結婚に満足していないだろうし、

学歴を得ることを推奨する本人が学歴にコンプレックスを抱えていたりする。

 

ちなみに、本当に大変な目にあって乗り越えている人が、

〇〇しないと大変だ!いうことには真実味があるのだろうが、

本当に苦労して乗り越えている人は、

あまり人に押しつけがましく価値観を述べたりすることはないのだ。

 

学歴があっても大変だし、結婚しても大変なことはある、

それが真実なのだ。生きている限り、大変なこと、悩みは尽きない。

過剰に社会から、周りから押し付けられている価値観から、

一度脱却することが大事だ。つまり「おりる」こと。

 

一回、おりてみたけれど、やっぱり結婚したいから結婚する。

それはご自由にどうぞ。だし、

一回、おりてみたけれど、やっぱりお金をたくさん稼いで出世したい。

それもご自由にどうぞ。がんばれ!って感じだ。

 

一回、脱却してみて、自分という本質、

内面に軸足を持ってくるのが大事だと、本書にも書いてある。

では、内面に軸足を持ってくるということはどういうことなのだろうか?

本書では「自分が苦痛に思うことはやらない」と書かれている。

 

たしかに、苦痛に思うことをやらないことは、「おりる」ことにつながるだろう。

でも、自分が苦痛に思うことをやらずに生きていくことは本当にできるのだろうか?

苦痛に思うことをやらないで生きることは僕はできないだろうと思っている。

かならず、社会との摩擦の中で人間は生きていくことになる。

そこに生きづらさを感じながらでも生きる必要はあるのだ。

生きづらさを生み出すものは何なのか?

 

それはさっきの上下意識でもあるのだが、

これについては、内的自己と外的自己について語る必要がある。

人間には内的自己と外的自己がある。

簡単にイメージしてもらいたいのは、外面と内面だ。

 

人間が社会的に生きていくために、

後天的に身に着けるのが外的自己。よそいきの自分である。

そして、外的自己という鎧の内側に存在するのが内的自己だ。

家をイメージしてもいい。

内的自己が家の基礎の部分。外的自己が外に見えている家の部分。

人間は誰しも、この内的自己と外的自己がある。

 

「おりる」というのは、

内的自己に立ち返るということでもあると思う。

「おりる」必要があるということは、

内的自己(家の基礎)が脆弱であるということでもある。

メンタルが強い人は、どういう人かというと、内的自己が充実している人である。

内的自己が充実していて、

社会の荒波(集合的無意識、上下意識からのハッキング)を受けても、

微動だにしない強い基礎を持っていれば、

簡単には「おりる」という発想に至らない。

 

社会の中で生きるときに、なんで「おりる」という発想になるのかと言えば、

世の中から押し付けられる外的自己(競争意識、上下意識など)

に内的自己が押しつぶされてしまうからだ。

肥大化している外的自己に耐えうるだけの内的自己の充実が図れていないと、

「おりる」必要性が出てくる。

 

精神的に強くなるために必要なことは、内的自己を充実させることだ。

内的自己を充実させていれば、常に内面に軸足を置きながら、

外的自己をうまく利用して社会と折り合いをつけて生きていくことができる。

要するに、強い精神性を身に着けていれば、

競争社会の中でもその精神性を大切にしながら、

競争に身を投じることも可能であるということだ。

 

内的自己と外的自己を描いている小説が、

トルストイの「光あるうち光の中を歩め」であるから、

読んでみると良い。

 

内的自己を充実させて精神的に強くなるためには?

こんなブログに書き示せるほど、僕はまだまだ精神的に強くなれていないw

 

どんな結論やねん!とツッコミが飛んできそうで仕方がない。

 

 

でも、そんな簡単に精神的に強くなれるわけはないよね。

簡単に内的自己が充実するなら苦労はないわけで、

毎日挑戦していくほかないのだと思います。

とりあえず、目の前にいる人との関係性を深めていくこと、

感動するような体験を積み重ねていくこと、

それがヒントになっていると僕は思っています。

感動したいなら、ブルージャイアントを爆音で見ればいい。

今なら(2024年3月9日現在)ネットフリックスとプライムビデオで見れます。

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  • 山田裕貴
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森見登美彦 「夜は短し歩けよ乙女」を読んだ感想

久しぶりに森見登美彦の小説を読んだ。

 

 

森見さんの小説のすごいところは、情景がありありと思い浮かぶところだと思う。

本当に自分が京都にいて、京大生になっている状況を追体験することができる。

これは、僕だからという点もあると思う。男であり、受験生時代に京大を目指していたから、特に親和性が高いのかもしれない。

 

また、森見さんの小説は語彙が巧みだ。

僕が使ったことのない語彙がたくさん登場する。

 

数年前、太陽の塔という小説を読んだときには、

法界悋気(ほうかいりんき)という言葉を知った。

法界悋気というのは、他人を羨む気持ちを表している(はずだ)

確か、クリスマスの時に周りがわいわいしているところを横目に見て、

法界悋気っていう言葉が出てきていたと思う。

 

僕はそのせいで、毎年クリスマスになると、法界悋気という言葉を思い出すようになってしまったw

 

夜は短し歩けよ乙女にもいろんな知らない語彙が登場していて、

小説を楽しく読みながら、無意識に語彙力が身についてくれていたらな、と淡い期待を寄せている。

 

平成20年とかに文庫化されているような小説だから、

ネタバレもクソもあるまい。

 

ということで、ネタバレも含みながら感想を書いていこうと思う。

 

まず、森見登美彦の小説は大学2回生くらいで読むのが一番楽しめると思う。

僕自身は、今大学院1年だから、正直に言って、昔の方が楽しく読めた。

大学2回の時の感動や、大笑いに比べると、少し物足りない感じがしてしまった。

僕の感性が衰えている証拠である。

 

自意識過剰な面白い大学生を面白いと思えるだけの感性を持ち合わせているうちに読むべきだと、心底思った。

基本的に、アホな大学生しか出てこない。

一番アホなのは、パンツ総番長と呼ばれる男で、

意中の女性と再会するために、再会するまでパンツを履き替えないという荒行に挑んでいる男だ。

単にアホだ。

こいつマジでアホすぎるやろwって突っ込みながら読むのが面白い。

大学2回くらいであれば、自分の同期と思って突っ込めるから、なお面白い。

 

僕はやはり、書き出しの部分と、締めくくりの部分が好きだ。

“これは私のお話ではなく、彼女のお話である。”

 

書き出しが面白そうであれば、その本は面白い可能性が高い。

書き出しというのは、筆者の全神経が宿っていると僕は思う。

一冊の本を書くっていうのは、そんじょそこらのブログを書くのとは訳が違う。

その書き出しとなれば、なおのこと訳が違う。

だから書き出しが面白そうかどうか、それは一つの判断基準だと僕は思う。

 

締めくくりにおいて「先輩」は、外堀を永遠に埋め続けることをやめ、決定的な一歩を踏み出し始める。

本当に良かったね。そう思った。

 

自意識過剰な男にありがちな、臆病さを存分に発揮しているのが「先輩」なのだが、

物語の終盤でもなお、その臆病さを遺憾なく発揮している。

私はついに所存のほぞを固めて、喫茶「進々堂」を目指した。

言うまでもないが、こちらから誘った以上、ここで逃げ出すなど論外である。

 

森見登美彦,夜は短し歩けよ乙女,角川文庫

 

一応,逃げ出すことは頭に浮かんでしまっているところが,妙にリアルである。

 

一つ、自意識過剰な男が実践できるデートでの会話術が記載されている。

それが、何を喋るかを考えるのではなく、聞きたかったことを聞く、ということだ。

なんや、そんなことかい、って思ってしまうようなことだけれど、

意外と、自意識過剰になっていると盲点になってしまいがちなことなのだ。

 

自意識過剰ということは、自分に意識が向いているということ、

自分との対話であったり、世間から自分がどう見られるかということであったり、

そういうことばかりを気にしてしまう状態をさす。

 

その状態を抜け出すためには、自分ではなく、相手に意識を向けるということ、

その大切さを最後の最後で悟っているのが、面白い。成長したね。って言いたくなる。

 

そうか、この物語は「先輩」の成長物語でもあったのか、

と今更気づいた。

 

まあ、そんな感じで、自意識過剰な大学生が成長していく物語である。

興味があったら読んでみることをおすすめする。

最後まで読んでいただき、ありがとうございます!

では!

 

 

 

本当にありがたい人

もうすぐ、研究室の先輩が卒業してしまう。

僕にとって、この一年は、本当にありがたい一年だった。

 

特にありがたかったのは先輩の存在だった。

確かに同期の存在も先生の存在もありがたいものだったけれど、

先輩がいてくれて本当に良かったな、と思う。

 

先輩は、僕に足りない部分を指摘してくれた。

僕にはない観点、おろそかになりがちな観点、

それを忌憚なく指摘してくれる人だった。

 

はじめのころは、

自分にはない思考だったり、

自分には苦手な考え方だったりして、

受け入れがたい!

そんな考え方したくない!

そんなこと考えなくてもええやん!

って思っていたものだった。

 

でも今思えば、

自分にはない考え方を教えてくれる人、

自分に足りない部分を指摘してくれる人、

そういう人は、本当にありがたい存在なのだ。

 

耳の痛いことを言ってくれる人っていうのは、

一見すると厳しいけれど、

それだけ自分に愛を向けてくれているのだ。

 

そもそもそうやって耳の痛いことを人にいうのは、

めんどくさい。別に言わなくても、指摘しなくても、スルーしてしまえる。

なぜなら、他人だから。他人にいちいち口出しする必要はないから。

 

でもそれでも、あえて言ってくれる人っていうのは、

自分に愛を向けてくれている人だと僕は思うようになった。

 

今までもそうだった。

中学の剣道部の顧問だったり、

塾の先生、

厳しいけれど、愛の深い人に出会った最初のころは、

第一印象は最悪だった。

なんで、そんなに言われなければならないのだ!

理不尽だ!放っておいてくれ!

って反発したものだった。

 

けれど、やはり、後になってみれば、

そういう耳の痛いことを言ってくれる人っていうのが、

僕の人生にとって転機のきっかけを与えてくれていたり、

僕の成長を促してくれている人だったりする。

 

そりゃ、最初のころは、反発してしまうかもしれない。

そりゃ、渦中にいるときは、心中穏やかな状態を保っていられないかもしれない。

それでもいいのだ。

僕にはもうわかっている。

そういう耳の痛いことを言ってくれる人こそが、

僕にとって本当にありがたい人なのだと。

 

これからも、必要なタイミングで、そういう人が現れてくれるのかもしれない。

そんな人に出会ったのなら、僕は今よりも、その人との時間を大切に過ごしたい。

そんな風に思っている今日この頃。

にしても、卒業シーズンはさみしい。