なぜ複素数をやらなきゃいけないのかわからない!という人へ

複素数平面って数3の中でもよくわからない分野だと思う。

微積は単純に計算力を鍛えればなんとかなる。

 

でも、いまいちしっくりこないのが複素数平面。

とりあえず、よくわからないけど、

ドモアブルの定理とか、極形式とか、

公式だけ使えればいいか、みたいな感じになりがち。

 

なので今回は、複素数について解説していきます!

 

なぜ複素数をやるのか?

なぜ複素数なんていう変な概念を導入しないといけないのか?

という疑問があると思うのだけれど、

簡潔に言うと、

複素数を使うとめっちゃ楽な分野があるから!

ということになる。

(電気回路の交流とか、量子力学とかでめっちゃ使う)

 

ぶっちゃけ、虚数という概念が出てきた当初は、

あまり使われていなかった。

でも虚数への理解が進むにつれて、

めっちゃ便利じゃん!っていうことがわかったため、

今では虚数複素数を高校数学で扱うようにまでなったわけ。

 

 

複素数を使うことの一番のメリットは、

オイラーの公式を使えること!

 

オイラーの公式

 

オイラーの公式は、マジで素晴しくて、

虚数を使うことで、三角関数と自然対数を行き来できる。という公式。

 

微積をやるとわかると思うけれど、

微分しても積分しても

 

のまんまなのです。

つまり、微分したり積分したりするときには、

で計算できるし、

 

角度を知りたいときとか、

波として扱いたいときはsin cosで計算できる。

っていうのが複素数を使うめちゃくちゃなメリットなんです。

まあ、大学ではとして扱う方がめちゃくちゃ多いけどね笑

 

大学の数学をやっていると、オイラーの公式は神様

それくらい便利で、よく使うし、

オイラーの公式がなかったら、、、、、と考えるとゾッとする。

 

受験生諸君は「へー、そんなに便利なのかー」と思ってもらえれば良い。

 

あとは、数Ⅱでやったように、

複素数に拡張すると、方程式に解が必ず存在する。

√の中身がマイナスになっても良い!

っていうのが画期的なわけです。

 

他にも、複素数平面をやると便利なのは、

図形の回転が考えやすくなること!

単なるかけ算が回転を表してくれるので、

図形の回転について考えやすくなるのです。

 

こういう感じで、複素数を使うことで、

めっちゃ便利なことがあるわけです。

大学では複素数だらけ。

だからこそ高校でその基礎をやっておこう!

というわけなんですよね。

 

というわけで、複素数について解説しました。

では!

微分とは何か? なんで微分をするのか? を簡単に解説してみた。

塾でバイトしているときに、

よく聞かれたのが、

なんで微分が必要なんですか?

そもそも微分って何なんですか?

という質問

 

この質問は、僕自身が受験生時代に抱えていたものだったし、

学校の先生はあまり教えてくれないことでもあるから、

ここで解説しておこうと思う。

 

ちなみに、文系でも簡単に理解できるよう、

ここではリミットの計算はしなくても良いように説明する。

 

微分とは何か?

微分とは何か?

ウィキペディアなどで調べると、

次のようなことが書かれている。

数学における実変数函数(英語版)の微分(びぶん)、微分係数微分商または導函数(どうかんすう、英: derivative)は、別の量(独立変数)に依存して決まる、ある量(函数の値あるいは従属変数)の変化の感度を測るものである。

微分 - Wikipedia

もうみただけでうんざりしてしまった人もいるのではないだろうか笑

 

簡単に言うと、

関数の接線の傾きを調べたいときに微分をする。

 

なんで関数の接線の傾きを調べたいのか?

それは、なぜ微分をするのか?

ということに関係するので、後述する。

 

なぜ微分するのか?

結論から言えば、

なぜ微分するのか?

関数の概形がわかるから。である

 

微分の目標は関数のざっくりした形を知ることにある。

関数のザックリした形(概形)をつかむためには、

関数の増減がわかればいい。

増減がわかるためには、関数の接線の傾きがわかれば良い。

接線の傾きが正なら増加するし、接線の傾きが負なら減少する。

例えば、y=x^2で考えてみる。

 

微分すると

y=2x これはさすがに計算できてほしい笑

 

x=1のときと、x=-1のときを考えてみれば、

 

x=1のとき、y=2 正 よって増加

x=-1のとき、y=-2 負 よって減少

 

実際にグラフを見てみると、

x=1のとき増加していて、

x=-1のとき減少しているのが見てわかるはず。

 

 

 

 

なぜ増減が知りたいのか?

大体の関数は曲線である。

曲線というのは、点と点をなめらかにつないだら曲線になる。

 

つまり、いつ増えて、いつ減るのかがわかれば、

あとは頂点(極大点)と頂点(極小点)をなめらかにつなげれば良いだけ!

ということになる。

増減表を書く理由

だから増減表では、

極大点と極小点の座標、

そして増減を書き込むわけ。

 

なんとなくわかっただろうか?

 

増減表を書きなさい!

っていうのは、

増減表に関数の概形を書くための情報が整理されて圧縮されているから。

 

増減表さえ書いてしまえば、概形は自然と書ける。

だから増減表はめんどくさくても書かなければならないし、

めんどくさいけれど、概形を書くための一番の近道なわけよ。

 

なんでグラフの概形が知りたいのか?

それは、あるデータが得られたとする。

そのデータが数式として書けるときに、

その数式をグラフにできた方が視覚的に理解ができるから。

 

視覚的に理解ができるというのは、

単に、具体例を示せば体感としてわかるはず。

 

と書かれるよりも、

 

 



 

こうやってグラフで見せてくれた方が見やすくて理解しやすいでしょ?

 
だからなるべく、数式はグラフにしたいわけ。
 
 まとめると、
  • 微分とは、関数の接線の傾きを調べるためのもの
  • 微分をする理由は関数の概形が書きたいから!
    
では勉強頑張ってね!
以上。
                                     

大学生活の中で一番濃い時間を過ごしている

最近は、大学生活史上最も忙しい。

就活などでよく言われるガクチカは、

僕にとっては全くもって、今。としか言いようがない。

これまでの大学生活では、

力は入れるものではなく、

抜くものだと。

 

そういう価値観で、力を極力抜いてきた。

人との関係もなるべく力を抜いてきたし、

勉強もそんなに力んでた訳では無い。

剣道もそんなにガチでやってたわけでもなく、

単にたまに剣道をやりたいときにやっていただけであった。

 

 

別に自分の限界に挑戦などしなくてもよくて、

わざわざ自分で忙しくしようと思わなければ、

何も忙しくなどないのが大学生活である。

 

だがしかし、なんと、今はめっちゃ忙しい。

気がついたらもう10月が終わっていた。

 

これまでの自分であれば、

この忙しさを避けていただろうし、

手を抜いて、力を抜いて、逃げていたであろう。

 

しかしながら、第五希望の研究室まですべて落選した結果入った今の研究室は、

ものすごく面白く、楽しい。

忙しさだけであったなら、耐えることなどできなかった。間違いなく。

 

でも、忙しくかつ、楽しいのなら、

なんとかなってしまうものなのだと、

最近思うようになった。

 

忙しいからこそ、こうやってわざわざ朝のちょっとした時間にブログも書こうと思えるわけ。

 

忙殺されてる今こそ、僕が学生時代に力を入れたことなのだ。

ラッキーだなーとめっちゃ思う。

自分の最大の長所は、ラッキーなこと。幸運なこと。

そんなことを思う朝でした。

 

では良い一日を。

世界中の研究者によって開拓される「一歩」

研究者って、どんな感じなのか全くわかっていなかった。

おぼろげに研究者というものをイメージしていたけれど、

最近はっきりわかってきた。

研究者っていうのは、

どこまでも穏やかで、

どこまでも元気な人たちだ。

 

研究者っていうのは、

ひたすらにやりたいことをやっている人たちだ。

ドクターまで進む人たちは本当にすごい人たちばかり。

 

こんなすごい人たちと直接関われるなんて、

恵まれているなと思う。

 

そういう人たちは、

穏やかな人が多い。

というか、穏やかでない人をまだ見たことがない。

 

大学の先生にはたまに性格が悪い人も授業などでは見たことがある。

しかしながら、研究者にはいないように思う。

 

それにはいくつか理由があるように思う。

 

まずは、さっきも書いた通り、

やりたいことをやっているということだ。

 

人は自分が生きたいように生きることができていると感じるときに、

幸福感を感じるのではないかと思う。

自分がやりたいことをやれているかどうか、

自分が関わりたい人たちと関われているか、

自分が住みたいと思う土地に住めているか、

それが大きな幸福のファクターになっているのではないかと思うのだが、

 

研究者は圧倒的にやりたいことをやっている。

 

こうしていきたい、ああしていきたい、

これが研究したい、これをやってみたい

というあれこれを、ひたむきに、実直に、毎日明け暮れている人たちだと思う。

 

本当に、なぜか知らないけれど、

学部4回生よりも修士の人の方が研究室(研究所)にとどまる時間が長いし、

修士よりも博士の人の方が研究室(研究所)にとどまる時間が長い。

 

教授クラスなると、どうしても他の雑務などが絡んでくるから、

研究している時間がとれなくなってくるらしいが、

そこに至るまでは、

大学にいる期間が長くなればなるほど、研究に当てる時間が長くなるように思う。

 

これは僕だけが感じることではなく、

かの有名な森博嗣氏も本の中に書いていた。

森博嗣氏の本の中でも特に理系大学生にオススメしたいのは、

これなのだけれど。

 

この本の中に書かれている研究の様子というのはかなり、現実に近いものだと思う。

 

僕が最近関わらせてもらっている方々も、

この本に書いてあることに近い方々ばかりだ。

 

つくづく、僕は未熟なのだと感じる。

世界は僕が思っているより、

ずっと深いし、

僕が思っているより、

わかっていないことだらけなのだ!と

いつも思い知らされる。

 

学部4年間で学んできたことですら、

まだまだ大したことがなかったのだなと思わされる。

 

それくらい、まだまだわからないことだらけだし、

博士課程の方々は、すごいなと思う。

でも博士課程の方々ですら、まだわかっていないこともあって、

研究室というのは、そのわかっていないことを次世代が受け継いで、

さらに研究を進めていくという場所だということらしい。

 

最近になってそれがよくわかってきた。

 

研究という行為は、人間の業だと思った。

人間だけが行う業だと思う。

 

脈々と研究が受け継がれ、

たくさんの人々がそれぞれの分野で最善を尽くし、

いまある最大限のリソースを費やして新たな一歩を開拓していく。

 

その新たな一歩を築くために、一生を費やす尊敬すべき研究者が世界中にいて、

何も知らない僕ら一般市民は、

それらの恩恵を享受しながら、

のほほんと過ごしているのだ。

 

僕がこんなことを書いている間にも、

世界中の研究者が一歩を開拓している。

 

それに思いを馳せる今日この頃である。

以上!

僕が院試に合格するまでにやったことについての記録 失敗と成功についての記録

今回は、タイトルの通り、

僕が院試に受かるまでにやったことについて書いておく。

今後院試を受ける健全な青少年、もしくは淑女の方々に参考にしていただきたい。

 

過去問の入手

まずやったのは、図書館へ行くことである。

図書館に行って、過去問を入手すること、

これがまず行ったことであった。

 

我が学部においては、

過去3年分の過去問を入手することができたため、

図書館で借り、

ひたすらそれをコピーすることがまずは行うべきことであった。

 

なにはともあれ、過去問があればなんとかなるだろう。

という安易な考えは、8割正しい。

残りの2割についてはおいおい明らかになっていくため、

お楽しみに笑

ざっくりとした計画

過去問を眺めながら、

どんな問題が出るのか、

どれくらい難しいのか、

それを肌で(目で)感じることが次にやったことである。

 

大学4回生なんて皆、

過去問を最初から解く気力、

もしくは体力を3年間を通して喪失しているため、

最初からそんな苦行を行うべきではない。

ガス欠すること必至である。

 

そのため、まずは眺める。

そこから始めた。

眺めてから、ある程度の計画を頭に妄想する。

できれば紙に書き出すのが良いだろう。

とりあえず、どの時期にどれくらいの勉強量が必要になるかの概算をここで立てた。

その概算が当たるか否かはあなた次第。

僕は大いに外れたが、それは気にしないことにする。

教科書の入手

次に、教科書の入手である。

入手していた教科書は問題ない。

入手していなかった教科書は、

このときに入手しておくべきだ。

 

間違っても、人と共有などしないように。

ケンカをして仲が悪くなる。

図書館で借りても良いが、

僕のような「教科書に直接書き込みたいタイプ」は中古で買った方が良い。

教科書の通読

教科書を入手したら通読せよ。ただそれだけだ。

教科書の問題を解く&暗記

教科書を通読したら、問題を解き、

できる問題とできない問題を仕分け。

 

できない問題も多数あるとおもうが、

あまり気にしないこと。

 

院試といっても、そこまで難易度は高くない。

例題レベルで十分な場合が多い。

演習問題はレベルが高すぎて歯が立たないだろうが、

大学受験とはものが違うため、

気にしてはならない。

 

もう一度言う。

気にしてはならない!

 

完璧主義には絶対になってはいけない。

全く意味不明の問題もあるだろうが、

そんな問題は受かるためには必要ない。

これだけは肝に銘じておくこと。

それらの反復、過去問の反復

それからは、できない問題を中心に反復である。

あくまでも理解できる範疇のものに限る。

全く理解の及ばない問題は反復の対象外。

とりあえず、解説も載っていて、

なんとなく理解できるものだけに絞って反復しておくと良い。

出そうな範囲を予測する

上記のことを大体8月1日までにやっておくと良い。

というか、ぼくはそうした。

8月1日からは、出そうな範囲を予測して、

それに絞って反復した。

これには異論がある人もいるだろうし、

ない人もいるだろうが、

 

出そうな範囲は予測しても大して役に立たない。

 

ということだけは言っておく。

だが、やらないわけにもいかなくなってくるのが8月1日だ。

だから、やりたいなら出そうな範囲を予測せよ。

しかし、それに意味があるかないかはあなたの運次第である。

でなさそうな範囲が出題されて焦る当日

僕には運がなかった。

だから全く予測の範囲外の問題が出題されてしまった。

だから8月1日からの勉強については、

ほぼ水の泡と化した。

 

反省としては、

もっとちゃんと教科書をまんべんなくやっておくべきだったということだ。

 

過去問に出ていると言っても、

それがあなたの年に当てはまるかは、

別問題だということを肝に銘じておいてほしい。

でなさそうな範囲が出題されたが、もがいた。

まあ、出なさそうな範囲が出題されて、

ものすごく焦った。

1問目から全くの

 

ん?なにこれ?

 

だったのである。

焦らない方がおかしい。

 

あー。なるほどね。

1問目だけ難しいやつね。

冷静に他の問題を解けば良いんでしょ?笑

驚かせるなって笑

 

と希望に胸をきらめかせながら、

次のページを読んでみる。

 

しかし。

 

ん?なにこれ?

過去問では見たことないけど。

解く問題、間違ったかな?

 

なのである。

 

それが開始10~20分であった。

 

開始20分にて、

僕は

 

ヤバい!!!!!

これは、マジでヤバいぞ。

なんとかしないと。

 

となり、

 

それから死に物狂いで頭をフル回転させ、

なんとかして解答を作り上げた。

 

どうしてもできない問題もあったため、

当初解くはずではなかった、

量子力学まで解き始めたのだった。

 

春休みに暇すぎて、

12歳の少年が書いた量子力学の教科書

 

 

という本を読んでいたためである。

 

もしかしたら、

春休みのあれが役に立つかも知れない!

わらにもすがる思いで、解き始めたが、

無理だった。

なんか積分がうまくいかないのである。

 

あ。

 

これ。

 

詰んだやつじゃん。。。

 

となり、試験終了であった。

 

 

それから研究室の仲間との地獄の答え合わせである。

もともとできなかったのにも関わらず、

さらに間違えた問題を発見してしまい(させられてしまい)、

心中穏やかではなかった。

 

もう落ちたな。と悟っていたため、

その日に落ちた!という記事も書いたのだった。

(すでに削除済み)

次の日は面接であるというのに、

なんともお気楽な記事である。

頭がおかしくなっていたのだろう笑

 

そして面接もあっけなく終わり、

その日もやけくそな記事を書いた笑

(これも削除済みです、ご了承願います)

 

 

 

タイトルからにじみ出る、やけくそ感。(を想像で補完してください)

 

当時の感情がかなりこもっていると思うので、

絶望してるアホな奴を見て笑いたい人は是非とも読んでいただきたい。

(もう削除してしまいました。すいません。)

今の僕が読んでもかなり笑える笑

 

結果、受かってた

結果は、受かっていた。

 

 

 

本当に

知らないけど、受かっていた。

 

え?

受かったの?あれで?

 

というのが本心であった。

受かるわけない。

と思っていたため、

意味がわからなかった。

 

しかしながら、

一つ言っておくのは、

どれだけヤバくても、あがけ!

ということだ。

 

あがけるだけあがいておけば、

僕のようになんとかなるかもしれない。

 

しかし、あがかなければ、落ちるだけだ。

 

絶望している暇があったら、試験中はあがけ。

僕から言えるのはこれだけである。

 

参考になったかはわからないが、

こういう院試の失敗例(成功例)もあるということを知っておくのは別に損ではないはずだ。

ぜひ、まわりの人にも教えてあげてほしい。

 

志ありきで本を読め!

最近は、言志四録にハマっている。

 

言志四録』(げんししろく)は、佐藤一斎が後半生の四十余年にわたって書いた語録。指導者のためのバイブルと呼ばれ、現代まで長く読み継がれている。

言志四録 - Wikipedia

その一節に、

志ありきで本を読め!

という内容の一節がある。

 

志があれば、どんな日常の些細な家事や行動においても、それには学問がある!と。

しかし、志がない状態でいくら本を読んだところで、何も身につかない。

というような内容が書いてある。

 

自己啓発本は意味がないとか、

読んでも実践しないから意味がないとか、

そういうのは読者の問題であって、

著者の問題ではないのである。

 

読者に志がないから、すべてが無意味なのだ。

そもそも、日本人には志がない。

だから、勉強しても何も身につかない。

身につく物がないから、安易な自己啓発本を読んでみたりする。

しかし、読んでも読んでも何も身につかない。

するとさらに焦ってくる。

そういう負のスパイラルがそこにはあるのだ。

 

根本的に変えるには、

日本人が志を持つほかない。

 

志というのは、

生きる目的を定めるということでもある。

何のために生きるのか。

それが大切なのだ。

 

志に生き、志半ばで死んだ人物といえば、

吉田松陰である。

吉田松陰のような大志があれば、

どんな本でも学ぶことができるだろうし、

どんな内容の本からも何かしらの学びを受け、

実生活に役立てたに違いない。

 

志をさらに言い換えれば、

熱く生きるということだ。

自分の人生に正面から向かっていくということだ。

その熱量さえあれば、

どんなことも学びに変換していける。

 

根本的には上記の通りだが、

志はそんなに簡単に身につくものではない。

だから、少しだけ自己啓発本の選び方を紹介しておく。

 

それは、自分と似た経歴を持つ著者を選ぶ。

ということだ。

例えば、僕なら神戸大学にいるわけだから、

そこそこ高学歴で成功している人物の本になる。

けれど、東大出身者では少し肌に合わない傾向があるかもしれない。

 

あとは、自分の育った背景を考えることだ。

僕ならば、かなり頑張って勉強した結果の得た学歴なため、

生粋のエリートというよりは、

ある程度失敗してきて、そこから学びを得て、成功している人の方が肌に合う。

むしろ学歴がない人の本の方が学びが多いこともある。

 

そのようにして、

自分の背景と合致した著者を選ぶことだ。

 

そして、内容はある程度普遍的なことが書いてある本が良い。

具体的なことしか書いていない本は自分に当てはまらない可能性が高いからだ。

著者自身が具体的なことを帰納して抽象化している本は信頼できる。

 

そして、自己啓発本を読むときのルールは、以下の二つのみ。

 

  • 必ず心の琴線に触れた一言は書き残すこと。
  • 必ず本の中から一つは実践してみること。

 

たったこれだけのルールで、かなりの自己啓発本は意味のある本に変わる。

自己啓発本の中に書いてあることを律儀に全部実践する必要なんて1ミクロンもないし、

そんなことは不可能だ。

 

そんなこともわからずに読んでいる人がいるらしく、

僕は驚愕した。

 

ここに書いたようなことは、常識だと思っていたため、

これまで書く必要性もないと思っていたのだが、

どうやらそうでもないらしいことを知ったので、書き残しておいた。

ぜひ参考にしていただきたい!

 

以上!

人よりも体が弱いからこそ、健康に気を配り、生活習慣病にかかりにくい

僕は体が人よりも強くない。

すぐに疲れてしまうし、

体調も崩しやすい。

 

高校生のときは満員電車に乗るだけで体調を崩していた。

それくらい僕の体は強くはない。

 

こんな体で生きていると、

どうしたら自分の体にとって辛くないのか、

どうしたら今よりはマシな体になるのだろうか、

ということを嫌でも考えることになる。

 

だから、僕は誰よりも早く白砂糖を食べなくなったし、

人よりも多くの健康に関する本を読んできた。

西洋医学の欺瞞についてもよく知っているし、

東洋医学的な観点が健康法においては重要であるということもよく知っている。

それに今では自分で健康的になるような食生活を実践している。

 

どれもこれも、僕の体が弱かったからできたことだ。

周りの屈強な男子を見ていると、

食生活は荒れている。

たぶん彼らが食生活を改めるのは20年後などに病気になってからであろう。

 

僕は、今気づいてしまっているから、後々のそういう生活習慣病にはかかりにくい。

 

体が弱いということは、

一見すると良くないことである。

現に僕は体が弱いことにコンプレックスを持ってきたし、

それは今でも残っているような気がする。

 

しかしながら、長期的な目線にたてば、

今は楽しめないことが多くても、

年をとってから楽しめることが多いのかもしれない。

 

体力がないからこそ、

本を読むようになったし、

映画も見るようになったし、

自分が疲れない程度の楽しめる運動量も知っている。

 

年を取って、体力が衰えてきても、

もともと僕はそれと向き合ってきているから、

楽しめるのかもしれない。

 

多くの老人は体力が衰えてくると活力を失ってしまったりするようだ。

しかし、僕のような人間にとっては、体力がないことは普通のことで、

体力がなくても楽しめる方法を体得している。

 

どんなことでもそうだけれど、

何か失ったことがあれば、何かを得ている。

 

僕は若いから、どうしても今楽しみたい気持ちが強いし、

今が楽しめなければ意味はないのかもしれない。

けれど、年を取っていくことに楽しみを見いだせるのは、

意外と悪いことではないのかもしれない。

 

多くの人が楽しめないことを僕は楽しめるかもしれないのだから。

そう考えてみると、これも一つの神様からのプレゼントなのかもしれないな。

と思う。