エーリッヒフロム「愛するということ」を読んだ感想

エーリッヒフロムの「愛するということ」を読んだので、その感想を書いておく。

 

 

この本、本当にいい本なので、おススメ。

 

以下、はじめにより引用

 

人を愛そうとしても、自分の人格全体を発達させ、

それが生産的な方向に向かうように全力で努力しないかぎり、

けっしてうまくいかない。

特定の個人への愛から満足を得るためには、

隣人を愛さなくてはならないし、

真の謙虚さ、勇気、信念、規律がなくてはならない。

これらの特質がほとんど見られない社会では、

愛する能力を身につけることは容易ではない。

実際、真に人を愛せる人をあなたは何人知っていますか?

しかし、その仕事が困難だからといって、

それを口実に、その仕事の困難さや、その仕事を達成するのに何が必要かを知ろうとする努力を放棄してはいけない。

この部分に、この本でフロムが言いたいことが詰まっていると思う。

 

愛っていうのは、どこまでいっても、個人が個人を愛するっていうことだととらえがちだけれど、フロムは、私たち個人個人の愛には社会的な影響があるのだと説く。

 

現代には現代なりの社会的な影響のもとに愛もあると。

 

現代とは、資本主義の時代だ。

資本主義は、なんでもお金に換算できるということが前提になっている。

商品はもちろんお金に換算することができるし、

人間の労働力もお金に換算することができる。

時給という概念も、資本主義があってこそだ。

 

お金に換算することができるということは、

交換可能なものに置き換えることができるということだ。

資本主義を象徴しているものと言えば、僕はコンビニを思い浮かべるのだが、

コンビニはどの地方に行っても同じ商品を売っているし、

どの地方でも同じような接客だし、どの地方でも交換可能だ。

 

逆に、その土地にしかないもの、

例えば、神社や山や川などは、その土地に固有のもので、

交換不可能なものだ。

 

今の世の中を見渡してみると、いかに交換可能なもので埋め尽くされているか、身にしみてわかる。

その土地にしかなかった商店街は、ショッピングモールに代替され、その中に入っている店舗はすべて交換可能なものになっている。

 

資本主義は、安全で快適で便利なものを推進していこうとするという性質がある。

この資本主義の交換可能性は、便利で安全で快適であるがゆえに、

精神的に豊かでない人間にとっては不安を生み出すものでもある。

 

資本主義では、システムの中に組み込まれて、その枠組みのなかで、

歯車として機能することが求められる。

歯車としての機能を求められるがゆえに、人は没個性的になっていき、

徐々に画一化されていく。

日本の教育は、まさにこの没個性を推し進め、社会の歯車を作るための教育に成り下がっている側面が大きい。

 

フロムの指摘は、このような資本主義社会の中に生きていたら、

そこになんの疑問も持たずに生きていたら、

愛するということの本質をはきちがえてしまうのだということだ。

 

愛すらも打算になり、

愛すらも交換可能であるかのように勘違いしてしまうということだ。

 

マッチングアプリにどっぷりはまりすぎてしまう人がいると思うが、

それは交換可能な世界にハマってしまうということだ。

たとえ、マッチングアプリで理想の異性と出会い、交際したとしても、

マッチングアプリの中には、交換可能な異性にあふれかえっている。

その交換可能であるがゆえに、その交換可能性への期待が人を勘違いさせてしまうのだ。

 

つまり、交換可能な範囲の最大値を求めようとしてしまうということ。

資本主義とは、利益の最大化の追求だ。

人間の恋愛も資本主義の中で毒されている限り、

利益の最大化という幻想に毒されることになる。

 

自分を商品として売りわたし、その商品で得られる最大の利益を得ようとしてしまう心理がどうしても働いてしまうということだ。

 

このような社会の中で、無目的に恋愛をしても、無目的に人を愛そうとしても、

その愛は資本主義の枠組みの影響のもとでの愛でしかない。

 

フロムの説く、愛する技術の鍛錬とは、

そのような資本主義の枠組みにとらわれない愛し方を身に着けるということだ。

 

愛はとことんgiveするものだ。

give&takeに愛はない。

愛はgive&giveだ。これはもう言い古されたことだと思うけれども。

 

愛の人と言えば、イエスキリストだが、

真に愛することができる人物というのは、

周りの原罪すらも背負って、周りの人を助けようとする人のことだ。

 

自他を分けて、断罪するのではなく、

自他を分けず、周りの人も我が事ととらえて、周りの人の罪も背負うのが愛。

 

資本主義の常識から言ったら、狂気にも思えるが、

それができる人を愛に習熟した人というのだろう。

 

僕もそういう人間でありたいが、

最近、愛じゃなかったな、と気づかされることが多々ある。

こんなことを書いている僕自身が、資本主義の枠組みにどっぷりとつかってしまい、

その枠組みに執着し、愛から離れていた。

しかも今もなお、その執着を捨てきれずにいる。

 

そんな自分を嫌悪するのだけれども、

そんな自分すらも愛して生きていかなくては、愛の人に近づくこともできない。

自己犠牲は愛じゃない。

 

愛する人がいるとして、

その愛する人のために悲壮感を漂わせて、自己犠牲的に尽くしても、

それは愛じゃない。

ただ単に自己犠牲している自分に酔っているに過ぎない。

 

かといって、自分のことを優先していたら、

自分のことばかりを考え、損得勘定でしか動くことのできない打算人間になり、

愛を忘れてしまう。

 

愛するっていうのはものすごく難しい。

だから努力が必要だし、鍛錬が必要だと。

そうフロムも説いている。

 

僕も未熟だけれど、鍛錬していきたい。

 

 

 

 

 

もう自分で自分専用の拡張機能を作れる時代だ

最近、GPTがさらに進化したようで、

僕も使いまくっているのだけれど、

すごすぎる。

 

今日はその一端として、

Chromeの拡張機能を作ってみた結果について、書いておこうと思う。

ブラウザを開いて、拡張機能のアイコンをクリックすると、

このようなポップアップ画面が表示される。

ちなみに、デザインも少し現代的な感じにしていて、

真四角ではなく、角が取れた四角にしている。

 

下の緑のSaveボタンを押すと、以下のような感じになる。

チェックボックスが出るようにした。

ちなみに、僕は一切プログラムを書いていない。

GPTに命じ、その返答をそのままコピペしただけだ。

 

それで僕のやりたいこと、僕に必要十分な機能が備わった拡張機能を作ることができる。

だれでも可能だ。

 

なんてこった。すげえ、と少し感動した。

もっと凝ったものをつくるには、何往復ものGPTとの対話が必要なのだろうが、

それは、必要に応じてやればいいし、

自分だけのオリジナルプログラムを作りたいという欲求にこたえてくれるという意味でも、面白い。

 

みなさんも、自分だけの拡張機能を作ってみてはいかがだろうか。

自然な関係性とは何か。

最近、エネルギーがなかった。

周りの人にも「元気ない」とか、「エネルギーないね」とか、言われて、

かなり深刻なほどエネルギーがなかったと思う。

 

エネルギーないときって、

たしかにエネルギーない自覚はあるのだけれど、

エネルギーが戻ってきたときに、

やっとエネルギーなかったな、と気づく。

 

なんで、エネルギーないときに、

自分にはエネルギーがないと気づけないのだろう。

自分にエネルギーがある状態でないと、

自分の状態にすら気配りできないということなのだろうか。

 

エネルギーがないときって、著しくパフォーマンスが下がるし、

明らかにリアクションが悪くなっている。

周りに心配されるっていうのは、

周りの人の気をひいているということになるし、

ひいては、周りの人からエネルギーを奪っている。

 

例えば、恋人との関係性で、エネルギーが自分にない状態になっているとする。

そういうときに、周りに心配をかけているとしたら、

それは、もはや自分だけの問題ではない。

周りの人からエネルギーを奪って、

その恋人にそのエネルギーを与えてしまっているのだとしたら、

それは周りの人にとっても迷惑な話だ。

自分と恋人との関係性だけが大切なのではないし、

周りの人ともいい関係性を築いていくことは言うまでもなく大切なことだ。

 

自分と恋人との関係だけを優先させるのは、

そういう意味でもやってはいけないことだ。

たしかに、恋人との関係性も大切だし、恋人を優先する気持ちもわかるし、

そうなりがちなのもわかる。

けれども、それではだめだ。

 

人を大切にするっていうのは、

自分と相手だけではなく、その相手の背景にいる人も大切にしてこそだ。

関係性を大切にするというのは、

相手が元気でいることができ、

周りに良い影響を与えられる状態でいられるようにするということだ。

 

恋人との関係で、元気がなくなり、

周りの人に心配をかけるような付き合い方をしていては元も子もない。

 

お互いがお互いを大切にするというのはエネルギーを循環させるということ。

エネルギーを循環させることができるなら、相手から奪わないし、相手に与えても枯渇しない。

 

どうすればエネルギーを循環させることができるのか、

それはお互いが我慢しないことはもちろん、

お互いがエネルギーの高い状態でいるということだ。

だいたいの場合、どちらかが我慢しすぎている状態になるし、

我慢を強いるのと、我慢を強いられる関係性になりがちだ。

それがエネルギーの奪い合いの関係性。

エネルギーの奪い合いをやっている場合じゃない。

 

自分が幸せでないと誰かに幸せを与えることなんてできない。

でも自分が幸せであるためには、周りの人が幸せであってほしい。

そういうパラドックスが幸せにはある。

 

自己犠牲的なやり方で、相手を幸せにしようとしても、

それは自分のエゴだし、頑張っているのは幸せじゃない。

相手を幸せにしようとして、何かをしてもたぶん相手は幸せにはならないだろう。

 

そういう作為的なことじゃなくて、もっと不確実でもっと柔らかいところにしか幸せはないのではないだろうか。

作為的じゃないところ、偶然性、たまたま、いいタイミング、

そういうのは、相手のことを常日頃から気にかけているから起きることでもある。

思いがけず利他という本がある。

思いがけない利他って、本当の利他だ。

利他的になろうとして利他的にふるまっているうちはまだ偽物に違いない。

利他的になろうとしなくても、利他的に自然になっている状態が本物だろう。

 

そこには自意識もエゴもなく、作為もない。

ただ、相手の幸せを祈る気持ちが現象になって立ち現れただけだ。

 

水は、やがて蒸発し、雲となり、雨となって循環するように、

祈りの気持ちは、やがて現象となって降りてくる。

自然っていうのは循環だ。

エネルギーも循環することが大事といったが、

循環することが自然であるからだ。

 

誰か一人だけにエネルギーを注ぎ続けている状態は、自然じゃない。

そういう関係性はいずれ破綻するのは目に見えている。

なぜなら自然じゃないから。

自然じゃないことはいずれ壊れるように、この世はできている。

日本では、自然を崇拝してきた。

なぜ自然を拝むのか、

自然は人間にすべてを教えてくれているから。

 

どうしたら関係性がよくなるのか、それも自然に学べるし、

どうしたらエネルギーを循環していけるのか、それも自然に学べる。

 

日本神話は、自然をそれぞれ神さまに例えて、物語にしている。

天地自然、万物を神様にあてがって、

それぞれの関係性から学べるようにしてくれている。

 

本当に日本の神話はすごいのだ。

人生に行き詰まったら、日本神話に帰ればいい。

そこからメッセージを受け取って、日常に生かしてけば、

自然な方向に導かれ、自然にうまくいく。

 

出雲旅行記

出雲に旅行に行ってきた!

なので、その記録を残しておこうと思う。

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まず、出雲の前に砂丘に行った。

めっちゃ綺麗でした。

風が強くて、砂嵐に遭いました😓

砂の風って痛いんやなぁと思いました。

にしても綺麗!

 

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次に水木しげるロード&記念館に行きました。

水木しげる偉大やなって思いました。

これだけ街から愛され、持ち上げられる人ってなかなか、いないんじゃないかな。

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この名言が僕は好きです。

このチャンチャンコの件は、

全ての人間に当てはまることで、

こういう生きていることの背景や、

背後にいる霊的な存在を感じるのって大事なことだし、

そういうことを大事にしていたからこそ、生まれた作品が鬼太郎なんだなぁと思いました。

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美保神社にも寄りました。

知らずに寄ったのですが、

事代主神と、美穂津姫命を祀っている神社で、

綺麗な港のちかくにあります。

この神社では、事代主を恵比寿天と習合していて、

僕の好きな西宮神社では、蛭子大神を恵比寿天と習合しているのですが、

事代主も恵比寿なんや、という新しい発見があり、面白かったです。

 

また、日本書紀では、美穂津姫命は大国主の母神にあたり、

出雲に行く前に、美保神社に参拝できたことは幸運でした。

 

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港の景色綺麗でした!

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次の日、あいにくの雨でしたが、

出雲大社に行きました。

いい空気感でしたね。

男性的な背中の大きさみたいなものを感じました。

特に素戔嗚命を祀っている摂社では、猛々しい空気感を感じ、男性性の品上がった空気を感じました。

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雨ではありましが、逆に空気は澄み切っていて、雨の柔らかさも感じながら参拝できて良かったです。

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出雲といえば、出雲そば!ということで、割子3段を食べました。

もっと食べれたなと少し後悔しております。

 

あとは博物館に行きました。

写真を載せて良いのか謎なので、写真はやめておきます。

銅鐸を見て、ドータクンを懐かしみました。

 

という感じで、すごくいい旅行になりました。

一緒に行った友人たちに感謝したいと思います。

車の運転をほぼ任せっきりにし、爆睡した人なんて、いないですよね。

まさかね。

そんな人いるわけないよね。

🙋‍♂️

 

映画「ティファニーで朝食を」を見た感想

昨日、「ティファニーで朝食を」を見てきた。

なので、その感想を書いておこうと思う。

恥ずかしながら、まだカポーティの原作を読むことができていない。

村上春樹が翻訳を手がけているし、村上春樹が翻訳しているということへの信頼感が僕としては大きくある。

映画を見て、より興味が湧いたので、そのうち読むことになるのだろうと思っている。

 

実際に映画を見てみた感想としては、

自由と不安と葛藤の描き方が印象的だった。

オードリーヘップバーンが演じるホリーは、いろんな自由を追い求めている。

恋愛の自由、

経済の自由、

生活の自由、

などなど。

 

そういった自由を追い求めるのだけれど、そこに付きまとう不安の描き方が、絶妙で、さすがは名作、という感じがした。

 

そして、自由を求めて、愛を失いかける。

 

自由っていうのは、どこか手放しで賞賛されがちだけれど、自由には不安がつきまとう。

個人主義や、自由という、リベラル化が進むと不安が生じるっていうのは、歴史的にも証明されている。

その不安を絶妙に表現しているのが夏目漱石だったりもするが、それについて書くのは骨が折れるから、またの機会に譲る。

 

オードリーヘップバーンのすごいのは、自由と不安の葛藤の表現力だと思った。

自由を満喫しているようで、なぜかネガティブな雰囲気を醸し出していたのがとても印象的だったのだ。

 

どんなに自由になっても、人間の精神は鍛えられない。

不安というのは精神的な問題だし、不安を解消するためにいくら外的に自由になったところで、その不安は内的なものなのだから、根本的な解決にはなり得ない。

自由の中に幸せはあるのだろうか?というカポーティからの問いかけのような気がした。

 

自由を求めるが故に自由に縛られる。

これを、「非執着の着(ひしゅうちゃくのちゃく)」と呼ぶ。

昔から仏教で説かれてきたことだ。

執着を捨て去ることを仏教の修行では追い求めるが、執着を捨て去ることに執着していたら本当の意味で執着を手放すことにはなっていない。

 

自由というのは、執着がなくなるということと似ているが、何か物質に頼って自由になろうとしても、非物質(精神)は自由にしてもらえない。

 

自由の本来性、

それを考える。

個人主義に突き進めば、自由になれるのか。

経済的自由を手に入れれば、自由になれるのか。

そもそも、自由を追求しても幸せはあるのだろうか。

 

それらの問いを抱いた。

誰かと関わると、それだけ縛りが増える。

深く関われば関わるほど、それは強くなるし、折り合いをつけていかないといけないことも増える。

でも、人と深く関わることを避けていたところで、幸せにはなれない。

人間というのは、そういうジレンマの中で生きているのだなと思う。

 

その葛藤の描き方が絶妙でした!

 

ということで、ティファニーで朝食を、オススメです。

最後まで読んでいただき、ありがとうございます。では!

力でねじ伏せるのは愛じゃない

またまた、ブログを書くのが久しぶりになってしまったが、

今回は、最近テーマに感じていることについて書いておこうと思っている。

そのテーマが「力でねじ伏せるのは愛じゃない」

というテーマだ。

 

力でねじ伏せるっていうのは、いろんな形がある。

物理的に力で相手を負かすとか、

論理的な力で相手を負かすとか。

 

人間にはいろんな価値観がある。

例えば、善悪、好悪、損得、勝敗、などなど。

ときによっては、善悪がテーマのときもあるし、

好悪がテーマなときもある。

 

僕にとって最近テーマに感じているのが勝敗の部分だ。

 

僕はどういうときに勝敗を気にするか、というと、

自意識がむくむくと膨れ上がったときだ。

たとえば、僕は哲学や思想といったものが好きだけれど、

そういう自分が好きな分野で、

誰かが、さもわかったかのように語るとき、

僕は「いや俺のほうがわかっているし😤」

みたいな自意識がむくむくと膨れ上がってくる。

そのとき、僕は負けたように感じてしまう、

もしくは、勝とうとしてしまう。

 

それをよくないな、と思って過ごしている。

例えば、僕はニーチェやフランクルが好きな哲学者だけれど、

彼らを批判されるようなことを言われたとする。

そのときに僕は、

「いや、それは違う。

 お前は間違っている。

 ニーチェはお前が思っているよりとてつもなくすごい人だし、

 フランクルはお前なんかより一億倍すごい人だ😤」

と言って、相手を言い負かしたくなる。

 

けれども、少し考えてみれば、それはおかしいことだとわかる。

例えば、ニーチェを批判している人が、

本当に言いたいのは、ニーチェを批判したいわけじゃなく、

ニーチェの言葉に傷ついている自分をなんとかしたい、

と言いたいのかもしれない。

形としては、ニーチェを批判しているけれども、

実際のところでは、自分自身をどうにかしたいと思っているだけなのかもしれない。

 

僕のよくない癖というのは、

変に言葉尻にとらわれてしまって、

本来その人が言いたいこと、

伝えたいことをくみ取る努力を怠ってしまうことだ。

本来の言いたいことっていうのは、

その人の背景を知る努力をしていないとくみ取れない。

どういう人生を歩んできて、

どういう考え方に至って、

どうしてそう考えるようになったのか、

そういうところまでくみ取る努力をするのが僕は愛だと思っている。

 

力でねじ伏せるときっていうのは、

言葉尻に反応して、

ただただ条件反射的に相手をけなしたり、

相手に不快感を持ったりと、

そういうことに陥ってしまいがちだ。

 

どんな言葉であっても、

その言葉の語られる背景は毎回違うはずだし、

毎回違うからこそ、

その言葉にとらわれてしまっては、

本質を見失ってしまう。

 

言葉というのは「事の端(ことのは)」。

言葉で言い表せることは、

せいぜい本当に伝えたいことの端っこの部分だけということだ。

だからこそ、言葉尻にとらわれるのではなく、

言葉の奥の本当のことを見つめる必要がある。

そういうまなざしは、

相手に安心感を与え、

安らぎをも与えうるかもしれない。

 

力でねじ伏せるとき、

人は近視眼的になっているし、

大所高所から眺めることができていない。(自分も他人も)

 

それは愛ではない。

力でねじ伏せたくなった時こそ、

力に頼らず、力を抜いて、ゆるく見つめる。

空気を感じるように努める。

それだけでも、愛に近づけるのではないだろうか。

 

そんなことを思う最近のテーマです。

四月に考えたことなど(ヨルシカ「晴る」,映画「グリーンブック」,朝井リョウ「正欲」などを題材にして)

またブログを更新するのが遅れてしまった。

最近は、あまり本も読めていないし、

本から内容を得て、何かを書くこともできない。

 

ここまでインプットが少ないのも珍しいものだけれど、

論文の内容を書くわけにもいかないし、

どうしたものか、と悩みながら書いている。

 

とりあえず、四月だから、四月に思うことを少し書いてみようと思う。

皆さんは、花見に行っただろうか?

僕は花見が大好きだ。

毎年、この季節になると、どうしてもウキウキしてしまう。

コロナ期でも欠かさずに花見をしていたし、

友達を誘って、散歩をしながら花見をするのはすごく心地いい。

冬の寒さが和らいで、緊張から解き放たれるようなそんな空気が好きだ。

 

春をテーマにした歌も多い。

最近だったら、ヨルシカの「晴る」がお気に入りだし、

「春泥棒」も割と頻繁に聴いている。

 

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このMVも僕は好きだ。

最初は何を描いているのかさっぱりわからなかったけれど、

何回も見ているうちに、どんなことを描いているのかおぼろげながらにわかってきた。

 

「降りやめば、雨でさえ、あなたを飾る晴る」

っていう歌詞の部分が特に好きだ。

 

雨が降っているときは、どうしても気分が落ちたり、

やる気が出なかったり、ネガティブなことが多いけれど、

そういうネガティブなものも、とおり過ぎてしまえば、

人生を飾ってくれる糧に変わってくれていたりもする。

 

まあ、何か大変な時期に差し掛かっていたときに、

それもいずれ終わるのだという気持ちになれることって、

本当に大事なことだと僕は思う。

 

めっちゃ簡単な例を言えば、

例えば、仕事で上司に怒られているとする。

怒られている最中は、どうしたって緊張してしまったり、

おびえてしまったり、気分が落ち込んだりするものだけれど、

上司も永遠には怒ることができないわけだし、

ミスをして、大変なときにあったとしても、

永遠にミスをし続けることなんてできない。

 

そんな当たり前なことだけれど、禍中にあるときは忘れがち。

永遠には続かないっていうのは、ある意味においては希望だし、また絶望でもあったりするけれど、

基本的には希望のほうを採用していればいいのだと僕は思う。

万物は流転する。諸行無常。

いろんな言葉で先人たちが残している。

 

四月って、いろんなものが入れ替わるし、新しくなる。

そういう芽吹きの時期だからこそ、頑張りすぎることもある。

思えば、僕は毎年四月は頑張りすぎていた。

小学生や中学生や高校生などのときにも、

毎年新学年になるたびに頑張りすぎて疲弊していたような気がする。

人一倍、感受性が強かったのもあるだろうし、

緊張していたのはよく覚えている。

 

僕は、何事も軌道に乗るまでがしんどい。

誰でもそうなのかもしれないけれど、

人間関係も軌道に乗ってきて、

自分が今年度何をするか、

何をしなければならないのか、

ということが固まってくるまで、

無駄に緊張して無駄に疲弊してしまうのだ。

 

いずれにしても、もう少し手を抜いて、

力を抜くっていうのを意識していかないといけないなと思っている。

 

まあ、すべての人間関係を良好にするまでには時間がかかるけれど、

誰か一人の人と仲良くなれればいいや、

くらいの気持ちで、一人から始めてみるっていうことは、最近意識するようにしている。

それを思うようにしてからは、割と力を抜いて過ごせることも増えてきたような気がする。

 

僕自身、今までの人生で身に着けてきた偏見や、固定観念みたいなものがあるし、

それは、間違いなく、親との関係性や学校社会の中で築かれたものだ。

でも、もうそれにこだわる必要もない。

初対面の人とうまく話せなくても大丈夫だし、

陽キャ、陰キャみたいなつまらない価値観も必要ない。

それが意味を成すのは、学部までだと思う。

 

いや学部ですら意味はなかったはずだ。

今年は、そういう意味のない価値観を白紙に戻していきたいな、と思う。

もう今年一年で学生も終わるし、それには最適なタイミングだといえる。

 

そういう学生時代に身に着けた価値観(スクールカースト的な上下意識)は、

人を悪者にしてしまったり、自分と合う人合わない人を大して関わってもいないのに、

決めつけてしまったりする。

こういう雰囲気の人とは自分は関わりません。みたいなことになりがちだ。

でも、「こういう雰囲気」の人(自分とは違う属性の人)と関わるからこそ、

違う価値観が学べたり、自分の盲点だったことに気づくことができたりする。

 

全然インプットしていないといったけれど、

そういえば、最近「グリーンブック」を見た。

youtu.be

グリーンブックで描かれているのも、まさに違う者同士が手を取り合うからこそ生まれることだ。

グリーンブックでも、人種差別という無意味な価値観に対する抵抗が描かれていたり、その価値観をぶち壊すための挑戦が描かれている。

 

そういう意味合いでも、僕は今年は、今までの人生で身に着けてきた、もう必要がなくなった価値観を捨て去る挑戦をしていきたいなと思う。

 

そんなことを考えながら書いていたら、結構いいテーマで書けたし、

割と書くことあるやん、っていう自分への突っ込み。

 

グリーンブックは本当にいい映画なので、おすすめです。

朝井リョウの「正欲」についても書こうと思ってはいます。

サクッとここで書いてしまうと、

グリーンブックともつながりはあるのだけれど、

とらわれていた価値観を捨て去るっていうのがテーマだと思います。

 

朝井リョウ氏の作品には、スクールカーストだったり、

今の若者の承認欲求だったり、僕らが生きづらいと感じてしまう価値観を題材にしているものが多い。

 

「正欲」でもそういうものが題材になっていて、

僕自身、これまでの言動だったり、人に自分の正しさを押し付けてしまっていたな、と思わされることが多々あり、

人生を反省させられるような作品でした。

 

生きづらさっていうのは、自分で作り出しているもんです。

僕自身、生きづらいなと思うことは今までたくさんあったのだけれど、

その生きづらさが最近軽減されてきているのは、自縄自縛になっていたことに気づいているからです。

社会から押し付けられる正しさを自分の正しさだと思い込んでいるとき、人は生きづらいと感じるのだと思います。

ある意味開き直って、社会から押し付けられる正しさと自分の正しさは全く別なんだとあきらめてしまうことは、大事なことなんじゃないかな、と思います。

社会に迎合しないっていうのは言うに易しではありますが。

 

それを考えるときには、福田恒存の言葉を僕は思い出します。

内的な正しさと外的な正しさの折り合いをつけていくっていうことです。

福田恒存は、処世術について肯定していて、社会でうまくやっていくのは大事なことだと。

社会の中でうまくやっていく、っていうのは、外的な正しさをうまく利用していく、ということ。

でも、人間、外的な正しさだけで生きているんじゃない。

内的な正しさも間違いなく存在しています。

 

簡単な例でいえば、春眠暁を覚えず、という通り、

春は寝心地が大変よい。だから朝起きる時間を遅らせたい。

そして、優雅な朝の時間を過ごしながら、花見でもして、お酒を昼からのみたい。

こういう内的な心地よさみたいなものは誰しもあるでしょう。

だけど、社会からは、仕事をすることを求められているし、そういう要請が否応なく訪れるわけです。

そういうときに、ちゃんと折り合いをつけて、自分でコントロールしながら、内的な欲求も外的な圧力にもうまく対処していく、それが処世術っていうものです。

 

でも、現代を生きていると、どうしても外的なほうばっかりに偏ってしまいがち。

外的なほうに偏って行くところまでいってしまうと、人は内的なものと外的なものの区別もつかなくなる。

これが自縄自縛モードのときです。自縄自縛モードがさらに加速すると、もうわけのわからん状況。

 

だからこそ、内的なほうを充実させていく必要がある。

内的なほうっていうのは、感動を伴うものです。

感動するっていうのは、理屈じゃないし、理由とかを聞かれても究極はよくわからん。

よくわからんけど、なんかいい。

そういうのを大事にしていこうぜっていうことを今年はやっていこうと、思っています。

 

話はそれたように見えて、実はそれていなくて、

朝井リョウ氏の「正欲」でも最終的には、内的なほうを優先させていく人たちが描かれているわけです。バッドエンドといえばバッドエンドなのだけれど。

誰かに理解されなくてもいいや、っていうあきらめが最終的には救いとして描かれていて、でも誰にも理解されないでもいいや、って思っていても社会から見つかってしまうと、何かしらの理解を押し付けてくる。

その理解は、固定化されたものでしかなく、社会が納得する形での理解、という浅はかなものです。

でも社会っていうのは、根っからそういうものでしかなく、そりゃ、社会っていうものは、ある程度多くの人に当てはまるある程度納得できるもので構成されているので、

本当の意味でマイノリティを救うことのできる社会は存在していないのではないか。

 

そんなことを考えさせられた作品でした。

 

外的な価値観にとらわれている人として検事の人が描かれているのだけれど、

その検事の人は人を裁く。理解できないものにはふたをして、今まで通りの価値観から理解を押し付ける。枠にあてはめることでしか考えられない。

アイロニーとして、そういう外的な正しさの象徴のような職業なのに、家庭はうまくいっていないっていうことが描かれている。

外的な正しさの中でどれだけ成功しても、家庭はうまくいかないこともあるし、外的な正しさって、もうすでに形骸化してきていて、外的な正しさの中で生きることによって得られるインセンティブはもうなくなってしまった。

昔は、外的な正しさの中で成功すれば、経済的にも成功し、家庭も充実し、理想の毎日を過ごすことができる!みたいな活気のある考え方があったはずだ。

現在でも若干残っているし、自分の中にそれがあることも理解している。

けれども、その外的な正しさを貫くことで得られるインセンティブは、もう老人たちが吸い尽くしてしまっている。

そういう話だ。

理想がない、ということでもあると思う。

理想は幻想だったと、気づいてしまっているから、生きづらい。

これは正常といえば、正常なことで、理想が幻想だったし、どれだけ頑張っても、得られるものはあまりない。っていうことに気づいて、そこに冷めてしまうっていうのは普通のことだと思う。

 

現代の日本には活気がない、と言われるけれど、

当たり前だ。理想がないのだから。

頑張っても無意味じゃん、

成功しても無意味じゃん、

そういう冷めた価値観のなかで生きているのだから。

 

理想がなく、頑張る意味もわからない人たちが向かう先は、刹那的快楽。

それも当然の話で、僕も意識していないと、向かう先は刹那的快楽。

生きていくうえで、理想とか頑張る意味みたいなものをしっかり自分の中にもてていないと、生きづらい。

そういうことを正欲を読んで思った。

 

手っ取り早く理想や頑張る意味を求めると新興宗教に身をゆだねることになるんかな。

僕は古典的な宗教や古典的な名作を知ることは、理想や頑張る意味を見出す上で大変有意義だと思う。

そもそも、ブッダとかイエスとか孔子とか老子とか最澄とか空海とかかっこいいやん。

かっこいい😍って惚れるのって内的なものやん。

こんな風になりたいな、っていうのが本来持つべき理想だと僕は思うねん。

こんな生活したいな、よりもこんな生き様で生きたいな、っていうほうが強度が強いやん。

そういう人生の師となる人物とは本でも出会えるし、リアルにも存在するかもしれない。

そういう理想と出会えて、心底惚れたら、人は頑張って生きようって思うし、社会からの圧力、外的なものに押しつぶされそうになっても復活できると思うねん。

それは別に古典的な名作だけじゃなくて、五条悟でも極論いいのかもしれん。

それはわからんけど、理想を見出して、燃えるっていうのは人間が根本的に抱えている欲求にあるような気がしてならない。

 

まあそんなところです。ってどんなところやねん。とここまで読んでくれるような忍耐力のある読者はツッコんでくれるだろう。

 

まあ、とりあえず、せっかく読んでくれたので、

最後にまとめておくと、

今年一年、僕自身が意識していこうと思っているのは、今まで身に着けてきたけれどいらない価値観を捨て去ること。

そして、内的なものと外的なものの折り合いをうまくつけていく処世術をみにつけていくこと。

また、自分を熱くさせてくれる理想を見出し、(もう見出しているけど)さらに熱く理想に向かって歩んでいくっていうこと。

あとは、僕自身が誰かの理想になれたらそれは最高やなと思いますが、それはまだ荷が重いかもwまだまだ未熟ものですしね。

とりあえず、フルスロットルで頑張っていきましょう!

 

最後まで読んでいただき、ありがとうございます!

では!