釣りをした。一匹も釣れなかった。ルアーを無くした。

最近は釣りをした。

山川と釣りをした。

芦屋で釣りをした。

なんだろう。

なんでかよくわからなけれどすごく楽しかった。

一匹も釣れなかったのに楽しかった。

それはなんでなのだろう。

釣れたらもっと楽しかったのにね〜

みたいな話を飯を食いながらしていたけれど、

釣れなかったとしても楽しかった。

たしかにルアーは4000円くらい

海の藻屑となったけれど、

たしかに食事代が馬鹿にならないほど

高かったけれど、

それでもなぜだろう、そんなことが気にならないくらい楽しかった。

 

僕は無意味な時間が好きなのかもしれない。

大学では無駄なことをたくさんやりたい

そう思っていたけれど、

大学にいざ入ってみると、なんとも実用的なことばかり。

全く実用的でなかった授業なんて数えるほど。

大体、理系なのだからそんなもの当たり前なのかもしれない。

けれど、もうちょっと無駄であってほしかった。

僕はどうせ今の知識を使うような仕事にはつかないだろうから、

どうせ無駄なのだけれど、

そういう無駄とはちょっと意味合いが違うの。

理系で勉強するようなことが無駄になるっていうのは、

結局、そんなものなんにも使わなかったよね

っていう無駄なのだけれど、

例えば、僕がとった中で一番無駄だったのは

たぶん政治哲学の授業だっただろうと思うのだけれど、

政治哲学の無駄って理系の知識の無駄とは質的に全く異なると思う。

なんとなく伝わったら良いのだけれど、

僕が好きなのは、政治哲学的な無駄であって、理系的な無駄ではない。

そういうこと。

 

それで、政治哲学的な無駄さがこの前の釣りにはあったのかもしれないな

と思ったわけ。

なんていうか、人間的な、あまりに人間的な無駄さというか。

理系的な無駄さはどこか機械的な無駄さであって、

政治哲学的な無駄さはどこか人間的な無駄さでもあると思うの。

 

あくまで個人的な感性の問題なのだけれど、

僕は政治哲学的な人間的に無駄なことを誰かと一緒にやるのがとても楽しいなと思う。

でもこれって、誰しもそうなのではないか?

そう思う。

人が仲良くなったり、人間関係を育んだりするために必要なのは人間的な無駄さなのだと思う。

人間的に無駄なことを一緒にやって時間を共有するっていうのが人間的な営みなのではないか。

たぶん僕と仲良くなった人ってみなすべからく一緒に人間的に無駄なことをやってきた人なのだと思う。

人間的に無駄なことを共有できる人がいることって本当に尊いことだと思うし、

これからも大切にしていきたいなと思う。