「親の心子知らず」を実感する日々についての断想

最近は暇なことがあまりなく、

たいてい大学に行って、帰ってきたらバイトに行って、

疲れて寝るといういかにも健康的な生活を送っている。

最近よく感じるのは、

場の拘束力というものだ。

最近になって、対面の授業がようやく再開されたわけだが、

なんとも真面目に授業を受けている。

今までのオンライン授業は何だったのだ!と言いたくなるほど、はかどる。

コロナ前には考えもしなかったが、僕は対面でないと人の話を一切聞かないらしいことがわかった。

なんとも前時代的な人間なわけだが、

対面授業が始まってかなり生活が楽になった。

夜中まで起きていることも少なくなり、たいていは日付が変わる前に寝るようにしている。本当に健康的。

昼飯を食堂で食べて暇な時間ができるので、そこでいつもメインブログの方で勉強法を適当に書いている。

ああ、そういえば一回生のときもこんな生活をしていたっけ。

と思い出した。

一回生のときも僕は食堂で10分で飯を済ませ、速攻で図書館にこもり、図書館のマックを使ってブログを毎日執筆していたのだった。

図書館では最近でもまだマックを使わせてくれないから、

いつも自前のクロームブックを持っていってそれで執筆している。

昼下がりに僕のタイピング音が図書館に響き渡る。僕のタイピングは割合音がでかい。

迷惑している人がいたら、それは申し訳ないが、我慢してもらうしかない。

最近はあまり本も読めておらず、

何冊か同時並行で読み進めているが、書評するものがない。

書評しようと思えばできるのだろうが、

なんと言っても書評なんて読む人がいない。

これがなかなか悲しいわけだ。

ブログはそもそも自分のために書くものだが、

それでも読者がいるから楽しいという側面がある。

まったく読者を想定せずに書けば良いというものではないのが僕のブログの立ち位置なため、そのジレンマの中でもがき苦しむことになるのだ。

そういえば、僕のブログ記事が無断転載されていた。

そのブログのタイトルは、

「グーグルの情報統制がやばすぎる件」

こんなエッジを効かせたタイトルで書くことがあんまりないものだから、

ちょっとアクセスが集まっていたりすると、すぐに無断転載が見つかった。

「引用」とその無断転載されていたブログには書かれていたが、

明らかに無断転載であった(笑)

まあ別に良いのだけれど。

僕のブログを無断転載してくれるなんてその人は見る目があるなと思う。

そもそもグーグルの情報統制について興味があるという点も評価に値する。

僕のブログはグーグルに嫌われているので、検索しても大した記事が出てこない。

しかしながら、マイクロソフトは僕のブログを評価してくれているから、意外とたくさんブログが表示される。

これは実はアルゴリズムの違いで、

マイクロソフトはブログやサイトの記事数というものを「いい記事」の評価基準の中に組み込んでいる。

これはたくさんの記事を書くということは継続力がなければできないから、いい記事かどうかの基準になりえるという趣旨なのだろう。

逆にグーグルさんはそのへんをアルゴリズムに入れないらしい。記事そのものが優れているかどうかだけで判断するのだ。

だから、どれだけ記事を量産しようと、記事そのものの質が伴っていなければ、無価値とみなしてしまうのだ。

いかにもグーグルらしい評価基準と言えるだろう。

だからこそ、グーグルはここまで検索エンジンを制覇できたとも言える。

こんなふうに適当に文字を羅列したものは、基本的にSNSか物好きなブログ読者にしか読まれない。

だからこそ、好き勝手に書けるという点もある。

こんな日記ブログにはあまり価値はない。

好きな人が好きなときに見ればよろしいのであって、

このブログでは一切の収益は見込めない。

なら書く意味ないのでは?と思うかもしれないが、それがそうでもない。

 

こうやってむやみやたらに文章を羅列しているときはたいてい嫌なことがあったときか、寝たくないから暇つぶしをしているときだからだ。

嫌なことがあったときにこうやって文章を羅列していると嫌なことが少なくとも忘れられる。そして嫌なことがあった。と書く。

それだけでも少しは気持ちの整理がつく。

どんな嫌なことがあったか、ということまで書きたければ書く。

今日は、寒くて凍えそうだった。バカみたいに寒くて、バカみたいに寒がって自転車を漕いでいた。

電車にのるときに、周りが見えていない馬鹿な大人にイライラした。たまにこういうやつがいる。そんなことは普段は気にしないようにするし、基本的に無視するが、嫌なことが続いたときには自然と目についてしまうものだろう。

塾のバイトで受け持っていた生徒が来なくなった。とても悲しい。無断で「ぶっち」するのはさすがにこちらとしても看過できない。多少ダメージが残るからやめてほしい。

塾長に受け持っていた生徒(上の生徒とは別)が悩んでいるから相談に乗ってあげてほしいと言われたから、どうしたのか聞いてみたら、釈然としない。モヤモヤしていることを話せば良いものをなぜか話そうとしない。それにもイライラした。

どちらも受験生である。

ぶっちするのも理由があるのかもしれないし、言えないのにも理由があるのかもしれない。それでもこちらとしては教える気は失せる。それが人情というものなのではないか?

こんなことを書くのは間違っているのだろうか。

こんなことを書いていると生徒が知ったら、それは良くないことなのだろうか。

たしかに良くないことだろうが、それでも大切なことだから書かせてもらう。

 

教えるという行為はジレンマを抱えている。

いくら教える側が教えようとしても、そもそも教わる側に教わりたい!という強い意志がない場合、何も教えることなどできないということ。

そして教育業界では更に大きなジレンマとして、親がお金を払うということがある。

お金とは、意志の強さだ。

例えば、1万円払って学ぶというのはかなりの覚悟が必要だ。(収入によるが、一般的な話として)

しかし、子供はお金を払うことはない。自分のお金というものを持っていないからだ。

本を買うときは自分で買ったほうが良い。なるべく新品を買ったほうが良い。

それは、お金を払うという行為を通して痛みが伴うからだ。

痛みの伴わない教訓には意義がない。人はなんの代償もなしに何も得ることなどできないのだから。(ハガレン

そういう名言の通りであり、子供には痛みが伴っていないから、本当の意味で学ぼうという姿勢に欠ける。

結局、世の中はギブアンドテイクで、こちらがいくら与えようとしたところで受け取る側が準備できていなければ何も意味がない。

これは、何をするにしてもそうだと思う。

ギブアンドテイクは非常に奥深く、

例えば、専門家に対して質問しに行くときに、

ちゃんとその専門分野について調べ、かつ何冊が本もよみ、専門用語や基礎知識を頭に入れた上で質問するのと、全くの無知蒙昧なまま基礎的なことを質問するのとでは、得られる解答が全く異次元なものになる。

たいてい、専門家というのは孤独な人間だから、

ちゃんと勉強してきた人間や、ちゃんと準備してきたことがわかる人間に対してはかなり親切に応えてくれる。

逆に、なにも準備してきていない人もよくわかるし、そういう人にはうんざりするものだ。

 

これは僕自身にも戒めておきたいことなのだが、

結局、質問力は準備力だ。

どれだけ下準備を重ねたか、で質問の質が決まる。

だからこそ、大学時代にはまんべんなく教養を身につけるべきなのだ。

まんべんなく基礎知識があれば、どんな話題であれ専門家の話に食らいついていける。

もし足りない知識があったとしても、少し調べたり、本を読めばいい。

僕はこれからは、誰かに質問するときには準備を大切にしようと心に決めているし、

これは僕が質問を受ける側を経験しているからこそものだと思う。

結局、親の心子知らずであり、自分が相手側の立場だったら、ということを考えることは本当に大切なことなのだと実感する次第である。