アナキズムとは、他人任せにしないための思想。くらしにアナキズムは必要だと思う。

 

現代では、アナキズムというと「異端」、「狂った価値観」と考えられがち。

僕もこの本を読むまではそうであったし、

実際にそういう人は多いのだと思う。

でも、今こそアナキズム的価値観が大切なのではないか?

なぜなら、政府が大した機能を果たしていないからである。

いや、前から大した機能を果たしていなかったのかもしれない。

 

とにかく、今のコロナの状況において、政府は失策しか施していない。

コロナに対するここ数年の対応はすべてが無意味ですべてが無駄だった。

結局のところ、政府は何もできなかったし、

これからも何もできないのであろうと思う。

 

ぶっちゃけ、政府がいようがいまいが、どれほど生活に影響があるだろうか?

たしかに他国からの侵略という問題はある。

でも他国からの侵略を除いて考えてみてほしい。

今の世の中において、政府が必要な場面はそんなにたくさんあるだろうか?

税金は果たしてどれだけ効率的にかつ効果的に使われているだろうか?

 

一部の利権によって無駄遣いされているのが現実であると思う。

たぶんみんなそれには気づいているし、それは仕方のないことだと割り切ってしまっているのだと思う。

けれど、アナキズムという観点に立てば、それはあり得ないことであり、怒るべきことなのである。

それに、今の国家というのは規模が大きすぎて、自分の意志や自分の思想などが反映されにくい。

国家の図体がでかすぎて、身動きがとりにくくなっているのだと思う。

本来であれば、もっと小さいコミュニティの方が自分の意見は反映されやすいのではないか。

 

アナキズムは無意味な異端な思想ではない。

アナキズムは最も生活に密着した思想だと僕は感じた。

 

僕がアナキズムを言い換えるのなら、

 

他人任せを排除する思想

 

となる。

 

よく考えてみると、今の世の中というのはすべてを他人任せにしていることに気づく。

ちょっとした隣人トラブルでさえ、管理会社に解決を任せたり、場合によっては警察の介入に任せることもある。

 

政治もよく考えてみると、他人任せであることに気づく。

本来であれば自分で政治していくべきなのに、それが煩わしいからという理由で他人任せにしているのだ。

 

もし、国家がもう少し小さければ、もしコミュニティがもう少し小さければ、

もっとみんなが話し合って、他人任せにせず、政治に参加するだろうし、

コミュニティに対してもっと臨場感を持つことができるのではないか?

 

とはいえ、すぐにアナキズムを実践するのは難しいだろうとも思う。

簡単には革命は達成されないし、今後も無駄な税金は取られるのかもしれない。

でも、自分の人生に責任を持つことはできるはずだ。

自分の人生に責任をもって、自分を操縦していく。

自分の意志を持って、自己を主張していくことは大事だと思う。

それはアナキズムがどうこう、異端がどうこうというのとは違う。

もっと根本的に、人間として大切なことなのだと思う。

 

くらしのアナキズムは、目のまえの苦しい現実をいかに改善していくか、その改善をうながす力が政治家や裁判官、専門家や企業幹部など選ばれた人たちだけでなく、生活者である自分たちのなかにあるという自覚にねざしている。

「くらしのアナキズム」 p.226より