最近の傾向として、
失敗したくない!
と思いすぎている人が多いような気がする。
例えば、映画一つ見るのにも、
いろんな口コミを見て、
ネガティブなコメントを見て、
見にいくのをためらってしまうとか。
アマゾンで何か購入するにしても、
レビューを見て、
ネガティブなレビューがあると、
買うのをためらってしまったりとか。
些細な部分なのだけれど、
こういうことが最近多過ぎはしないか?
僕は映画を見るときは、口コミは極力見ないようにしている。
自分が見てからほかの人の感想を見てみることはあるが。
他人が感じたことを自分が体感する前に見て、
尻込みしてしまうのは、人生を損しているような気がしてしまうのだ。
失敗は失敗として、お金の無駄遣いは無駄遣いとして、
そのまま存在していても良いのではないだろうか?
失敗は失敗として存在するからこそ、
無駄遣いは無駄遣いとして存在するからこそ、
それが経験になって、自分で判断するための材料が増えていくのではないか。
それに、他人と自分が同じような感想を抱くわけではない。
大衆が面白いと思うものが自分にとっても面白いとは限らない。
自分で失敗を繰り返し、学び、成長し、価値観が変容し、
それを繰り返すことによって審美眼が形成されていく。
過度に失敗を避けようとする傾向が強くなるとどうなるか?
人は夢を抱かなくなる。
無難な選択しかしなくなる。
模範解答の範疇の答えしか出せなくなる。
要は面白みのない人間になってしまうということ。
でも、世界がすべて模範解答の範疇でできているなら、
こんなに複雑な世界になっているわけがないし、
人間がずっと無難な選択しかしていなかったのなら、
地球上で最も繁栄した種として存在しているわけがない。
人が夢を抱かなかったら、飛行機は発明されていないし、
自動車も電車も、ガスコンロも、電気も、文明を形成している何もかもが、
存在しているわけがないのだ。
あらゆる学問は夢見る学者によって開拓されてきたではないか。
そういう面白い人たちが存在したからこそ、
今の世の中があるのであって、
もし面白みのない無個性な人間が量産されると、
世界から面白みがなくなっていく。
世界から面白みがなくなっていくとしたら、
その面白みさえも、AIが発明していくのだろうか。
人間が面白みをなくしたら、AIが発明した新しい面白みを、
ただ受け身で飲み込むだけのよくわからない生物になってしまう。
僕は面白みのある人間でありたいと切に思うし、
世の中にもそういう人が多く存在していてほしい。
面白いことを考えることができる人が増えると、
世界はもっと面白くなるはずだ。