示唆的な「海辺のカフカ」と痛々しい若者

今日は何を書こうか、

何も決めていない。

タイトルは書き上げてから決めることにする。

 

今日はとりあえず、昨日の夜10時間くらい寝たので、

調子が良かった。

 

最近は、研究室で体調を崩す人が多い。

伝染病的な体調の崩し方ではないため、

単に心配になるだけ。

 

そういえば、

今日は昼飯を食堂で食べた。

おそらく学部2回生か3回生くらいの

若い人たちがたくさんいた。

 

近くに座っていた人たちは、

すごく荒々しい感じだった。

まず声が大きい。

落ち着きがない感じだった。

 

研究室の同期と一緒に飯を食べながら、

イタイなー、

っていう話をしていたのだけれど、

 

若いっていうのはイタイことの裏返しみたいなもので、

僕が思ったのは、そうやって大きい声で、

痛々しいことを大っぴらに表現できるのは健康的で良い

ということだった。

 

まあ僕としてはもう少し落ち着いてご飯を食べたかったわけだけれど、

たぶん彼らはコロナ期と高校生活がピタリと重なっていたのだろう。

 

彼らは高校時代に痛々しさを表現できなかった世代なのだ。

僕の高校時代を考えてみても、結構痛々しい高校生だったと記憶している。

荒々しい高校生だったかもしれないし、

荒々しいという方向性は今日の彼らとは違うかもしれないけれど、

スクールカースト的なものへの反発みたいな、

そういう荒々しさを抱えていたような気がする。

 

僕の高校生活は、割と面白い話があるので、

これも今後書くこともあるかもしれない笑

 

話を戻して、

その高校時代があるからこそ、客観的に見て、

「あれは痛々しかったよな。改心しなければ。」

と思えるわけで、

 

ちゃんと痛々しい経験を経るからこそ、

自分を客観的に眺めて恥ずかしい思いをすることができるのかもしれない。

 

そういえば、今日の朝、海辺のカフカを読んでいた。

その一節

ヘーゲルは<自己意識>というものを規定し、人間はただ単に自己と客体を離れ離れに認識するだけではなく、媒介としての客体に自己を投射することによって、行為的に、自己をより深く理解することができると考えたの。それが自己意識。」

海辺のカフカ 下 98頁より引用

 

考えてみると、僕は今日の彼らを媒介としての客体として、

僕自身の高校時代、痛々しい過去を投影して、

自己をより深く理解していたのかもしれない。

 

海辺のカフカは示唆的だ。

すごく面白いのでおすすめ。