今の世の中は、おかしいと思う。
世のため人のため、と言うと、その人を変人だと扱うからだ。
世のため人のために何かをしたい、と思うことはうさん臭い。
そういう価値観が常識になってしまったのは、いつからなのだろう??
困っている人がいたら助けたい、
人のために何かをしてあげたい、
そういう思いは、素晴しい。
考えてみると、世のため人のため、という考えがうさん臭いと思われるようになったのは、
その言葉を信じて、裏切られてきた歴史があるからなのかもしれない。
たしかに、歴史的に見ても、
世のため、人のため、と言いながら、私腹を肥やしていたり、
きれい事を言葉巧みに操って詐欺を行う輩はいたのだろう。
でも、それでも、本当に世のため人のために生きた人がいなかったとしたら??
今の世の中が成り立っているだろうか??
成り立っていない!断じて。
今の日本があるのは、最澄、空海が命がけで唐に渡り、
密教を日本に持ち帰ってきたからだ。
密教によってどれだけの人が救われてきたのだろう。
ぜひ、阿吽を読んでほしい。
僕の言っている意味が少しは理解できると思う。
今でも真言宗系の信仰を持っている家系は多いだろうし、
天台宗の比叡山は、後の鎌倉仏教の礎を築いた。
延暦寺がなければ、法然も親鸞もいなかったかもしれない。
日本に仏教がなかったら?今の日本はあるだろうか?
普通の日本人の感覚ではわからないかもしれない。
信仰の感覚がわかっていないから。
でもキリスト教の国を見てみればわかるように、
信仰と国家は密接につながっている。
それくらい、
人々がどんな信仰を持つのかということが国を動かすのだ。
宗教の教えというのは、
基本的に利他の精神だ。
キリスト教なら、汝の隣人を愛せよ、
仏教なら、衆生救済、
いやそもそも利他という言葉自体、仏教用語。
仏教の修行では、自利行という修行を行った後に、化他行という修行を行う。
簡単に言うと、自分のための修行が終わって、自分が満たされた後に、
人のための修行を行うということだ。
そうか、ここまで書いてきて気づいた。
人のため、というと宗教につながってしまうからか。
宗教アレルギーの日本人は、短絡的に、人のため、
という言葉にうさん臭さを感じてしまうのか?
でも、それは言葉の自動機械に成り下がりすぎている。
さすがに、そんなにクズ化していないと、僕は信じたい。
宗教を否定する人は人類の歴史そのものを否定しているから、
言葉の自動機械として、人間をやめているんだろうか。
宗教を短絡的に否定してしまう想像力のない「うつろな人間たち」は、
さっさと追い払ってしまった方が良いのかも知れない。
「海辺のカフカ」で大島さんが図書館でそうしたように。
せっかくだから引用しておこう。
「実にそういうことだ。でもね、田村カフカくん、これだけは覚えておいたほうがいい。結局のところ、佐伯さんの幼なじみの恋人を殺してしまったのも、そういった連中なんだ。想像力を欠いた狭量さ、非寛容さ。ひとり歩きするテーゼ、空疎な用語、簒奪された理想、硬直したシステム。僕にとってほんとうに怖いのはそういうものだ。僕はそういうものを心から恐れ憎む。なにが正しいか正しくないかーーもちろんそれもとても重要な問題だ。しかしそのような個別的な判断の過ちは、多くの場合、あとになって訂正できなくはない。過ちを進んで認める勇気さえあれば、だいたいの場合取りかえしはつく。しかし想像力を欠いた狭量さや非寛容さは寄生虫と同じなんだ。宿主を変え、かたちを変えてどこまでもつづく。そこには救いはない。僕としては、その手のものにここに入ってきてもらいたくない」
新潮文庫「海辺のカフカ 上」 365頁より引用
まさに宗教を否定してしまう人達は、
狭量で、非寛容で、過ちを認めるだけの勇気を欠いている。
そういう人達は多分、僕のブログなんて読まないだろうし、
もし読んだとしても、書いてあることの字面はわかるかもしれないが、
その真意についてわかることは永遠にないのだろう。
想像力というものは、人間が豊かに生きていくために、
最も重要だと言っても過言ではない。
想像力は解釈力を高めてくれる。
想像力があるから人の気持ちを理解することに努めることができる。
でも、今の世の中はできるだけ想像力を殺すように、
想像力を働かせないような仕組みになっている。
それは映画「マトリックス」に描かれているような感じだ。
そろそろcallingに従って、exodusして、
Easygoingな生き方をしても良いのではないだろうか?
という僕からのささやかながらのcalling。