村上春樹について、小説の読み方について

こんばんは。

最近、ノーベル文学賞の発表があったみたいで、

また村上春樹が受賞できなかったらしく、

村上春樹に関する論評がX上で行われているのを、

眺めていた。

(そもそも、ノーベル文学賞を取ろうが取らなかろうが、どっちでも良いと思ってる村上春樹ファンの方が多いと思う)

 

村上春樹の性描写がキモい、

みたいな言説がたくさんあって、

そのせいで、村上春樹の作品は読めない、

みたいなことが書かれていた。

 

たしかに、村上春樹の作品では、性描写が必ずと言っていいほど、描かれているし、

それが生々しく感じられるのは、わからないでもない。

だからといって、村上春樹の作品の素晴らしさは全く薄れないし、

性描写だけで、村上春樹の作品を論評してしまうのは、

全くもってもったいない、

と思った次第だった。

 

だから僕なりに、村上春樹の小説の読み方について、

少し書いておきたい。

 

まず、小説を読むときの態度だが、

素直に読むということだ。

 

頭で考えずに、素直に受けとる姿勢が、小説を読むときの大前提だと思う。

 

頭で考えて読み始めると、著者が本当に伝えたいメッセージを受けとることはできない。

 

村上春樹の小説を、フェミニズム的な見方だけで考えてしまうと、

間違いなく、女性蔑視や女性軽視、と受けとることになるし、

それは村上春樹の意図していないことだ。

 

村上春樹のインタビューなどを読んでみるとわかるが、

村上春樹はそんなことを描こうとしているわけではないし、

彼なりの問題意識を小説の中に落とし込む過程で、

性描写がたまたま描かれることになるだけだ。

 

素直に、村上春樹の小説を読めば、

何がテーマになっているのか、

どういうことを描きたくて小説を書いているのか、

ということは自分なりに見えてくるはずだ。

 

小説は、別に客観的に読むものではない。

正しい読み方があるとすれば、

素直に受けとる姿勢で読むだけだ。

 

イデオロギーに縛られて、

頭だけで考えながら小説を読んだところで、

イデオロギーの善悪にとらわれた解釈しかできないし、

そんな小説の読み方をしても、

あまり意味がない。

 

小林秀雄もいっていることだが、

著者の感受性を通して、自分を見ることに、小説を読むことの醍醐味がある。

自分では持ち得ない感受性を、著者は自分に向けて届けてくれているのだから、

その感受性を素直に受け取り、その感受性で、物語を体験し、自分自身を眺める。

 

それが小説の正しい読み方だと僕は思う。

 

小説はイデオロギーから自分を守るために読むのであって、

イデオロギーに縛られるために読むものではない。

そういう頭の固さみたいなものを取り払うために読むものだ。

 

村上春樹をキモいだのと批判している人は、そういうものの見方ができていないと思う。

 

著者の感受性が自分に適していなかっただけの話で、

村上春樹が偉大だから、批判も許されているのかもしれないが、

自分にも村上春樹の感受性に適合できると期待したおまえが悪い、

と僕は言いたい。

 

著者の感受性に適合できないことは、誰にでもある話で、

僕にだって適合できない著者はたくさんいると思う。

それは普通のことで、例え人気作家で大衆から人気を得ていようと、

それは関係のない話だ。

 

とにかく、著者は悪くない。

 

村上春樹は偉大な小説家だし、

それは、時代を経ても色褪せないと思う。

 

キモいだのなんだの言うのは勝手だが、

話題に乗じて、ネガティブキャンペーンに加担するのはやめた方がいい。

不毛だから。

 

ネガティブキャンペーンに乗じる人で仲間集めしても、

ネガティブな人しか集まらず、楽しくなさそうだなと、

僕は思います。

 

そんな感じで、村上春樹について、小説の読み方について、

書いてみました。最後まで読んでいただき、ありがとうございます。では!

はてなブログにメールで投稿してみてる

どもども、
メールでブログ投稿できるみたいなので、
やってみています。
 
完全に実験的にやっています。
 
これでいけるんかね。
 
最後まで読んでいただき、
ありがとうございます。
 
では!
◾︎------------------------------------
 
これいけてたので、
やり方を書いておきますね。
 
まず、はてなブログの設定にいきます。
f:id:zakioza:20241013125202p:image
 
詳細設定のところにいって、
 
下の方にある、
f:id:zakioza:20241013125239p:image
投稿メールアドレスっていうところを送信先にして、
自分のGmailなり、
Outlookなり、
メールアカウントから文章を書いて送信すれば、
ブログ投稿できました。
 
メールの件名がそのままタイトルになり、
メールの本文がそのままブログの本文になります。
 
僕の場合、8インチのFireタブレットを前に買っていて、
最近Bluetoothキーボードを買ったので、それを使っているのですが、
 
シルクブラウザだと、マジでブログを書きにくくて、
どうにかしたいなぁと思ってたんです。
 
せっかく、Fireタブレットでも文章を書けるようにしたのに、もったいないじゃないですか。
 
なので、方法を探してたら、どうやらメールでブログ投稿できるらしいことを知ったので、やってみた次第です。
 
最後まで読んでいただき、ありがとうございます。
では。

村上春樹のおすすめの長編4選

こんばんは。

今回は、村上春樹のおすすめの長編を紹介していこうと思います。

村上春樹って、作品数が多くて、

しかも長編となると、膨大なページ数になってしまいます。

僕は村上春樹の長編をほぼ読んでしまったので、

そんな中でも、おすすめって何?

と聞かれたときに、僕がおすすめしたい作品について、

書いておきたいと思います。

 

結論から先に書いておきますと、

以下の4つの作品が僕はおすすめです。

 

1.海辺のカフカ

2.ねじまき鳥クロニクル

3.色彩を持たない多崎つくると、彼の巡礼の年

4.スプートニクの恋人

 

僕の場合は、この4つをおすすめすると思います。

「1Q84 」も「騎士団長殺し」も読んだんですが、

おすすめかと言われると、

読みたかったら読めばいいんじゃないかな、

くらいのおすすめ度になってしまうんですよね。

 

面白いことには変わりないんですが、

僕にとっては、「海辺のカフカ」、「ねじまき鳥クロニクル」のほうが、

インパクトが大きかったんですよね。

海辺のカフカ(上)(新潮文庫)

ねじまき鳥クロニクル―第1部 泥棒かささぎ編―(新潮文庫)

 

あとは、「色彩を持たない多崎つくると、彼の巡礼の年」は、

村上春樹入門として、すごくおすすめです。

なんで入門かというと、

まず、ページ数がそんなに多くないっていうのと、

冗長すぎず、簡潔すぎず、適度な重厚感がある物語だと思うからです。

 

「多崎つくる」は村上春樹の作品の中で、

一番バランスがいいじゃないかな、

と僕は思っているので、入門としておすすめしたい本です。

 

色彩を持たない多崎つくると、彼の巡礼の年 (文春文庫)

あとは、「スプートニクの恋人」も面白かったなあと思うので、

おすすめですね。

 

そんなに詳細に記憶できているわけではないのですが、

「僕」と「にんじん」のやり取りが好きだし、

「僕」が「ガールフレンド」と永遠に分かれるのも、

なぜか心に残っているものがあるんですよね。

 

「スプートニクの恋人」を語るときに、

イデオロギー的なものは必要なくて、

たしかに同性愛を描いているし、

そこには少なからずジェンダー観のようなものも含まれているかもしれない。

でも、そうやってイデオロギーでくくってしまうと、

失われてしまうようなものが、

この小説にはあるんです。

スプートニクの恋人 (講談社文庫)

 

僕にとって良い小説っていうのは、

単なるイデオロギーでは語りつくせないものを、

繊細微妙に描いている作品であり、

村上春樹は、それができる稀有な作家というわけです。

 

それは、どの作品にも共通していると思います。

村上春樹の小説のテーマって、

喪失と再生っていうテーマが含まれているなと、

僕は思っていて、

どの作品でも、何かしらの喪失があり、

その喪失から、どうやって再生していくか、

ということがあり、

喪失で失ったものと、失われずに残ったもの、

について角度を様々変えながら描かれているような気がしています。

 

それは、社会的なイデオロギーでくくることはできなくて、

個人個人で、感じ取って、

そこに隠されているメッセージを受け取るしかないのだと僕は思っています。

そこには、一人ひとり違った受け取り方があってよいのでしょうし、

固定された受け取り方はないのだと思います。

 

何か人生経験を経たら、感じ方も変わるでしょう。

 

あえて言うと、

なにもわからなくてよい。

 

なにもわからなくてもいい、なんて言われると、

おかしいと思われるかもしれませんが、

実際、僕はまだ村上春樹の小説の何がわかっているのだろう、

と思ってしまうところがあるんです。

 

それくらい、謎が多いし、考察して、

無理やり答えを出すべきものでもないような気がしているんです。

 

ただ、素直に読み、率直に物語を受け取ればいいのだと、

僕はそう思います。

 

ということで、村上春樹のおすすめの長編を4つ紹介しました。

まあ、どれもいい本なので、気になるものがあれば、読んでみてください。

最後までよんでいただき、ありがとうございます。

では!

 

物との向き合い方

こんばんは。

今回は、物との向き合い方というテーマで書いていこうと思います。

最近は、福田恒存の本を読むことが多くて、その中で扱っていたのが、

西洋と日本の物との向き合い方の違いについてでした。

 

ざっくり、どんな感じのことが書かれていたのかというと、

日本的な物との向き合い方っていうのは、

物を物質として切り離しているのではなく、

物にも心が宿っていて、自分の一部だと考えて向き合っていると。

しかし、西洋的な物との向き合い方っていうのは、

物を物質としてしか見ず、交換可能な物として扱うと。

 

これっていうのは、なんとなくわかる、という人もいるのではないかと思います。

八百万の神というくらい、日本的信仰のあり方っていうのは、万物に神が宿るっていう前提があります。

人間にももちろん神様が宿っているし、物質にも神様が宿っていると考えます。

日本的な職人さんって、道具を大切に扱いますが、それは仕事を仕事として捉えるのではなく、

そこに何らかの信仰心であったり、ただの仕事ではなくて、お仕えする事としての尊さみたいな気持ちをお持ちの方が多いのではないかなと思います。

このように、日本的な物との向き合い方っていうのは、物を物質としてだけ見ず、その背景であったり、愛着であったり、物質に宿るものについて思いを馳せながら関係性を築いていきます。

 

しかし、日本でも、西洋化が進むにつれて、物を物としてしか見れない人も増えてきているのではないかな、と思います。

ある論争があって、

つい最近、僕もその論争をしたのですが、

その論争っていうのが、

物を壊された時に、怒るか、怒らないか、

という論争です。

 

誰かに大切な物を壊されてしまった時に、僕は怒ります。

しかし、怒らない人もいて、

怒ってもどうにもならない、とか、

怒ったところで、その人との関係性が悪くなるだけだ、とか、

買い直したりすればいいだけなのに、怒って関係性を悪くする必要はない、とか、

そんな反論をしてきます。

 

その反論を受けた時、僕はうまく言い返せなかったんです。

反論の言っている意味はわかるし、それは一理あるんだけれど、

なんか違う。絶対に何か違うんだよな、というモヤモヤがありました。

 

そのモヤモヤを端的に言い表しているのが、

福田恒存のいう、西洋的な物との向き合い方と、日本的な物との向き合い方の違いでした。

 

僕は、周りの人と比べても、

日本的な物との向き合い方が強い気がしています。

どんなに大量生産された物であったとしても、

僕が気に入って買った以上、その買ったものは一点ものなんですよね。

たとえ今手元にあるiPadは交換可能だとしても、

このiPadはこのiPadだけしか存在していないし、

僕はこのiPadに愛着を持っているんですよね。

だから、このiPadを壊されてしまったら、

その僕とこのiPadとの間にある関係性が損なわれてしまうという訳です。

その関係性っていうのは、交換不可能だからです。

 

iPadは交換可能な物質だとしても、

僕が長い年月をかけて使い慣らしてきた歴史であったり、

時間の流れであったり、

思い入れであったり、

愛着であったり、

そういう関係性を壊されてしまうから、僕は物を壊されたら怒ってしまう。

 

僕にとっては、

その関係性は他のもので交換できるわけではないからですね。

 

これは、西洋の哲学者も指摘していることではあるんです。

マルティンブーバーという哲学者は、二つの関係性を指摘しています。

我ー汝の関係性と

われーそれの関係性です。

我ー汝の関係性は、交換不可能な関係性をさし、

われーそれの関係性は、交換可能な関係性を指します。

愛着があったり、

長い年月をかけていたり、

思い出であったり、

そういうのが深まっている関係性が「我ー汝」

逆に、深まっていない関係性が「われーそれ」なのです。

マルティンブーバーは、人間関係においてそれを指摘しているわけですが、

それを人間関係だけではなく、

物との関係性においても適用できるはずだということですね。

 

物を壊された時に、

怒るか怒らないか、

っていうのは正直、

ケースバイケースで異なりますし、

怒る場面も怒らない場面もあるものです。

 

なので、壊された側が、怒る、怒らないより、

壊した側が、

どれだけその壊してしまった物の奥にあるものを感じ取れるか、

っていうのが大事なのではないかなと思います。

 

ただの物だし、交換可能なんだから、

怒るのはおかしい、

って逆ギレする感じで思うのか、

 

ただの物ではなく、

その背景にはその人の思い入れや、

物との関係性があったのだから、

たとえ怒られてしまったとしても、

真心を込めて謝ろうと思うのか、

 

それはその人自身の生き方を投影しているのかもしれませんね。

怒るのはおかしい、とか、

怒るべきではない、とか、

そんなものは、壊された側の論理であって、壊した側が使うべき論理ではないんですよね。

壊された側が、ちゃんと謝ってくれているし、怒らないでおこう、とかそういう論理で使うべきなんです。

 

物質はいずれ壊れるし、それに執着するのは間違っている、とかいうのも、

それは壊された側が気持ちを整理するときに、使う論理であって、

壊した側が振りかざす論理ではないんですよ。

 

ものを物としてだけ扱う生き方と、

ものには使う人の心が宿っている尊さを感じて扱う生き方と、

どちらの方が精神的に豊かな生き方ができるか、

というのは僕がいうまでもありません。

 

ちなみに言えば、

人間だって、体は物質です。

体が物質なのだから、ものを物として扱う生き方をしている人は、

人間もそのように扱ってしまうし、交換可能である物質であるかのような勘違いをしてしまいがちです。

 

でも、人間には心があるって誰でもわかっていますよね。

人間には心があり、感情がある。

その感情が体にも影響を与えるし、

それによって体調だって変わる。

っていうことを体感ベースでわかっているはずです。

心と心で繋がっている関係性って、

交換可能ですか?

違いますよね。

 

心っていうのは、

間違いなく、

その人自身だけのもので、

関係性ありきですよね。

繋がる心が変われば、

関係性も変わるし、

関係性をどれだけ大切にするかによっても心が変わります。

 

パソコンであっても、

それは同じなんですよ。

パソコンを大切に扱う人のパソコンは、長く使えたりしますし、

イライラしながら使っている人のパソコンは、

すぐ壊れてしまったりするものです。

 

使う人の心が、

ものにも必ず影響を及ぼしているわけです。

自分の心が物にも宿るって考えたら、

その物っていうのは、

自他の区別がつかなくなっていきます。

 

たとえば、車なら長年使い続けてきた車には愛着が湧いて、

相棒みたいな感覚になっていくと思います。

服でも、本当にお気に入りの服を手放す時っていうのは、

身を切り裂くような思いになると思います。

 

それっていうのは、

人間関係でも同じですよね。

物との向き合い方っていうのは、

人間との向き合い方を写しているんです。

物を大切に扱う人っていうのは、

物にも愛されるし、

人間関係も大切にできるから、

人間にも愛されるし、

 

物を大切に扱えない人っていうのは、

物に愛されず、

人も大切にできず、

心が荒んでいくんです。

(物を壊されて怒らない人=物を大切に扱えない人というわけではなく、

ただ単に、物を大切に扱えない人のことを言っています)

 

大切にしていた物を壊された時に、

僕は怒りや悲しみの感情が湧いてきてしまうでしょう。

それは、僕の一部である僕の命の断片を損なわれたと感じるからです。

怒るのがよくないことであったとしても、

そこに文句を言われる筋合いはない。

命の断片を損なった人に文句をいう権利など存在しないからです。

 

しかし、僕は、怒ったからといって、

その人との関係性を悪くしないでしょう。

(一時的に悪くなっても修復できると思うし、その努力をすると思います)

なぜなら、僕は物を大切にしたいと思うように、その人を大切にしたいと思うから。

 

物を大切にしたいという思いを、

背景を、

どれだけ感じられる人なのか、

物の背景をどれだけ感じようとする人なのか、

によって、

関係性は変わっていくでしょう。

 

物の背景を汲み取れる人は、

物を大切に扱うことができると僕は思っています。

物の背景を汲み取れる人は、

物を壊してしまって怒られたとして、

逆ギレすることはないでしょうし、

物はいつか壊れるんだから、

怒るべきではない!とか、

そんなことを言わないのではないかなと思います。

何か一つの完璧な答えがあるわけではないし、

怒ったら悪、

怒らなかったら善、

みたいな短絡的な答えはあり得ません。

 

それなのに、

それを一般化して、

物を壊された時に怒る人は人間としてよろしくない、

っていうのは、

おかしいのではないかなと思います。

考えるな。感じろって感じです。

 

僕はもともと主意主義的なので、

主知主義の頭でっかちロボット人間には言っている意味がよくわからないと思います。

 

ということで、

わかる人に伝わったらそれでいいし、

物との向き合い方を自省する機会にしてもらえたらと思います。

 

最後まで読んでいただき、ありがとうございます!

では!

まんまと洗脳されていたことが明らかになった件

こんばんは。

今回は、まんまと洗脳されていたことが明らかになった件について、

書いていこうと思います。

 

先に書いておきますが、

宗教とかオカルト的な洗脳にかけられていたわけではないです。

 

社会からの洗脳、

国家からの洗脳にかけられていたことに気付かされたということなんです。

 

どんな洗脳かというと、

憲法は、「法律の法律」であり、

国民の義務を規定している、

国民を縛り付けるものだ

っていう洗脳です。

 

え?その通りじゃない?

と思った読者の方、

あなたもまんまと、

洗脳に引っかかっていますよ。

 

憲法の定義から、いきましょう。

Chat GPTから引用しますと、

近代民主主義国家における憲法とは、

**国家権力の行使を制限し、

国民の権利や自由を保障するための最高法規**です。

また、政府の仕組みや機関の構成、

権限分立などの基本的な枠組みを定めています。

太字にある通り、

国民が権利を主張し、

国民が、

国家や権力を制限するもの

それが憲法なんです。

 

ここで、多くの人は、

疑問に思うでしょう。

 

あれ?

日本国憲法って「国民の三大義務」を書いてるよな?

 

権利じゃなくて、

義務を憲法に定めるの

って変ですよね。

 

それが日本国憲法の闇なんです。

日本国憲法の作られた背景について、

おさらいしましょう。

日本国憲法の制定は、

第二次世界大戦後、

連合国軍総司令部(GHQ)の主導で進められました。

1946年2月、GHQは日本政府に憲法改正を求め、

松本烝治を中心とした日本政府の改正案が提出されましたが、

 

GHQはこれを不十分と判断し、

自ら憲法草案を提示しました。

その草案をもとに、

日本政府は修正を加え、

同年11月3日に日本国憲法が公布され、

翌1947年5月3日に施行されました。

 

この憲法は、

国民主権、

基本的人権の尊重、

平和主義の3つの原則を掲げています。

この通り、

国民の権利を主張するはずの憲法が、

権力を制限するはずの憲法が、

GHQや政府(権力)の独断で、

制定されてしまったのが、

日本国憲法なんです。

 

そもそも国民が一文字も決めていないのに、

それをさも有難いものかのように、

改憲もせず、

従順に従い続けてきたのが、

日本国民なんですよね。

 

でも、日本の教育では、

そこに疑問を持たないように、

憲法の定義なんて教えないんです。

 

僕も、つい最近まで、

日本国憲法は悪いものだと思っていませんでしたし、

改憲する必要ってあるの?

って感じでした。

 

でも、憲法の定義を踏まえてみると、

改憲というか、

そもそも新憲法を、

国民が主導で、

作っていく必要性すら感じています。

 

これって、洗脳ですよね。

日本の教育を受けていると、

あたかも憲法は国民の義務を規定するもので、

国民は憲法に縛られているかのように思ってしまいます。

そして、

日本国憲法は素晴らしい憲法で、

今後も守り続ける必要があるかのように思ってしまいます。

 

でも、本当はそんなことないんです。

国民が権力を制限し、

自らの権利を主張するものが憲法なんです。

そもそも国民主権のはずですし、

国民主権ということは、

国民が国家権力をコントロールするということです。

 

国家権力の上に国民がいるので、

国家権力より、国民が一番偉いんです。

 

日本ではどうしても、

その辺を自覚できないんですが、

事実として、

国民が権力の上に立っているんです。

 

なので、政治家は偉いわけでも、

僕らの上司でもないわけで、

こちらが指示を出す側なんです。

 

どうでしょうか?

あなたも洗脳にかけられていたのではないでしょうか?

 

日本では、国民の三大義務は有名ですよね。

憲法に定められている、

納税の義務、

普通教育を受けさせる義務、

勤労の義務、

この三つですが、

 

そもそも論、

勤労が義務として定められたら、

それは強制労働と言います。

強制労働を強いられる人を、

奴隷と言います。

 

日本国憲法は、

国民は奴隷である!

と規定しているようなものです。

 

国民は奴隷じゃないです。

 

勤労は本来義務じゃないんです。

 

働いて、お金を得て、

自己実現していくために、

勤労するんです。

 

たしかに、公共の福祉を実現するために、

ある程度の義務を明確にしておく必要があるのは理解できます。

義務が全くない状態にしておくほうが、

逆に公共の福祉を損なうことがあるからですね。

でもだからといって、

本来的には権利であるものを義務ととらえてしまうのは、

おかしいことですよね。

 

公共の福祉を実現するために、

国民が自らお金を募って、

インフラなどを整えるために行うのが、

納税のはずです。

 

それって権利ですよね。

国民の権利として、

税金を納めて住みよい国を作る。

 

それなのに、

国民の義務としてだけ納税を規定して、

教育においても義務として、

強調された教え方をされてしまうので、

国民は税金をいやいや払わされていて、

税金はむしり取られるものだ!

という間違った認識(洗脳)が広がってしまうんです。

 

勤労についても同じです。

憲法に定められた義務だから、

仕方ないから働くっていうのは、

奴隷精神です。

 

本来、働いてお金を得て、

自己実現するために勤労するはずで、

勤労をしなくてもお金がある人は現に働いていないですし、

資産収入だけで生活している人も富裕層にはいるわけです。

この点からも、別に勤労は義務ではない。

ということは明らかです。

 

義務だったら、

どんなお金持ちでも働かなければいけない、

ということになりますよね。

実際にはそんなことはないわけです。

 

それなのに、憲法に勤労は義務だと書いてしまっていて、

国民は、勤労を義務だと勘違いして、いやいや働くことになる。

本来権利であるものを義務だと勘違いすると、どうなるか?

モチベーションが間違いなく下がります。

 

卑近な例ですが、

夫婦で、休みの日に夫が家事をやってくれようとしているとします。

そのときに、もし、妻のほうが、夫が休みの日に家事をするのは義務だ!

と言い放ったとします。

本来、家事は義務ではないし、

休みの日にわざわざ家事をやってあげよう!

と自主的にやろうとしていたのに、

義務だから当たり前だといわれると、

モチベーションは間違いなくダダ下がりです。

 

なんで、義務になった瞬間にモチベーションが下がるのか、といえば、

人間っていうのは、自発性を発揮しているときに、

パフォーマンスが上がる性質があります。

どんなことであったとしても、

そこに自分が決めてやっている、

という意識があるのか、

誰かにやらされている、

という意識があるのとでは、

パフォーマンスが全く違うんですよね。

 

これは、誰しも実感ベースでわかると思います。

やらされているんじゃくて、

自らやっているんだ!

っていう意識が、

自己効力感につながって、

モチベーションが上がり、

パフォーマンスも上がるんです。

 

やらされている、

っていうのは、

根源的にモチベを下げるように、

DNAに刻まれているのかもしれません。

 

人類の歴史をたどれば、

奴隷制度があったり、

封建制度があったり、

身分制度があったりと、

自分の意志とは関係なく、

外部から無理やり労働をさせられる、

ということが当たり前でした。

 

考えてみれば、

奴隷労働なんて最悪のモチベでやるだろうし、

そこに、自己効力感なんてなく、

パフォーマンスなんてどうでもよく、

どんどん気力も体力も失っていくだけです。

 

先ほども書いたように、

義務づけられているから仕方なく働く

っていうのは、

完全に奴隷精神です。

 

そんな奴隷精神を、

義務教育の中で、

無意識に植え付けられていると考えると、

めっちゃ恐ろしい洗脳じゃないですか。

 

しかも、そんな恐ろしい洗脳をかけるような、

憲法の草案を作ったのは、

GHQですよ。

 

わざと日本人に奴隷精神を植え付けようとした意図があったとしても不思議ではないはずです。

 

そんな恐ろしい洗脳から、

1人でも多くの人に解き放たれて欲しい。

そんなことを思ったので、

この記事を執筆いたしました。

 

よろしければ、周りの方にも、

憲法とは何か、というところを、

教えてあげていただきたいです。

 

参考図書

 

 

最後まで読んでいただき、ありがとうございます。

では!

キングダムの王都奪還編から学べること

こんばんは。

今回は、キングダムの王都奪還編から学べることについて

解説していきたいと思います。

 

キングダムといえば、信と漂の二人の場面から話が始まり、

漂が死んでしまい、信は政の王都奪還計画に巻き込まれていくことになります。

 

ここのストーリーに引き込まれて、

一気にキングダムを好きになる人は多いのではないでしょうか。

僕自身も、初めて見たとき、続きが気になりすぎて、

もう一気に見てしまったのを覚えています。

 

それくらいキングダムの王都奪還編には魅力がつまっているので、

ただ面白かった!だけではもったいないのです!

そこで、今回は、この王都奪還編から学べることを解説していきます!

 

面白いストーリーの要素が全部詰まっている!

まず、面白いストーリーとは何か?

ということです。

面白いストーリーに欠かせない要素が、

この王都奪還編にはつまっているんですよね!

これは、どのヒット作にも大なり小なり含まれている要素何ですが、

ひとまず箇条書きで上げると、

 

・現状では考えられないほど、大きな夢を持つ(天下の大将軍になる)

・奇跡的な出会いによって、運命が大きく変わっていく(政と信の出会い)

・大切な人物の死(漂の死)

・思いを引き継ぐ(漂の思いを信が引き継ぐ)

・仲間が増えていき劣勢な状況をひっくり返す(山の民の加勢と王都奪還)

 

こんな感じの要素が、面白いストーリーには含まれているんですよね。

キングダムには()で書いてあることが実際に起こっています。

ワンピースで考えても面白いと思いますし、

ナルトで考えてみてもいいと思います。

ナルトでいえば、

 

・現状では考えられないほど、大きな夢を持つ(火影になる)

・奇跡的な出会いによって、運命が大きく変わっていく(サスケや自来也などとの出会い)

・大切な人物の死(自来也の死)

・思いを引き継ぐ(自来也の思いをナルトが引き継ぐ)

・仲間が増えていき劣勢な状況をひっくり返す(ペインを倒したり、第四次忍界大戦など)

 

こんな感じでアナロジー出来たりもします。

 

こんな感じで、キングダムの王都奪還編には面白いストーリーの要素が詰まっているんです!

 

そりゃ面白くないわけないですよねw

 

日常で生かすためには?

特に大事なのが、最後に劣勢な状況をひっくり返すところで、

これって、日常でも大切なことなんです。

なんで大切なのか、というと、

日常でも劣勢な状況ってあるじゃないですか。

 

例えば、新しい習慣を身に着けようとしているけれど、続かないときとか。

悪い習慣をやめようとしているときっていうのも、

かなり劣勢な状況だと思うんですよね。

 

まるで自分の中に、天使と悪魔がいて、

・悪魔が悪い習慣をやってしまおうとする自分

・天使が悪い習慣をやめようとする自分

その両者の勢力図が、今の自分を表しているんだと思うんですよね

 

その勢力図を塗り替えていく作業って、

キングダムの王都奪還と似ていませんか?

 

自分という存在が王都だとすると、

その王都を悪い勢力に乗っ取られているのが、

悪い習慣をしてしまう自分なわけです。

 

その乗っ取られている王都を奪還しようと、

新しい習慣を取り入れたりするとき、

必ず、悪い習慣をしてしまう自分、悪魔から反発を受けるわけです。

その悪魔を退けて、王都を奪還するっていうのは、

なかなか至難の業だったりするんですよね。

 

どれくらい大きな習慣かにもよると思うんです。

本当に何十年も続けてきた悪い習慣っていうのは、

何十年も王都を乗っ取り続けてきたわけなので、

その分だけ、勢力として大きくなっているわけですよ。

 

それをひっくり返すためには、かなりの努力が必要で、

政が楊端和を味方につけて、山の民たちを味方につけたように、

少数でも味方を増やしながら、ひっくり返すことが大事なわけです。

 

劣勢な状況で仲間を増やす方法

どうやったら、味方が増えていくか、っていうのも

王都奪還編に描かれていて、

政や楊端和を説得するときに、どのようにやっていたでしょうか?

頭ごなしに説得していたわけではないですよね。

世界がどのように変わっていくのか、

というビジョンを共有していたんです。

 

この、ビジョンを共有する、しかも解像度高く共有するっていうのが、

自分の中の天使の勢力を大きくしていくうえで欠かせなくて、

この習慣を身に着けたら、もしくは、この習慣をやめたら、

こんな風に世界が変わる!見える景色がこんなに変わる!

っていうビジョンを自分の中で解像度を高めていくことが、

めちゃくちゃ重要なんです!

 

これっていうのは、だれを説得するにしても、大事なことで、

誰かの心を動かして、自分の味方になってもらうっていうのは、

同じビジョンを共有して、そのビジョンっていいな、

世界がこんな風に変わったらいいな、

と思ってもらうことが必要不可欠なんですよね。

 

子どもが親を説得するときでも、

仕事で何か商談をするときでも、

ビジョンを共有するっていうことができるとき、

人の心は動くものなんですよね。

 

キングダムでも、王都奪還編では、

最低な人物として描かれていた成蟜ですが、

のちのち政の強力な味方になり、呂不韋との闘いで活躍します。

 

成蟜ですら、政のビジョンに感化されて、心が変わるわけです。

政の描くビジョンっていいな、っていうところから、

人は変わっていくっていうことを表しているんですよね。

 

なので、自分を変える、自分の悪い習慣をやめていくときでも、

それは言えるんです。

自分自身の中で、解像度高く、未来のビジョンを描く!

っていうのが、習慣を変えていくうえでも、

人生を変えていくうえでもめちゃくちゃ重要なんです。

 

誰しも、これやっていたらだめなんだけどな、

って思いながらも続けてしまっている習慣ってあると思います。

たばことか、お酒の飲みすぎとか、

中毒性のあるものほど、なかなかやめられない

っていうところがあると思うんです。

 

しかしですね、

そういう習慣をやめてできた隙間で、

どんなことをするか?っていうことだったり、

その習慣をやらなかったらできる面白いことをたくさん見つけてみるんです!

そうやって、自分の中で、習慣をやめること、新しい習慣を身に着けることでどれだけ変わるのか?っていうのを具体的にイメージしてみることです!

そのイメージが強ければ強いほど、自分の中の天使の勢力が拡大していって、

よりよい方向に自分の人生が変わっていくんだと思います。

 

そして、そうやって自分が変わったら、

ほかの人にもどんどん影響が波及していくわけですよ。

自分が変わって、その自分を見ている周りの人が、

いいな、って思ってくれて、その人も変わっていって、

そうやって大きく変わっていくわけです。

 

こうも言えるかもしれません。

何か世界を変えたい!っていうとき、

まず、自分の中の天使の勢力がどれだけの力を持っているのか、

っていうのが大事になっていて、

その天使の勢力が強くないと、周りの人に影響を与えていくことができない。

 

まず、世界を変えるには、

自分自身の中でどれだけ解像度高く世界が変わるビジョンを描けるか、

っていうことなわけですね。

信も政との出会いを通じて、

大将軍への道を解像度高く描けるようになっていったように、

どうなりたいのか、というビジョンを解像度高く描いていくことで、

自分を変えていくんです!

 

そんな感じで、

キングダムの王都奪還編から学べることについて書いてみました!

最後まで読んでいただき、ありがとうございます!

では!

アドラー心理学への長年の疑問が解消された件

こんばんは。

今回は、昔から抱いていた、

アドラー心理学への疑問について、

少し書いてみようと思います。

 

1. トラウマは存在しない!って本当なの?

 

2. 課題の分離してても、冷たい人間関係しか築けなくない?

 

まとめると、この2つ。

この2つについて、

「超訳 アドラーの言葉」

超訳 アドラーの言葉 (ディスカヴァークラシック文庫シリーズ)

を読んで解消されてしまったので、

紹介しようと思う。

 

まず、

1. トラウマは存在しない

って本当にそうなのか?

という点。

この点については、

「嫌われる勇気」で、誇張されすぎて、

曲解してしまった人も多いのではないか、と思う。

アドラーの本当に言いたかったのは、

トラウマがあったとしても、

トラウマを行動できない言い訳にしてはいけない、ということ。

トラウマになってしまうような、

そういう出来事が起こること自体を否定しているわけではない。

ということ。

アドラーは「とにかく行動すること」を重視しているように僕は感じていて、

トラウマを言い訳にして、

行動しない理由探しをしていても、

人生って好転していきませんよね、

っていうことをアドラーは言いたかったんだな、と思いました。

 

次に、

2. 課題の分離してても、冷たい人間関係しか築けなくない?

僕に限らず、誰もが、「課題の分離の壁」にいつかはぶち当たる。

課題の分離って、人間関係を冷たくしていくだけだという壁だ。

これは自分の課題、

あれはあなたの課題、

分離して、分離して、分離して、

その先に、温かさってありはしない。

アドラーって、

そんな冷たい人間関係を「良し」としていたんだろうか?

そんな疑問が「嫌われる勇気」を読んで、

「課題の分離」の概念を理解してから、ずっとあった。

でも、「課題の分離」は、

こじれてしまった人間関係をいったん、解きほぐすために使うものなのだ。

 

課題の分離は通過点に過ぎず、目的はもっと先にあるということだ。

その目的が、「共同の課題」を設定すること

自分と相手で一緒に乗り越えていくための課題設定をすること、

 

例えば、夫婦で、

夫が靴下を脱ぎ捨てる癖があったとして、

妻はそれをやめて欲しいとする。

それでケンカしてしまって、

妻は夫に対して、

ギクシャクした感情をもってしまう。

 

でも、いったん、

課題の分離をして、妻は感情を落ち着けられる。

 

夫の癖は、夫の課題で、

夫の行動は無理やり変えることはできない、と。

そうやって、いったんギクシャクした感情を落ち着けて、

夫婦で話し合い、

共同の課題を設定することが大切だから、

課題の分離をするのだと。

(この場合、

脱ぎ捨てやすい場所にかごを設置するから、

そこに入れる約束をする、など)

 

一緒に生活していたら、無限に争点はある。

その争点に折り合いをつけて、

生活していくために、

一旦気持ちを落ち着ける手段として、

「課題の分離」を使うのだ。

そうすることで、課題の分離の壁を乗り越えられるのだと思う。

 

こんな感じで、

僕の長年の疑問を解消してくれた、

「超訳 アドラーの言葉」は、はじめにだけでも読むと良いと思う。

とてもオススメです!

超訳 アドラーの言葉 (ディスカヴァークラシック文庫シリーズ)