1日1徒然草

最近、1日1徒然草ということをやってみている。

単純に、1日に一つ、徒然草を読んで、写経するだけ。

習慣化して、できる限り続けようと思っていて、毎日インスタのストーリーにあげている。

やってみてわかったけれど、

卜部兼好、かなりすごい。

すげぇこと書いてるなと思う。

 

単に悪口を書いているだけのときもあるけれど、

悟ったお坊さんのようなことも書いていて、読んでいて感服する。

法師というくらいだから、仏道を歩んでいた人だ。

 

徒然草は、随筆だから、その一文だけで完結している。

源氏物語のように、1から全部読まなくていいし、短いところだけ読むのも結構良い。

 

短い中に圧縮して書いているから、その分濃厚な文章が多い。

圧縮されているものを読むのは難しい。

展開して理解するだけの解釈力を読者に要求しているからだ。

 

こういう意味かな?と想像しながら、限定されない解釈を思い浮かべるのは、頭も鍛えられ、人間力すらも鍛えられそうですごく喜ばしい。

 

僕も徒然なるままにその日を暮らし、

頭に思い浮かぶ由なし事を

そこはかとなくブログに書き尽くしたい。

「流浪の月」を読んだ感想

凪良ゆうさんの「流浪の月」を読んだので、その感想を書いておこうと思う。

 

 

まず、ストーリーが面白かった。

読みながら、先の展開は読めたし、その読み通りの展開だったけれど、

終始、不穏な空気感があって、おもしろかった。

不穏な空気感っていうのは、危うさと言い換えてもいい。

主人公である更紗と文の関係性しかり、更紗と亮の関係性しかり、

いずれにしても、危うくて、もろくて、はかない感じの空気感が漂っていた。

 

生々しい描写が後半になるにつれて増えていく。

恋愛の終わりかけってなぜあんなにも危険な感じなのだろう。

お互いに平和に終わることのない恋愛って本当にどうしようもなくて、

そのどうしようもなさを描くのが上手だなあと感心した。

 

更紗と亮の恋愛って、どこか他人事のようで他人事ではなくて、

もしかしたら自分の中にも同様の暴力性があるんじゃないか、と疑う気持ちも湧いてきた。

更紗と亮の喧嘩の中に、なぜあなたの許可が必要なのか?

というような内容のことを言っている描写があったが、

その通りだなあと思った。

たとえ恋人であったとしても、個人の行動に許可はいらない。

よほどのことでもない限り、という意味に限定はされるけれど、

普通に生きる(自分の意志を持って行動すること)は誰の許可も必要ないのだ。

 

行きたいところがあるのなら勝手に行けばいいし、

どうしてもやりたいことがあるのなら、やればいいのだ。

誰かの伺いを立てる必要なんてそこには存在しない。

 

また、文体も非常に読みやすくきれいな文体で、

後半は電車の中で一気に読んでしまった。

 

映画化もされているみたいだけれど、

描写の一つ一つが丁寧で、

頭の中に自然と映像が流れてきたから、

映画化するのは難しくなかっただろうなと想像した。

 

頭の中に映像が浮かんでくるような文章を書くことができることは、

一つの文才の形なんだなと思った。

僕にはそんな才能はないのだろうし、特別な才能だなあと思った。

 

あとは、文も更紗も亮もみんな救いを求めて生きているんだなというのも印象的だった。

現代に生きていたら、別に何もしていなくても息苦しさや閉塞感を感じてしまう。

そんな中で、人々は何かに救いを求めているのだと思う。

 

この作品ではデジタルタトゥーをテーマに取り上げているけれど、

高度に発達したネット社会では、一つのミスや一度の過ちが半永久的に残り続けてしまう恐ろしさがある。

誰もがその恐怖を感じているのと同時に、対岸の火事状態を維持したくて、あぶれているものを断罪しがちな傾向にあるのだと思う。

たぶん、その対岸の火事状態の野次馬ですら、何かにすがりたいし、何かに救いを求めているのだと思う。

 

どれだけ変わっていても、どれだけ非常識であっても、

誰かひとり、自分が心を本当に許すことのできる人がいる、

それがこの物語での救いだったけれど、

救いは人それぞれ違った形があるはずだ。

 

救いを信仰に求める人もいるだろうし、

勉学に求める人もいるだろうし、

社会的な成功に求める人もいるのだろう。

 

それと、朝井リョウの「正欲」ともつながる部分があったような気がする。

「正欲」との関連性も考察してみると面白いかもしれない。

 

そんな感じでいい作品だったので、

おすすめです

 

最後まで読んでいただき、ありがとうございます!

では!

エーリッヒフロム「愛するということ」を読んだ感想

エーリッヒフロムの「愛するということ」を読んだので、その感想を書いておく。

 

 

この本、本当にいい本なので、おススメ。

 

以下、はじめにより引用

 

人を愛そうとしても、自分の人格全体を発達させ、

それが生産的な方向に向かうように全力で努力しないかぎり、

けっしてうまくいかない。

特定の個人への愛から満足を得るためには、

隣人を愛さなくてはならないし、

真の謙虚さ、勇気、信念、規律がなくてはならない。

これらの特質がほとんど見られない社会では、

愛する能力を身につけることは容易ではない。

実際、真に人を愛せる人をあなたは何人知っていますか?

しかし、その仕事が困難だからといって、

それを口実に、その仕事の困難さや、その仕事を達成するのに何が必要かを知ろうとする努力を放棄してはいけない。

この部分に、この本でフロムが言いたいことが詰まっていると思う。

 

愛っていうのは、どこまでいっても、個人が個人を愛するっていうことだととらえがちだけれど、フロムは、私たち個人個人の愛には社会的な影響があるのだと説く。

 

現代には現代なりの社会的な影響のもとに愛もあると。

 

現代とは、資本主義の時代だ。

資本主義は、なんでもお金に換算できるということが前提になっている。

商品はもちろんお金に換算することができるし、

人間の労働力もお金に換算することができる。

時給という概念も、資本主義があってこそだ。

 

お金に換算することができるということは、

交換可能なものに置き換えることができるということだ。

資本主義を象徴しているものと言えば、僕はコンビニを思い浮かべるのだが、

コンビニはどの地方に行っても同じ商品を売っているし、

どの地方でも同じような接客だし、どの地方でも交換可能だ。

 

逆に、その土地にしかないもの、

例えば、神社や山や川などは、その土地に固有のもので、

交換不可能なものだ。

 

今の世の中を見渡してみると、いかに交換可能なもので埋め尽くされているか、身にしみてわかる。

その土地にしかなかった商店街は、ショッピングモールに代替され、その中に入っている店舗はすべて交換可能なものになっている。

 

資本主義は、安全で快適で便利なものを推進していこうとするという性質がある。

この資本主義の交換可能性は、便利で安全で快適であるがゆえに、

精神的に豊かでない人間にとっては不安を生み出すものでもある。

 

資本主義では、システムの中に組み込まれて、その枠組みのなかで、

歯車として機能することが求められる。

歯車としての機能を求められるがゆえに、人は没個性的になっていき、

徐々に画一化されていく。

日本の教育は、まさにこの没個性を推し進め、社会の歯車を作るための教育に成り下がっている側面が大きい。

 

フロムの指摘は、このような資本主義社会の中に生きていたら、

そこになんの疑問も持たずに生きていたら、

愛するということの本質をはきちがえてしまうのだということだ。

 

愛すらも打算になり、

愛すらも交換可能であるかのように勘違いしてしまうということだ。

 

マッチングアプリにどっぷりはまりすぎてしまう人がいると思うが、

それは交換可能な世界にハマってしまうということだ。

たとえ、マッチングアプリで理想の異性と出会い、交際したとしても、

マッチングアプリの中には、交換可能な異性にあふれかえっている。

その交換可能であるがゆえに、その交換可能性への期待が人を勘違いさせてしまうのだ。

 

つまり、交換可能な範囲の最大値を求めようとしてしまうということ。

資本主義とは、利益の最大化の追求だ。

人間の恋愛も資本主義の中で毒されている限り、

利益の最大化という幻想に毒されることになる。

 

自分を商品として売りわたし、その商品で得られる最大の利益を得ようとしてしまう心理がどうしても働いてしまうということだ。

 

このような社会の中で、無目的に恋愛をしても、無目的に人を愛そうとしても、

その愛は資本主義の枠組みの影響のもとでの愛でしかない。

 

フロムの説く、愛する技術の鍛錬とは、

そのような資本主義の枠組みにとらわれない愛し方を身に着けるということだ。

 

愛はとことんgiveするものだ。

give&takeに愛はない。

愛はgive&giveだ。これはもう言い古されたことだと思うけれども。

 

愛の人と言えば、イエスキリストだが、

真に愛することができる人物というのは、

周りの原罪すらも背負って、周りの人を助けようとする人のことだ。

 

自他を分けて、断罪するのではなく、

自他を分けず、周りの人も我が事ととらえて、周りの人の罪も背負うのが愛。

 

資本主義の常識から言ったら、狂気にも思えるが、

それができる人を愛に習熟した人というのだろう。

 

僕もそういう人間でありたいが、

最近、愛じゃなかったな、と気づかされることが多々ある。

こんなことを書いている僕自身が、資本主義の枠組みにどっぷりとつかってしまい、

その枠組みに執着し、愛から離れていた。

しかも今もなお、その執着を捨てきれずにいる。

 

そんな自分を嫌悪するのだけれども、

そんな自分すらも愛して生きていかなくては、愛の人に近づくこともできない。

自己犠牲は愛じゃない。

 

愛する人がいるとして、

その愛する人のために悲壮感を漂わせて、自己犠牲的に尽くしても、

それは愛じゃない。

ただ単に自己犠牲している自分に酔っているに過ぎない。

 

かといって、自分のことを優先していたら、

自分のことばかりを考え、損得勘定でしか動くことのできない打算人間になり、

愛を忘れてしまう。

 

愛するっていうのはものすごく難しい。

だから努力が必要だし、鍛錬が必要だと。

そうフロムも説いている。

 

僕も未熟だけれど、鍛錬していきたい。

 

 

 

 

 

もう自分で自分専用の拡張機能を作れる時代だ

最近、GPTがさらに進化したようで、

僕も使いまくっているのだけれど、

すごすぎる。

 

今日はその一端として、

Chromeの拡張機能を作ってみた結果について、書いておこうと思う。

ブラウザを開いて、拡張機能のアイコンをクリックすると、

このようなポップアップ画面が表示される。

ちなみに、デザインも少し現代的な感じにしていて、

真四角ではなく、角が取れた四角にしている。

 

下の緑のSaveボタンを押すと、以下のような感じになる。

チェックボックスが出るようにした。

ちなみに、僕は一切プログラムを書いていない。

GPTに命じ、その返答をそのままコピペしただけだ。

 

それで僕のやりたいこと、僕に必要十分な機能が備わった拡張機能を作ることができる。

だれでも可能だ。

 

なんてこった。すげえ、と少し感動した。

もっと凝ったものをつくるには、何往復ものGPTとの対話が必要なのだろうが、

それは、必要に応じてやればいいし、

自分だけのオリジナルプログラムを作りたいという欲求にこたえてくれるという意味でも、面白い。

 

みなさんも、自分だけの拡張機能を作ってみてはいかがだろうか。

自然な関係性とは何か。

最近、エネルギーがなかった。

周りの人にも「元気ない」とか、「エネルギーないね」とか、言われて、

かなり深刻なほどエネルギーがなかったと思う。

 

エネルギーないときって、

たしかにエネルギーない自覚はあるのだけれど、

エネルギーが戻ってきたときに、

やっとエネルギーなかったな、と気づく。

 

なんで、エネルギーないときに、

自分にはエネルギーがないと気づけないのだろう。

自分にエネルギーがある状態でないと、

自分の状態にすら気配りできないということなのだろうか。

 

エネルギーがないときって、著しくパフォーマンスが下がるし、

明らかにリアクションが悪くなっている。

周りに心配されるっていうのは、

周りの人の気をひいているということになるし、

ひいては、周りの人からエネルギーを奪っている。

 

例えば、恋人との関係性で、エネルギーが自分にない状態になっているとする。

そういうときに、周りに心配をかけているとしたら、

それは、もはや自分だけの問題ではない。

周りの人からエネルギーを奪って、

その恋人にそのエネルギーを与えてしまっているのだとしたら、

それは周りの人にとっても迷惑な話だ。

自分と恋人との関係性だけが大切なのではないし、

周りの人ともいい関係性を築いていくことは言うまでもなく大切なことだ。

 

自分と恋人との関係だけを優先させるのは、

そういう意味でもやってはいけないことだ。

たしかに、恋人との関係性も大切だし、恋人を優先する気持ちもわかるし、

そうなりがちなのもわかる。

けれども、それではだめだ。

 

人を大切にするっていうのは、

自分と相手だけではなく、その相手の背景にいる人も大切にしてこそだ。

関係性を大切にするというのは、

相手が元気でいることができ、

周りに良い影響を与えられる状態でいられるようにするということだ。

 

恋人との関係で、元気がなくなり、

周りの人に心配をかけるような付き合い方をしていては元も子もない。

 

お互いがお互いを大切にするというのはエネルギーを循環させるということ。

エネルギーを循環させることができるなら、相手から奪わないし、相手に与えても枯渇しない。

 

どうすればエネルギーを循環させることができるのか、

それはお互いが我慢しないことはもちろん、

お互いがエネルギーの高い状態でいるということだ。

だいたいの場合、どちらかが我慢しすぎている状態になるし、

我慢を強いるのと、我慢を強いられる関係性になりがちだ。

それがエネルギーの奪い合いの関係性。

エネルギーの奪い合いをやっている場合じゃない。

 

自分が幸せでないと誰かに幸せを与えることなんてできない。

でも自分が幸せであるためには、周りの人が幸せであってほしい。

そういうパラドックスが幸せにはある。

 

自己犠牲的なやり方で、相手を幸せにしようとしても、

それは自分のエゴだし、頑張っているのは幸せじゃない。

相手を幸せにしようとして、何かをしてもたぶん相手は幸せにはならないだろう。

 

そういう作為的なことじゃなくて、もっと不確実でもっと柔らかいところにしか幸せはないのではないだろうか。

作為的じゃないところ、偶然性、たまたま、いいタイミング、

そういうのは、相手のことを常日頃から気にかけているから起きることでもある。

思いがけず利他という本がある。

思いがけない利他って、本当の利他だ。

利他的になろうとして利他的にふるまっているうちはまだ偽物に違いない。

利他的になろうとしなくても、利他的に自然になっている状態が本物だろう。

 

そこには自意識もエゴもなく、作為もない。

ただ、相手の幸せを祈る気持ちが現象になって立ち現れただけだ。

 

水は、やがて蒸発し、雲となり、雨となって循環するように、

祈りの気持ちは、やがて現象となって降りてくる。

自然っていうのは循環だ。

エネルギーも循環することが大事といったが、

循環することが自然であるからだ。

 

誰か一人だけにエネルギーを注ぎ続けている状態は、自然じゃない。

そういう関係性はいずれ破綻するのは目に見えている。

なぜなら自然じゃないから。

自然じゃないことはいずれ壊れるように、この世はできている。

日本では、自然を崇拝してきた。

なぜ自然を拝むのか、

自然は人間にすべてを教えてくれているから。

 

どうしたら関係性がよくなるのか、それも自然に学べるし、

どうしたらエネルギーを循環していけるのか、それも自然に学べる。

 

日本神話は、自然をそれぞれ神さまに例えて、物語にしている。

天地自然、万物を神様にあてがって、

それぞれの関係性から学べるようにしてくれている。

 

本当に日本の神話はすごいのだ。

人生に行き詰まったら、日本神話に帰ればいい。

そこからメッセージを受け取って、日常に生かしてけば、

自然な方向に導かれ、自然にうまくいく。

 

出雲旅行記

出雲に旅行に行ってきた!

なので、その記録を残しておこうと思う。

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まず、出雲の前に砂丘に行った。

めっちゃ綺麗でした。

風が強くて、砂嵐に遭いました😓

砂の風って痛いんやなぁと思いました。

にしても綺麗!

 

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次に水木しげるロード&記念館に行きました。

水木しげる偉大やなって思いました。

これだけ街から愛され、持ち上げられる人ってなかなか、いないんじゃないかな。

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この名言が僕は好きです。

このチャンチャンコの件は、

全ての人間に当てはまることで、

こういう生きていることの背景や、

背後にいる霊的な存在を感じるのって大事なことだし、

そういうことを大事にしていたからこそ、生まれた作品が鬼太郎なんだなぁと思いました。

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美保神社にも寄りました。

知らずに寄ったのですが、

事代主神と、美穂津姫命を祀っている神社で、

綺麗な港のちかくにあります。

この神社では、事代主を恵比寿天と習合していて、

僕の好きな西宮神社では、蛭子大神を恵比寿天と習合しているのですが、

事代主も恵比寿なんや、という新しい発見があり、面白かったです。

 

また、日本書紀では、美穂津姫命は大国主の母神にあたり、

出雲に行く前に、美保神社に参拝できたことは幸運でした。

 

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港の景色綺麗でした!

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次の日、あいにくの雨でしたが、

出雲大社に行きました。

いい空気感でしたね。

男性的な背中の大きさみたいなものを感じました。

特に素戔嗚命を祀っている摂社では、猛々しい空気感を感じ、男性性の品上がった空気を感じました。

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雨ではありましが、逆に空気は澄み切っていて、雨の柔らかさも感じながら参拝できて良かったです。

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出雲といえば、出雲そば!ということで、割子3段を食べました。

もっと食べれたなと少し後悔しております。

 

あとは博物館に行きました。

写真を載せて良いのか謎なので、写真はやめておきます。

銅鐸を見て、ドータクンを懐かしみました。

 

という感じで、すごくいい旅行になりました。

一緒に行った友人たちに感謝したいと思います。

車の運転をほぼ任せっきりにし、爆睡した人なんて、いないですよね。

まさかね。

そんな人いるわけないよね。

🙋‍♂️

 

映画「ティファニーで朝食を」を見た感想

昨日、「ティファニーで朝食を」を見てきた。

なので、その感想を書いておこうと思う。

恥ずかしながら、まだカポーティの原作を読むことができていない。

村上春樹が翻訳を手がけているし、村上春樹が翻訳しているということへの信頼感が僕としては大きくある。

映画を見て、より興味が湧いたので、そのうち読むことになるのだろうと思っている。

 

実際に映画を見てみた感想としては、

自由と不安と葛藤の描き方が印象的だった。

オードリーヘップバーンが演じるホリーは、いろんな自由を追い求めている。

恋愛の自由、

経済の自由、

生活の自由、

などなど。

 

そういった自由を追い求めるのだけれど、そこに付きまとう不安の描き方が、絶妙で、さすがは名作、という感じがした。

 

そして、自由を求めて、愛を失いかける。

 

自由っていうのは、どこか手放しで賞賛されがちだけれど、自由には不安がつきまとう。

個人主義や、自由という、リベラル化が進むと不安が生じるっていうのは、歴史的にも証明されている。

その不安を絶妙に表現しているのが夏目漱石だったりもするが、それについて書くのは骨が折れるから、またの機会に譲る。

 

オードリーヘップバーンのすごいのは、自由と不安の葛藤の表現力だと思った。

自由を満喫しているようで、なぜかネガティブな雰囲気を醸し出していたのがとても印象的だったのだ。

 

どんなに自由になっても、人間の精神は鍛えられない。

不安というのは精神的な問題だし、不安を解消するためにいくら外的に自由になったところで、その不安は内的なものなのだから、根本的な解決にはなり得ない。

自由の中に幸せはあるのだろうか?というカポーティからの問いかけのような気がした。

 

自由を求めるが故に自由に縛られる。

これを、「非執着の着(ひしゅうちゃくのちゃく)」と呼ぶ。

昔から仏教で説かれてきたことだ。

執着を捨て去ることを仏教の修行では追い求めるが、執着を捨て去ることに執着していたら本当の意味で執着を手放すことにはなっていない。

 

自由というのは、執着がなくなるということと似ているが、何か物質に頼って自由になろうとしても、非物質(精神)は自由にしてもらえない。

 

自由の本来性、

それを考える。

個人主義に突き進めば、自由になれるのか。

経済的自由を手に入れれば、自由になれるのか。

そもそも、自由を追求しても幸せはあるのだろうか。

 

それらの問いを抱いた。

誰かと関わると、それだけ縛りが増える。

深く関われば関わるほど、それは強くなるし、折り合いをつけていかないといけないことも増える。

でも、人と深く関わることを避けていたところで、幸せにはなれない。

人間というのは、そういうジレンマの中で生きているのだなと思う。

 

その葛藤の描き方が絶妙でした!

 

ということで、ティファニーで朝食を、オススメです。

最後まで読んでいただき、ありがとうございます。では!