ルックバックを見た感想 ※ネタバレあり

ついさっき、ルックバックを見てきた!

なので、その感想を書いておこうと思う。

 

※以下ネタバレあり

 

箇条書きメモ

・ 藤野の努力と京本の努力

・憧れと比較

・パラレルワールドの解釈

・闇落ちと復活

・それでも書く目的

・喜びの原体験

 

藤野の努力と京本の努力

努力の方向性の違いってあるよなぁと思った。

藤野は、負けん気を全面に押し出して、努力するタイプ。負けねぇぞ。というのがモチベーションになってる。

京本は、すげぇ、こんな人になりたい!こんな絵を書きたい!っていう感動をベースにした努力。

この2つの努力の方向性の違いって、あるよなぁと思う。

誰にでも、どちらの方向性もあって、人によっては、藤野型の方向性が強い人もいるだろうし、京本型の方向性が強い人もいるのだと思う。

 

これは憧れと比較の違いでもあって、

純粋な憧れを原動力にしてるのが京本で、比較を原動力にしてるのが藤野だった。

 

ちなみに僕は、京本型の方が強い。

藤野型の時ももちろんあるけれど、根本的には、京本型のモチベーションで生きている節がある。

この人すげぇって思った人の本は片っ端から読みまくる。感化されやすい体質という感じかもしれない。

 

ルックバックでは、パラレルワールドがある。京本が外に出る世界線と外に出ない世界線。

藤野は京本を外に引きずり出してしまったから京本が死んでしまったのだと解釈するが、

京本が外に出なかった世界線があったとして、死なない世界線があったのだとしても、背中に描いてもらったあのサインを思い出してくれ!と、そういうメッセージを京本から届けられたのだった。

 

人は闇堕ちする。闇堕ちしたときにどのように復活するのか、それが重要だ。

闇落ちしたときに、復活するために、必要なのが、原体験を思い出すこと。

藤野にとっての原体験が京本と創作をした日々、そして背中にサインを書いてあげたことだったのだ。

 

なんで書くのか?

それはその原体験があるからだ。

原体験があるからこそ、人はそれを原動力にして復活することができるのだ。

この映画が示しているのは人の復活力。

どのように復活していくのか、を学ぶことができる。

自分にとっての原体験っていうのは誰しもにあるはずだ。

それを思い出して、熱く生きていきたい!

そんなことを思ったのでした。

 

 

バチェロレッテ3を見た感想

最近はブログをなかなか更新できていないので、電車内で気軽に書いていこうと思う。

いつもはパソコンで書いているのだが、今日はスマホで書いている。

スマホではなかなか書きにくい!

フリック入力だと親指が痛くなるし、キーボード入力だとキーが小さすぎて、ご入力が多くなる。

なにか解決策はないのだろうか、使いやすいキーボードをいろいろ試してみようか。

 

さてさて、そういえば、バチェロレッテのレビューしていなかったので、感想を書いておこうと思う。

 

 

※ネタバレ注意

 

 

Xを見ていると、批判的なものが多い。

まあ、最終回のトークセッションですでに破局していることが明かされたわけだから、予想できたことだ。

 

破局の件は、特に何も思わないので、破局の件を省いて見たときの感想を書いておこう。

 

どうやら、今回のバチェロレッテでは、予算が削られていて、期間が短くなっていたらしい。

たしかに言われてみれば、参加者の親密度が、以前と比べて、薄かったような気がする。

期間が短くなれば、当然選ぶ方は、難しくなる。

そのような状況を踏まえれば、武井さんは頑張ったのだなと思う。

 

バチェロレッテだから、どうしても女王的な人を思い浮かべてしまう。

具体的にいえは、福田萌子さんみたいな人を想定してしまいがちだ。

 

しかし、そんなThe女王みたいな人ばかりではないだろうし、武井さんは、そんな感じの人ではなかっただけのことだと思う。

 

男性側も、期間が短いからか、武井さんへの思い入れが深くなりにくい状況だったのだと思う。

期間が短いからこそ、櫛田さんみたいなスタンスがあっても仕方なかったのかなと思っている。

 

なにやら、番組の弁明みたいな感じになってしまっているが、

個人的には割と面白かった!

誰が残るのかを予想するのも面白いし、

男性たちの失敗を見ているだけでも勉強にはなる。

傍観者として見ているからこそ、イタい行動が目につくし、教訓にもしやすい。

 

あとは、生粋の長男ってこういう感じなのか、とか、意外と家族構成を知るだけでも、理解が深まったりするんだな、とか、人間観察としても面白い。

 

意外と好きなのが家族訪問だ。(今回はリモートが多かったが)

その人の家族、特に親がどんな人なのかを見るのが一番面白い。

ヘェ~、こんな親から育ったんか、

というのを見ているのが一番面白いところだと思っている。

 

まぁそんな感じで、

バチェロレッテ3はそんなに悪くないと思いました!

僕としては、バチェラーよりバチェロレッテのほうが面白いなと思ってます。

次回作にも期待ですね!

ではでは~☻

2035年の人間の条件 を読んだ感想

2035年の人間の条件

 

 

を読んだので、感想を書いておく。

僕が1番共感できたのは、

原理を理解する喜びの部分。

やっぱり落合さんも暦本さんも学問を極めてきた人だから、原理的な理解を重要視していた。

原理的な理解をすることの喜びというのは、喜びの中でも特別で、

特別な感動がある。

その感動は映画を見て感じる感動とも違うし、絵を見て感じる感動とも違う。

おお!わかった!

という感動は、イメージ的には仏教の悟りと似ている。

そういう喜びは体験したことのある者にしかわかり得なくて、

だからこそ、AIが発達して、いろんなことがわかりやすくなって、いろんなことを勉強しなくてもよくなったとしても、残り続けるのだと思う。

わかりやすさの弊害というのもあって、

表面的にわかりやすくても、根本的な原理は間違いなくわかりにくい。

わかりにくいというのは、元々の人間の感覚とはズレていたり、地道に数学的素養を積み上げていかないと理解できないということで、

わかりにくいことを理解できて腑に落ちる感覚は、どんなにわかりやすく説明されても、わかりえないし、ちゃんと段階を踏んで手続きを経ないと得ることのできないものなのだ。

この本の中では、テクノロジーの裏側の数学みたいな表現がされていたけれど、AIの裏には線形代数や確率、統計が隠れている。機械学習は回帰分析の応用だから。

やっぱり大学で線形代数くらいまでは勉強しておかないと、もし原理を知りたいと思った時に勉強する術がない。

そういう意味では、大学までは勉強する価値はあり続けるのかもしれないなとも思った。

 

総じて、わかりにくい部分もあったし、難解な部分もあったけれど、知的ハイな面白い本だった!

 

 

オススメです。

最近読んだ本について

最近、あまり文章を書いていないので、

最近読んでいる本について取り上げていきたい。

 

一番わかりやすいものから順にいこう。

 

 

漢方養生の本は、

単純に、最近健康について考えることが増えてきており、

漢方や東洋医学的な観点から健康についてアプローチしてみたいと思っている。

漢方については、まったくの素人だったので、すごく新鮮で面白かったし、

日常に生かしていきたいと思っている。

漢方では、人の体は、気血水で構成されていると考える。

漢方の基礎知識3「気血水とは」|Kampoful Life by クラシエの漢方 (kracie.co.jp)

この三つを整えていくことを漢方や東洋医学的な観点では重要視している。

西洋医学的な観点では、血や水を整えるという発想には至らない。

血や水を整える、ということはすなわち体の内部の流れをよくするということである。

体内の流れをよくすることが、健康には必要であると考えるわけだ。

自然ともよく似ている。天地自然も常に流れている。

滞らず、とどまらず、常に流れが整っている状態を目指すのは、人間の体でも同じことなのだ。

また、東洋医学では、補(ほ)と寫(しゃ)が重要で、

食べ物などで補う方向と、老廃物を排出する方向のバランスも考える。

漢方養生の本には、血を補うための食品リストなども載っていて、

参考になった。

血を補うためには、赤や黒色の食べ物を摂るとよいらしい。

最近、黒豆茶を飲むようにしていて、血のめぐりが少し良くなったような気がしている。

初心者でもとっつきやすくて、基礎知識の理解も深まり、日常に生かしやすいなと思ったので、おすすめの本です。

 

徒然草は、

 

 

一日一徒然草をやっていたので、それの名残として読み続けている。

本当に吉田兼好は、すごいなと思うし、

随筆の中に教訓が含まれていたりするし、

読んでいて、気持ちがよい。

 

2035年の人間の条件は、

 

 

ぶっちゃけ、よくわからん。

用語が難解なのもあって、何を言っているのかわからない部分もある。

そもそもまだ読んでいる最中だし、

もっとちゃんと読んでからレビューしたいと思います。

 

資本主義の宿命は、

 

 

ちょうど読み終わったけれど、

内容が濃すぎて書きにくい。

さらっと書いてしまえるような本ではなかったという印象。

この本のテーマは、資本主義の宿命である、経済成長と格差のトレードオフの関係を経済学の歴史に基づいて、深く検討していくこと。

経済学っていうのは、かなりかっちりした学問の印象があるし、

些末な知識を身に着けるよりも、学問体系をしっかり基礎から勉強していく必要がありそうだなと思ったので、この本を買ってみた。

経済とまったく無関係に生きている人はこの社会には存在しないし、

経済について知ることは社会について知ること。

たとえ専門家でなくても、経済というのはどういう成り立ちがあるのか、

それについて知っていたほうがいいなと思った。

 

この本の著者は、貧困や格差の経済学に造詣が深いらしく、

この本でも格差や貧困についての議論が多かった。

著者の特徴としては、日本も北欧諸国のような福祉社会を目指すべきだという考えに基づいているところ。

著者の理想としているところがどこにあるのか、っていうのは本を読むうえでかなり重要だと個人的には思っている。

どういう理想があって、そのためにはどうするか、というのが著者の主張の主たる部分になるはずだからだ。

 

本書では、まず日本の格差の現状、世界と日本の格差の比較などを行い、資本主義の変遷について書かれており、最後に日本の格差是正について書かれている。

 

感想としては、よくわからん、というのが正直なところだ。

よくわからん、というのは、本当に高負担、高福祉の北欧社会が理想的なのか、よくわからん、というところだ。

 

別にそこまでの高福祉社会でなくてもよいのでは?というのが正直な感想。

確かに、今の日本の現状を見れば、貧困に苦しんでいる人が増えているのもわかるし、

格差を是正していく必要があるという主張もわかる。

けれども、今の日本でも福祉は充実しているように感じる。

というのは、生活保護も存在するし、医療保険もある。

別に今のままでも福祉的な面は大丈夫なのでは?というのが正直なところである。

 

ただ、税制については、同意できる部分があった。

例えば、累進課税を増やすべきとか、生活必需品の税率を下げるべきとか、

これらは正しいと僕も思う。

わざわざ生活必需品から税金を取る必要はない。

税金を取るなら、娯楽に類するものから取るほうが健全だし、

そのほうが貧困者の生活も楽になるから良いと思う。

まあ、MMTとかもあるけれど、趣旨から外れるから言及を避ける。

 

この本を読むと、経済学についておおまかに理解することができるのでオススメです。

聞いたことがあるけれど、よく知らないし、説明できるほどではない感じの知識が詰まっていて、

例えば、

アダム・スミス

ケインズ

マルクス

ピケティ

などの経済学的な視点について大まかに理解できてよかったです。

 

そんな感じで、最近読んだ本についてでしたー。

「国境の南、太陽の西」を読んだ感想

今回は、村上春樹の「国境の南、太陽の西」を読んだ感想を書いていこうと思う。

この文章の目的は、読んだ感想をただ伝えるだけではなく、読んで僕自身が考えさせられたことや、今の日本人が抱える問題点について書くことだ。

この小説が書かれたのは、1992年だから、もう30年以上も前ということになる。

しかしながら、この小説で描かれていることは、今の日本人にとってもかなり重要なことだと思った。

この小説から考えてみたことを、ひとつひとつ、箇条書きにしてみると、

  • 資本主義の中で生きることに付きまとう不安
  • 資本主義のシステムの中で生きることの弊害
  • ロマンと不安

そんな感じのことだ。

資本主義の中で生きていると、不安にさいなまれることになる。

それは、避けようのないことだ。

資本主義というのは、経済的合理性を追い求めるシステムであり、

そのシステムの中では、人すらも取り替え可能な労働力として扱われることになる。

また、資本家と労働者という階級に分けられることになり、

労働者が社会で生きるためには、労働力という商品価値を社会に提供することが求められる。

労働ができるうちは不安にさいなまれることも少ないが、いつそれが破綻するかわからない。

その破綻がいつ訪れるのかもわからないという不安は常に資本主義では存在する。

 

また、資本主義の中で生きる弊害についても考えさせられた。

資本主義に毒されて生きていると、どうなるのか。

それは、金の亡者に成り下がり、クズ化してしまうということだ。

クズ化とはなにか、宮台先生の言葉を借りると、

損得マシーンであり、言葉の自動機械、法の奴隷に成り下がるということだ。

資本主義に毒されると、人は利己的にならざるをえない。

今の社会を見れば明らかなように、資本主義は人の利己心を掻き立てる。

資本主義に掻き立てられた利己心に縛られ、自分の損得ばかりを考えて、大局を見ることができない人は多いはずだ。

この小説の中では、ユキコ(漢字表記がめんどいので、全て片仮名にする)の父が、資本主義のシステムに毒されてしまった象徴として描かれている。

 

逆に、主人公は、資本主義という荒波のなかでもがきながらも生きている象徴として描かれていると思う。うまく資本主義を使いながらも、クズ化せずに生きようとしている。

しかし、主人公もあまりうまくいかない。

 

この小説には三人の女性が主に登場する。

島本さん

イズミ

ユキコ

 

島本さんは初恋の人だ。

イズミは学生時代の恋人。

ユキコは結婚相手。

 

この三人の女性も象徴的だと思う。

たしかに、男から見たときに、この三種類の女性の影響は大きいと思う。

 

一番、脆弱なのは、学生時代の恋人だ。

この小説でも描かれているのだけれど、正直、学生時代というのは性欲と異性への興味が大きい。

ただその欲を満たすためだけに、恋人を求めている男は多いはずだし、それが悪いというわけでもないと思う。ただ、それだけ未成熟であるが故に、脆弱だというだけだ。

 

初恋だってそうだと言われればそうかもしれないが、性欲が沸き起こる以前の恋という純粋さは強烈で、島本さんはその象徴として描かれているように思う。

運命の出会いというものを感じるのも初恋だしね。

 

ユキコは、妻として支えながら生きてきたという基盤がある。その生活を共にしてきたという愛の基盤があるから、この小説では最終的には、ユキコとの生活を続けていく覚悟を主人公は決めたんだと思う。

 

物語のクライマックスで、主人公とユキコの会話があるけれど、そこに村上春樹が描いてきたことが要約されているような気がしてならない。

村上春樹の小説では、喪失が描かれている作品が多い。損なわれるといってもいいし、失われるといってもいいけれど、そういうことをいつも描いてきたのだと思う。

 

この社会の中で生きていて、すぐに失われてしまうもの、失われてしまいやすいけれど、大事なもの、それを失っても生きるということ、失っても存在しているものはあるのだということ、損なわれてしまっても生きるしかない、損なわれてしまったことを自覚しながら生きるしかない、でもできるなら、損なわれないように、ということを読者に伝えたいのではないだろうか。

 

その失われやすいもの、損なわれやすいものは、愛なのかもしれないし、自分らしさなのかもしれないし、生きる意味なのかもしれないし、または死ぬ意味なのかもしれないけれど、

いずれにしても、生活のなかに埋没していたら、失われてしまいやすいものだと僕は思う。

 

そんな感じのことを考えさせられた作品でした!

面白かったので、おすすめです。

最後まで読んでいただき、ありがとうございました!

では!

闘病記(肺気胸5回目)

突然ではあるけれど、

現在入院中である。

また肺気胸になってしまった。

肺気胸について知らない人もいるかもしれないので、

一応説明しておく。

気胸(ききょう)とは?症状と原因、自然気胸のステージ別の治療を解説 - ヨクミテ|医師監修の医療メディア

僕が初めて肺気胸になってしまったのが、

14歳のころ。

中学二年生のときだった。

はじめてこの病気になったときは、

末恐ろしい気分だったことをよく覚えている。

だって、肺に穴が開いたなんて、信じられなかったから。

え、肺って穴開くことあんの!?

っていうのが当初の感想だった。

 

その後、再発を何度か繰り返し、今に至る。

今回で五回目なわけだが、左を3回、右を2回で、合計5回だ。

ちなみに、今回は右の二回目。

 

アルバイトが終わって家に帰り、

寝て、起きたら、右肺に鈍痛があった。

あ、肺気胸っぽいな、まじか、だる。

と思いつつ、

いや、まだ肺気胸じゃないかもしれないから、いったん数時間寝てみよう。

 

そう思い、数時間安静にして放置してみたが、症状は改善するどころか、逆に悪化し、

おわた、肺気胸や、と悟り、病院に電話をかけ、救急病院に直行した。

その日が日曜だったこともあり、どこの呼吸器内科のクリニックもやってない。

救急病院に紹介状なしで行くほかなく、あきらめて、救急病院に直行した。

 

病院につき、レントゲンを撮ったら、案の定、肺気胸で、

そのまま手術台に乗せられ、胸腔ドレナージという手術を受けた。

胸腔ドレナージ | 看護roo![カンゴルー] (kango-roo.com)

この手術は、気胸患者にとっては、おなじみの手術で、

よほど軽症ならやらなくても済むが、だいたいの場合、やることになる。

呼吸器外科の先生も、この手術は無限回行っているっぽくて、

慣れた手つきで、肺に管を入れられる。

はっきり言って、僕は胸腔ドレナージは嫌いである。

今回で4回目だったが、何回目であろうが、いやなものは嫌だw

管を通すときの、グサッと突き刺される実感があるので、

ウオオオ、となる。普通に麻酔しているが、痛い。

 

ドレナージがおわると、そのまま入院の手続き。

まあ、入院するつもりで来ていたので、

一通り入院に必要なものは持って行っていたから、

この辺は、ベテランの腕の見せ所である。

 

中学生の時は、一人で入院するなんて考えられなかったが、

今では楽勝である。年を取ったなあと実感した。

 

その後は、入院したことを方々に連絡。

謝罪に追われることになる。

 

申し訳ない気持ちと、

まじでどうでもいいわぁ

という気持ちが混在しながらメールを書いていた。

 

その後数日入院し、全身麻酔をしての手術をしてもらった。

その手術を受けるのも4回目である。

 

どんな流れで手術が進んでいくのかということは、知っていたから、

大して不安なこともないはずだったが、

まあ全身麻酔は怖い。帰ってこれるか保証されてはいないからだ。

中学生で初めて全身麻酔をされるときは、

それこそ、ほんまに死ぬかもしれないと思ったものだった。

その恐怖たるや、である。

 

まあ、終わってしまえば、この通り、ブログもかけているし、

もう何ともないわけではないが、回復してきているわけなのだが、

やはり、記憶の継続性や自己の同一性、連続性って不思議なものだなと思う。

 

一度、仮死状態になって、そこから戻ってきても、

まだ自分であるというのが、なんとも不思議だ。

 

そんなこんなで、手術も無事終わり、

もう少しで退院できそうである。

 

入院すると否応なく考えさせられる。

どれだけの人が僕を助けるために動いてくれているのだろう、ということだ。

この病院の看護師さんたち、お医者さん。

看護師さんにもいろいろいる。

病棟の看護師さんもいるし、手術のときに立ち会ってくれる看護師さんもいる。

ご飯を配膳してくれる人がいて、掃除をしてくれる人がいて、

病院に勤めてくれている人がいて、事務をやってくれている人がいて、

ご飯を作ってくれている人、その材料を作ってくれている農家さん、

病院を作ってくれた人、病院を守り続けてくれた人、

西洋医療を発展させてきた人々、先人たち、親、家族、先祖。

 

今、自分がこの医療を受けられるまでにどれだけの人が頑張ってきたのだろうと、

思いをはせると、なんとも言えない気持ちになる。

こんな俺が生かされていいのか、という気持ちになる。

これだけ恵まれていて、先人たちに恥じない生き方ができているのだろうか、と反省する。

 

退院後、どう生きるのか、それは僕次第。

神様に試されているような心持だ。

1日1徒然草

最近、1日1徒然草ということをやってみている。

単純に、1日に一つ、徒然草を読んで、写経するだけ。

習慣化して、できる限り続けようと思っていて、毎日インスタのストーリーにあげている。

やってみてわかったけれど、

卜部兼好、かなりすごい。

すげぇこと書いてるなと思う。

 

単に悪口を書いているだけのときもあるけれど、

悟ったお坊さんのようなことも書いていて、読んでいて感服する。

法師というくらいだから、仏道を歩んでいた人だ。

 

徒然草は、随筆だから、その一文だけで完結している。

源氏物語のように、1から全部読まなくていいし、短いところだけ読むのも結構良い。

 

短い中に圧縮して書いているから、その分濃厚な文章が多い。

圧縮されているものを読むのは難しい。

展開して理解するだけの解釈力を読者に要求しているからだ。

 

こういう意味かな?と想像しながら、限定されない解釈を思い浮かべるのは、頭も鍛えられ、人間力すらも鍛えられそうですごく喜ばしい。

 

僕も徒然なるままにその日を暮らし、

頭に思い浮かぶ由なし事を

そこはかとなくブログに書き尽くしたい。