今回は、村上春樹の「国境の南、太陽の西」を読んだ感想を書いていこうと思う。
この文章の目的は、読んだ感想をただ伝えるだけではなく、読んで僕自身が考えさせられたことや、今の日本人が抱える問題点について書くことだ。
この小説が書かれたのは、1992年だから、もう30年以上も前ということになる。
しかしながら、この小説で描かれていることは、今の日本人にとってもかなり重要なことだと思った。
この小説から考えてみたことを、ひとつひとつ、箇条書きにしてみると、
- 資本主義の中で生きることに付きまとう不安
- 資本主義のシステムの中で生きることの弊害
- ロマンと不安
そんな感じのことだ。
資本主義の中で生きていると、不安にさいなまれることになる。
それは、避けようのないことだ。
資本主義というのは、経済的合理性を追い求めるシステムであり、
そのシステムの中では、人すらも取り替え可能な労働力として扱われることになる。
また、資本家と労働者という階級に分けられることになり、
労働者が社会で生きるためには、労働力という商品価値を社会に提供することが求められる。
労働ができるうちは不安にさいなまれることも少ないが、いつそれが破綻するかわからない。
その破綻がいつ訪れるのかもわからないという不安は常に資本主義では存在する。
また、資本主義の中で生きる弊害についても考えさせられた。
資本主義に毒されて生きていると、どうなるのか。
それは、金の亡者に成り下がり、クズ化してしまうということだ。
クズ化とはなにか、宮台先生の言葉を借りると、
損得マシーンであり、言葉の自動機械、法の奴隷に成り下がるということだ。
資本主義に毒されると、人は利己的にならざるをえない。
今の社会を見れば明らかなように、資本主義は人の利己心を掻き立てる。
資本主義に掻き立てられた利己心に縛られ、自分の損得ばかりを考えて、大局を見ることができない人は多いはずだ。
この小説の中では、ユキコ(漢字表記がめんどいので、全て片仮名にする)の父が、資本主義のシステムに毒されてしまった象徴として描かれている。
逆に、主人公は、資本主義という荒波のなかでもがきながらも生きている象徴として描かれていると思う。うまく資本主義を使いながらも、クズ化せずに生きようとしている。
しかし、主人公もあまりうまくいかない。
この小説には三人の女性が主に登場する。
島本さん
イズミ
ユキコ
島本さんは初恋の人だ。
イズミは学生時代の恋人。
ユキコは結婚相手。
この三人の女性も象徴的だと思う。
たしかに、男から見たときに、この三種類の女性の影響は大きいと思う。
一番、脆弱なのは、学生時代の恋人だ。
この小説でも描かれているのだけれど、正直、学生時代というのは性欲と異性への興味が大きい。
ただその欲を満たすためだけに、恋人を求めている男は多いはずだし、それが悪いというわけでもないと思う。ただ、それだけ未成熟であるが故に、脆弱だというだけだ。
初恋だってそうだと言われればそうかもしれないが、性欲が沸き起こる以前の恋という純粋さは強烈で、島本さんはその象徴として描かれているように思う。
運命の出会いというものを感じるのも初恋だしね。
ユキコは、妻として支えながら生きてきたという基盤がある。その生活を共にしてきたという愛の基盤があるから、この小説では最終的には、ユキコとの生活を続けていく覚悟を主人公は決めたんだと思う。
物語のクライマックスで、主人公とユキコの会話があるけれど、そこに村上春樹が描いてきたことが要約されているような気がしてならない。
村上春樹の小説では、喪失が描かれている作品が多い。損なわれるといってもいいし、失われるといってもいいけれど、そういうことをいつも描いてきたのだと思う。
この社会の中で生きていて、すぐに失われてしまうもの、失われてしまいやすいけれど、大事なもの、それを失っても生きるということ、失っても存在しているものはあるのだということ、損なわれてしまっても生きるしかない、損なわれてしまったことを自覚しながら生きるしかない、でもできるなら、損なわれないように、ということを読者に伝えたいのではないだろうか。
その失われやすいもの、損なわれやすいものは、愛なのかもしれないし、自分らしさなのかもしれないし、生きる意味なのかもしれないし、または死ぬ意味なのかもしれないけれど、
いずれにしても、生活のなかに埋没していたら、失われてしまいやすいものだと僕は思う。
そんな感じのことを考えさせられた作品でした!
面白かったので、おすすめです。
最後まで読んでいただき、ありがとうございました!
では!