最近はもっぱら院試の勉強に勤しんでいる。
ある程度は目処がついてきて、
余裕はそこまでないけれど、
そこまで切羽つまっているわけでもない。
ただ淡々とやるべきことをこなしているところだ。
勉強している内容は、
基本的には2つ
わかりやすく言うと、
放射線の物理と化学、
化学物質の水中の動態(化学平衡や酸化還元、錯生成など)についての勉強だ。
僕の受ける院試は
割と楽で、
数学、物理、地球環境学のなかから一つの科目を選ぶことができる。
僕は地球環境学を選んだわけ。
まあそんなことは読者にはよくわからないだろうし、
そんなことを書きたいわけでもない。
ただの余談。
で、今回書いてみたいのはつまらない勉強と面白い勉強について。
勉強なんて全部つまらない!
って思っている人は、
この記事にたどり着きようがないと思うので、
勉強には面白いときとつまらないときがあるという前提で話は進める。
僕にとって面白い勉強というのは、
完全な自発性でないにしても、
ある程度の自発性が担保されている勉強である。
もしくは知的好奇心に合っている勉強、
すこしだけ背伸びしなければならない勉強、
目的がはっきりしていて、
かつその目的を達成したいと心から望んでいる場合の勉強。
自発性というのは、単純に自分がやりたいと望んでやっているか否かという問題で、
大学に入ってからは大抵の勉強はある程度の自発性が担保されるようになった。
ここで言う勉強というのは、ただ机に向かってなにかを記憶したり、理解したりするThe勉強ではなく、
もっと広義に定義する。
映画を見たりすることも、小説を読むことも、あるいは実体験としての学びも勉強としておく。
高校までの勉強はぶっちゃけ自発性は皆無だった。
ぶっちゃけ、全部やらされてる気分だったし、
高校ががんじがらめな校風だったこともあって、
勉強は苦行でしかなかった。
そもそも忙しすぎて、広義な勉強をすることはキャパ的に無理だったし、
好奇心を掻き立てるエネルギーも欠如していたように思う。
非常にもったいない時期を過ごしてしまったなと思う。
自発性と自由度には相関がある。
自発性を発揮するにはある程度の選択肢が用意されていなければならない。
この中からどれを選んでも良いよ!
という状態でなければ自発性は発揮されない。
つまらない勉強には自発性がない。
つまらなさの根源にはやらされてる感がある。
自分でそれを望んでいないから、
やる気も起きない。
やる気が起きないからつまらないし、
つまらないからやる気もさらに起きない。
あるいは、先の見えない勉強もつまらない。
具体的に言うと、その場限りのただの知識の詰め込みなど。
そんなものはグーグルに任せればええやん!
というツッコミが入る勉強はつまらない。
高度な勉強をしようとすると、
ある一定の苦しい勉強をしなければならない。
例えば、大学レベルの物理や化学を勉強するためには、
それ以前に数学3をやり込んでいないと理解が進まないし、
数3をやり込んでいないと話にならない。
こういう類いの勉強には、
つまらなさが含まれているだろう。
でもそれに耐えることができるのは
その先があるからだ。
つまり、数3を勉強しなければならない動機、目的がある。
これがあれば、多少辛くても、多少難しくても食らいついていける。
本当につまらない勉強というのは、
それすらもないときだ。
やる意味がわからない。
そもそもやりたいとも思わない。
必要性も感じない。
けれど、提出物だから。
単位を取らないと卒業できないから。
いやいやでも勉強しなければならない。
この種の勉強はかなり辛い勉強だと思う。
大学を卒業するにはこの種の勉強をしなければならないときもある。
すべてがすべて自分の興味にあっているということはありえない。
そういう勉強はなるべくしないほうが良いと思うのだけれど、
なかなかゼロにはならないものだ。
じゃあどうしたらつまらない勉強をある程度楽しめるのか。
それは、、、、、、、、、、、、、、、、、、、、、、、、。
どうしたらいいいだろう?笑
また考えてみる。
答えが出たらまた書こうと思う笑
つまらない勉強はなるべくしないことだ。
勉強は本来楽しいものなのだから。
特に大学生は、本来の勉強の楽しさを思う存分味わうべきだと僕は思う。