四月に考えたことなど(ヨルシカ「晴る」,映画「グリーンブック」,朝井リョウ「正欲」などを題材にして)

またブログを更新するのが遅れてしまった。

最近は、あまり本も読めていないし、

本から内容を得て、何かを書くこともできない。

 

ここまでインプットが少ないのも珍しいものだけれど、

論文の内容を書くわけにもいかないし、

どうしたものか、と悩みながら書いている。

 

とりあえず、四月だから、四月に思うことを少し書いてみようと思う。

皆さんは、花見に行っただろうか?

僕は花見が大好きだ。

毎年、この季節になると、どうしてもウキウキしてしまう。

コロナ期でも欠かさずに花見をしていたし、

友達を誘って、散歩をしながら花見をするのはすごく心地いい。

冬の寒さが和らいで、緊張から解き放たれるようなそんな空気が好きだ。

 

春をテーマにした歌も多い。

最近だったら、ヨルシカの「晴る」がお気に入りだし、

「春泥棒」も割と頻繁に聴いている。

 

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このMVも僕は好きだ。

最初は何を描いているのかさっぱりわからなかったけれど、

何回も見ているうちに、どんなことを描いているのかおぼろげながらにわかってきた。

 

「降りやめば、雨でさえ、あなたを飾る晴る」

っていう歌詞の部分が特に好きだ。

 

雨が降っているときは、どうしても気分が落ちたり、

やる気が出なかったり、ネガティブなことが多いけれど、

そういうネガティブなものも、とおり過ぎてしまえば、

人生を飾ってくれる糧に変わってくれていたりもする。

 

まあ、何か大変な時期に差し掛かっていたときに、

それもいずれ終わるのだという気持ちになれることって、

本当に大事なことだと僕は思う。

 

めっちゃ簡単な例を言えば、

例えば、仕事で上司に怒られているとする。

怒られている最中は、どうしたって緊張してしまったり、

おびえてしまったり、気分が落ち込んだりするものだけれど、

上司も永遠には怒ることができないわけだし、

ミスをして、大変なときにあったとしても、

永遠にミスをし続けることなんてできない。

 

そんな当たり前なことだけれど、禍中にあるときは忘れがち。

永遠には続かないっていうのは、ある意味においては希望だし、また絶望でもあったりするけれど、

基本的には希望のほうを採用していればいいのだと僕は思う。

万物は流転する。諸行無常。

いろんな言葉で先人たちが残している。

 

四月って、いろんなものが入れ替わるし、新しくなる。

そういう芽吹きの時期だからこそ、頑張りすぎることもある。

思えば、僕は毎年四月は頑張りすぎていた。

小学生や中学生や高校生などのときにも、

毎年新学年になるたびに頑張りすぎて疲弊していたような気がする。

人一倍、感受性が強かったのもあるだろうし、

緊張していたのはよく覚えている。

 

僕は、何事も軌道に乗るまでがしんどい。

誰でもそうなのかもしれないけれど、

人間関係も軌道に乗ってきて、

自分が今年度何をするか、

何をしなければならないのか、

ということが固まってくるまで、

無駄に緊張して無駄に疲弊してしまうのだ。

 

いずれにしても、もう少し手を抜いて、

力を抜くっていうのを意識していかないといけないなと思っている。

 

まあ、すべての人間関係を良好にするまでには時間がかかるけれど、

誰か一人の人と仲良くなれればいいや、

くらいの気持ちで、一人から始めてみるっていうことは、最近意識するようにしている。

それを思うようにしてからは、割と力を抜いて過ごせることも増えてきたような気がする。

 

僕自身、今までの人生で身に着けてきた偏見や、固定観念みたいなものがあるし、

それは、間違いなく、親との関係性や学校社会の中で築かれたものだ。

でも、もうそれにこだわる必要もない。

初対面の人とうまく話せなくても大丈夫だし、

陽キャ、陰キャみたいなつまらない価値観も必要ない。

それが意味を成すのは、学部までだと思う。

 

いや学部ですら意味はなかったはずだ。

今年は、そういう意味のない価値観を白紙に戻していきたいな、と思う。

もう今年一年で学生も終わるし、それには最適なタイミングだといえる。

 

そういう学生時代に身に着けた価値観(スクールカースト的な上下意識)は、

人を悪者にしてしまったり、自分と合う人合わない人を大して関わってもいないのに、

決めつけてしまったりする。

こういう雰囲気の人とは自分は関わりません。みたいなことになりがちだ。

でも、「こういう雰囲気」の人(自分とは違う属性の人)と関わるからこそ、

違う価値観が学べたり、自分の盲点だったことに気づくことができたりする。

 

全然インプットしていないといったけれど、

そういえば、最近「グリーンブック」を見た。

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グリーンブックで描かれているのも、まさに違う者同士が手を取り合うからこそ生まれることだ。

グリーンブックでも、人種差別という無意味な価値観に対する抵抗が描かれていたり、その価値観をぶち壊すための挑戦が描かれている。

 

そういう意味合いでも、僕は今年は、今までの人生で身に着けてきた、もう必要がなくなった価値観を捨て去る挑戦をしていきたいなと思う。

 

そんなことを考えながら書いていたら、結構いいテーマで書けたし、

割と書くことあるやん、っていう自分への突っ込み。

 

グリーンブックは本当にいい映画なので、おすすめです。

朝井リョウの「正欲」についても書こうと思ってはいます。

サクッとここで書いてしまうと、

グリーンブックともつながりはあるのだけれど、

とらわれていた価値観を捨て去るっていうのがテーマだと思います。

 

朝井リョウ氏の作品には、スクールカーストだったり、

今の若者の承認欲求だったり、僕らが生きづらいと感じてしまう価値観を題材にしているものが多い。

 

「正欲」でもそういうものが題材になっていて、

僕自身、これまでの言動だったり、人に自分の正しさを押し付けてしまっていたな、と思わされることが多々あり、

人生を反省させられるような作品でした。

 

生きづらさっていうのは、自分で作り出しているもんです。

僕自身、生きづらいなと思うことは今までたくさんあったのだけれど、

その生きづらさが最近軽減されてきているのは、自縄自縛になっていたことに気づいているからです。

社会から押し付けられる正しさを自分の正しさだと思い込んでいるとき、人は生きづらいと感じるのだと思います。

ある意味開き直って、社会から押し付けられる正しさと自分の正しさは全く別なんだとあきらめてしまうことは、大事なことなんじゃないかな、と思います。

社会に迎合しないっていうのは言うに易しではありますが。

 

それを考えるときには、福田恒存の言葉を僕は思い出します。

内的な正しさと外的な正しさの折り合いをつけていくっていうことです。

福田恒存は、処世術について肯定していて、社会でうまくやっていくのは大事なことだと。

社会の中でうまくやっていく、っていうのは、外的な正しさをうまく利用していく、ということ。

でも、人間、外的な正しさだけで生きているんじゃない。

内的な正しさも間違いなく存在しています。

 

簡単な例でいえば、春眠暁を覚えず、という通り、

春は寝心地が大変よい。だから朝起きる時間を遅らせたい。

そして、優雅な朝の時間を過ごしながら、花見でもして、お酒を昼からのみたい。

こういう内的な心地よさみたいなものは誰しもあるでしょう。

だけど、社会からは、仕事をすることを求められているし、そういう要請が否応なく訪れるわけです。

そういうときに、ちゃんと折り合いをつけて、自分でコントロールしながら、内的な欲求も外的な圧力にもうまく対処していく、それが処世術っていうものです。

 

でも、現代を生きていると、どうしても外的なほうばっかりに偏ってしまいがち。

外的なほうに偏って行くところまでいってしまうと、人は内的なものと外的なものの区別もつかなくなる。

これが自縄自縛モードのときです。自縄自縛モードがさらに加速すると、もうわけのわからん状況。

 

だからこそ、内的なほうを充実させていく必要がある。

内的なほうっていうのは、感動を伴うものです。

感動するっていうのは、理屈じゃないし、理由とかを聞かれても究極はよくわからん。

よくわからんけど、なんかいい。

そういうのを大事にしていこうぜっていうことを今年はやっていこうと、思っています。

 

話はそれたように見えて、実はそれていなくて、

朝井リョウ氏の「正欲」でも最終的には、内的なほうを優先させていく人たちが描かれているわけです。バッドエンドといえばバッドエンドなのだけれど。

誰かに理解されなくてもいいや、っていうあきらめが最終的には救いとして描かれていて、でも誰にも理解されないでもいいや、って思っていても社会から見つかってしまうと、何かしらの理解を押し付けてくる。

その理解は、固定化されたものでしかなく、社会が納得する形での理解、という浅はかなものです。

でも社会っていうのは、根っからそういうものでしかなく、そりゃ、社会っていうものは、ある程度多くの人に当てはまるある程度納得できるもので構成されているので、

本当の意味でマイノリティを救うことのできる社会は存在していないのではないか。

 

そんなことを考えさせられた作品でした。

 

外的な価値観にとらわれている人として検事の人が描かれているのだけれど、

その検事の人は人を裁く。理解できないものにはふたをして、今まで通りの価値観から理解を押し付ける。枠にあてはめることでしか考えられない。

アイロニーとして、そういう外的な正しさの象徴のような職業なのに、家庭はうまくいっていないっていうことが描かれている。

外的な正しさの中でどれだけ成功しても、家庭はうまくいかないこともあるし、外的な正しさって、もうすでに形骸化してきていて、外的な正しさの中で生きることによって得られるインセンティブはもうなくなってしまった。

昔は、外的な正しさの中で成功すれば、経済的にも成功し、家庭も充実し、理想の毎日を過ごすことができる!みたいな活気のある考え方があったはずだ。

現在でも若干残っているし、自分の中にそれがあることも理解している。

けれども、その外的な正しさを貫くことで得られるインセンティブは、もう老人たちが吸い尽くしてしまっている。

そういう話だ。

理想がない、ということでもあると思う。

理想は幻想だったと、気づいてしまっているから、生きづらい。

これは正常といえば、正常なことで、理想が幻想だったし、どれだけ頑張っても、得られるものはあまりない。っていうことに気づいて、そこに冷めてしまうっていうのは普通のことだと思う。

 

現代の日本には活気がない、と言われるけれど、

当たり前だ。理想がないのだから。

頑張っても無意味じゃん、

成功しても無意味じゃん、

そういう冷めた価値観のなかで生きているのだから。

 

理想がなく、頑張る意味もわからない人たちが向かう先は、刹那的快楽。

それも当然の話で、僕も意識していないと、向かう先は刹那的快楽。

生きていくうえで、理想とか頑張る意味みたいなものをしっかり自分の中にもてていないと、生きづらい。

そういうことを正欲を読んで思った。

 

手っ取り早く理想や頑張る意味を求めると新興宗教に身をゆだねることになるんかな。

僕は古典的な宗教や古典的な名作を知ることは、理想や頑張る意味を見出す上で大変有意義だと思う。

そもそも、ブッダとかイエスとか孔子とか老子とか最澄とか空海とかかっこいいやん。

かっこいい😍って惚れるのって内的なものやん。

こんな風になりたいな、っていうのが本来持つべき理想だと僕は思うねん。

こんな生活したいな、よりもこんな生き様で生きたいな、っていうほうが強度が強いやん。

そういう人生の師となる人物とは本でも出会えるし、リアルにも存在するかもしれない。

そういう理想と出会えて、心底惚れたら、人は頑張って生きようって思うし、社会からの圧力、外的なものに押しつぶされそうになっても復活できると思うねん。

それは別に古典的な名作だけじゃなくて、五条悟でも極論いいのかもしれん。

それはわからんけど、理想を見出して、燃えるっていうのは人間が根本的に抱えている欲求にあるような気がしてならない。

 

まあそんなところです。ってどんなところやねん。とここまで読んでくれるような忍耐力のある読者はツッコんでくれるだろう。

 

まあ、とりあえず、せっかく読んでくれたので、

最後にまとめておくと、

今年一年、僕自身が意識していこうと思っているのは、今まで身に着けてきたけれどいらない価値観を捨て去ること。

そして、内的なものと外的なものの折り合いをうまくつけていく処世術をみにつけていくこと。

また、自分を熱くさせてくれる理想を見出し、(もう見出しているけど)さらに熱く理想に向かって歩んでいくっていうこと。

あとは、僕自身が誰かの理想になれたらそれは最高やなと思いますが、それはまだ荷が重いかもwまだまだ未熟ものですしね。

とりあえず、フルスロットルで頑張っていきましょう!

 

最後まで読んでいただき、ありがとうございます!

では!