宗教と精神性

今回は、宗教と精神性について書いていこうと思う。

これは、日本全体に広がってしまった宗教観と、

僕自身の宗教観についての記述になる。

 

まず、日本人全体として、どういう宗教観になっているかについて。

日本人は自分は無宗教だと自己認識している人が多い。

そして、宗教というのは、怪しいもので、ぶっちゃけ洗脳されてるんじゃないの?w

っていうのが普通の価値観なのだと思う。

 

これは、オウム真理教の事件だったり、

最近だったら、統一教会の問題だったり、

そういう新興宗教を大きくメディアで取り上げてきたことが影響していると思う。

 

ほかにも、創価学会だったり、幸福の科学だったり、

政治とつながっている宗教もあり、

それに対する不信感や、それってどうなん?という疑問があるのかもしれない。

 

ちなみに、僕は別にそういう政治とつながりのある宗教を否定するつもりでこれを書いていないし、貶める意味は全くないので誤解のないようにお願いします。

 

歴史的にみても、ヨーロッパではキリスト教と政治がつながっていた時期があり、

政治と宗教が癒着すると社会が腐敗していくという経験則からも、

宗教に対する不信感を抱いてしまうのかもしれない。

 

また、日本でも仏教と政治は昔から結びつきがあって、

政治にも利用されてきた歴史がある。

 

そしてニーチェが説いたキリスト教批判についても、

共通認識としてあるのかもしれない。

人間のルサンチマンが、奴隷的な道徳観を生み出しているという考え方だ。

そして、そうしたルサンチマンを利用しているのが宗教であると。

ルサンチマンを解消してくれる宗教は、

弱者を救済しているように見えて、実は信者を利用しているだけだと。

 

これは全くその通りだと思う。

常識的に考えて、その通りだ。

政治や権力と宗教の癒着は社会を腐敗させてきたと僕も思う。

 

けれど、僕は、宗教を考えるときには、その根本を見るのが大事だと思う。

宗教の理念と言ってもいい。

その宗教の目指すところを考えることが大事だと思うのだ。

 

具体的に言えば、

釈迦が本当に残したかった教えは何だったのか?

キリストが本当に残したかった教えは何だったのか?

空海は?最澄は?

そういうことを考えることが大事だと思う。

 

もともとのキリスト教は、

弱者を利用してやろう、

なんていう動機ではじまっているわけがない。

 

仏教も、政治とつながりをもって、

信者からお金を巻き上げよう、

なんていう動機ではじまっているわけがない。

 

歴史を経て、ねじ曲がってしまったり、

権力者の都合のいいように解釈されてきたのが宗教だからこそ、その宗教の本来の教えの部分に立ち返ることが重要だ。

 

日本人の本来の宗教っていうのは自然崇拝だ。

宗教でもないのかもしれない。

なぜなら具体的な善悪も教えも存在しないからだ。

 

僕は日本人の精神性の源流は、間違いなく自然崇拝にあると思う。

山をご神体と見立てたり、巨石をご神体と見立てたり、天地自然の万物に神が宿るというのが日本古来からの信仰のあり方だ。

僕らの先祖は、みな自然を崇拝してきたのだから、そのDNAには自然を神なるものとして扱う精神性が宿っていると僕は思うのだ。

 

日本人の精神性と宗教が切っても切り離せないほど密接につながっているのは、その信仰が自然崇拝だからだ。

日本人の根底に流れているのは自然崇拝だということを誰も説いていない。

それだから日本人は無宗教だと自分を認識する。

じゃあなんで、いただきます、というのか?

じゃあなんで、もったいない、と思うのか?

なんの宗教性もない荒廃した精神性しか持ち合わせていない人間は動物化するだろう。

動物には、いただく、なんていう価値観は存在しないはずだし、

あればある分だけむさぼりつくすのが動物ではないか。

 

じゃあなんで日本人は動物化せずに、その道徳観を維持できているのだ?

そこに古来からの自然崇拝が残っているからではないのか?

 

というのが僕からの問いかけだ。

 

自然崇拝は、1フェムトメートルも怪しくない。

これだけ恵まれた自然環境があって、

四季があって、美しい山や空や桜や海や川があって、

豊かな漁場や豊かな畑があって、

それで自然にありがたみを感じるな、っていうほうが無理がある。

 

日本の場合は、自然災害も多い。

けれど、古代の日本人たちは、それすらも神と思い、祀ってきた。

自然のよい部分、恩恵の部分、プラスの部分だけではなく、

ネガティブな部分も引き受けて、それでも自然を信じて生きてきたのが日本人なのだ。

 

人生にも四季はある。

冬のような寒さに耐えるような時期もあれば、

パッと明るく花開くような春の時期もある。

人間も自然の一部なのだから、当たり前だ。

生きていくっていうのは、ポジティブな面だけではなく、ネガティブな面も引き受けていくっていうことだ。

 

そういうたくましい精神性が日本人の中には今も根付いている。

その精神性と自然崇拝がつながっていないとは、僕にはどうしても思えないのだ。

 

僕はエヴァのカヲル君が好きだ。

エヴァQのカヲル君はたくましい。

覚悟が定まっていて美しい。

シンジのネガティブな部分も引き受けていくあり方がかっこいい。

 

あらゆる宗教は、もともとは、人間に知恵を授けてくれて、

人間がたくましく生きていくことを手助けしてくれるものだったはずだ。

それが宗教の本来性の部分だ。

宗教は逃げるために使うものではない。

逃げないために、力を借りるものだった。

その宗教の本来性が失われたことをニーチェは神は死んだと表現した。

 

その点でいうと、日本では宗教の本来性は、神社には残っている。

僕は人生から逃げないために、神社に通っているのだ。

神社には経典もなにもない。

ただ祈りが残っているだけだ。

 

僕は日本はすごいと思う。

神社は本当にすごいと思う。

僕には愛国心があると言われるけれど、

愛国心を持っているという意識はない。

 

ただ、日本はすごいと思っている。

この国に生まれてきたことに深い意味を感じるし、

この国に生まれてきたことに深く感謝している。

本来、僕の精神性と宗教観はそこだけだ。

 

それに気づくまでに、ずいぶんと時間がかかったし、

いろんな紆余曲折を経たけれど、

それにも意味があったなと、今では感謝している。