力でねじ伏せるのは愛じゃない

またまた、ブログを書くのが久しぶりになってしまったが、

今回は、最近テーマに感じていることについて書いておこうと思っている。

そのテーマが「力でねじ伏せるのは愛じゃない」

というテーマだ。

 

力でねじ伏せるっていうのは、いろんな形がある。

物理的に力で相手を負かすとか、

論理的な力で相手を負かすとか。

 

人間にはいろんな価値観がある。

例えば、善悪、好悪、損得、勝敗、などなど。

ときによっては、善悪がテーマのときもあるし、

好悪がテーマなときもある。

 

僕にとって最近テーマに感じているのが勝敗の部分だ。

 

僕はどういうときに勝敗を気にするか、というと、

自意識がむくむくと膨れ上がったときだ。

たとえば、僕は哲学や思想といったものが好きだけれど、

そういう自分が好きな分野で、

誰かが、さもわかったかのように語るとき、

僕は「いや俺のほうがわかっているし😤」

みたいな自意識がむくむくと膨れ上がってくる。

そのとき、僕は負けたように感じてしまう、

もしくは、勝とうとしてしまう。

 

それをよくないな、と思って過ごしている。

例えば、僕はニーチェやフランクルが好きな哲学者だけれど、

彼らを批判されるようなことを言われたとする。

そのときに僕は、

「いや、それは違う。

 お前は間違っている。

 ニーチェはお前が思っているよりとてつもなくすごい人だし、

 フランクルはお前なんかより一億倍すごい人だ😤」

と言って、相手を言い負かしたくなる。

 

けれども、少し考えてみれば、それはおかしいことだとわかる。

例えば、ニーチェを批判している人が、

本当に言いたいのは、ニーチェを批判したいわけじゃなく、

ニーチェの言葉に傷ついている自分をなんとかしたい、

と言いたいのかもしれない。

形としては、ニーチェを批判しているけれども、

実際のところでは、自分自身をどうにかしたいと思っているだけなのかもしれない。

 

僕のよくない癖というのは、

変に言葉尻にとらわれてしまって、

本来その人が言いたいこと、

伝えたいことをくみ取る努力を怠ってしまうことだ。

本来の言いたいことっていうのは、

その人の背景を知る努力をしていないとくみ取れない。

どういう人生を歩んできて、

どういう考え方に至って、

どうしてそう考えるようになったのか、

そういうところまでくみ取る努力をするのが僕は愛だと思っている。

 

力でねじ伏せるときっていうのは、

言葉尻に反応して、

ただただ条件反射的に相手をけなしたり、

相手に不快感を持ったりと、

そういうことに陥ってしまいがちだ。

 

どんな言葉であっても、

その言葉の語られる背景は毎回違うはずだし、

毎回違うからこそ、

その言葉にとらわれてしまっては、

本質を見失ってしまう。

 

言葉というのは「事の端(ことのは)」。

言葉で言い表せることは、

せいぜい本当に伝えたいことの端っこの部分だけということだ。

だからこそ、言葉尻にとらわれるのではなく、

言葉の奥の本当のことを見つめる必要がある。

そういうまなざしは、

相手に安心感を与え、

安らぎをも与えうるかもしれない。

 

力でねじ伏せるとき、

人は近視眼的になっているし、

大所高所から眺めることができていない。(自分も他人も)

 

それは愛ではない。

力でねじ伏せたくなった時こそ、

力に頼らず、力を抜いて、ゆるく見つめる。

空気を感じるように努める。

それだけでも、愛に近づけるのではないだろうか。

 

そんなことを思う最近のテーマです。