村上春樹について、小説の読み方について

こんばんは。

最近、ノーベル文学賞の発表があったみたいで、

また村上春樹が受賞できなかったらしく、

村上春樹に関する論評がX上で行われているのを、

眺めていた。

(そもそも、ノーベル文学賞を取ろうが取らなかろうが、どっちでも良いと思ってる村上春樹ファンの方が多いと思う)

 

村上春樹の性描写がキモい、

みたいな言説がたくさんあって、

そのせいで、村上春樹の作品は読めない、

みたいなことが書かれていた。

 

たしかに、村上春樹の作品では、性描写が必ずと言っていいほど、描かれているし、

それが生々しく感じられるのは、わからないでもない。

だからといって、村上春樹の作品の素晴らしさは全く薄れないし、

性描写だけで、村上春樹の作品を論評してしまうのは、

全くもってもったいない、

と思った次第だった。

 

だから僕なりに、村上春樹の小説の読み方について、

少し書いておきたい。

 

まず、小説を読むときの態度だが、

素直に読むということだ。

 

頭で考えずに、素直に受けとる姿勢が、小説を読むときの大前提だと思う。

 

頭で考えて読み始めると、著者が本当に伝えたいメッセージを受けとることはできない。

 

村上春樹の小説を、フェミニズム的な見方だけで考えてしまうと、

間違いなく、女性蔑視や女性軽視、と受けとることになるし、

それは村上春樹の意図していないことだ。

 

村上春樹のインタビューなどを読んでみるとわかるが、

村上春樹はそんなことを描こうとしているわけではないし、

彼なりの問題意識を小説の中に落とし込む過程で、

性描写がたまたま描かれることになるだけだ。

 

素直に、村上春樹の小説を読めば、

何がテーマになっているのか、

どういうことを描きたくて小説を書いているのか、

ということは自分なりに見えてくるはずだ。

 

小説は、別に客観的に読むものではない。

正しい読み方があるとすれば、

素直に受けとる姿勢で読むだけだ。

 

イデオロギーに縛られて、

頭だけで考えながら小説を読んだところで、

イデオロギーの善悪にとらわれた解釈しかできないし、

そんな小説の読み方をしても、

あまり意味がない。

 

小林秀雄もいっていることだが、

著者の感受性を通して、自分を見ることに、小説を読むことの醍醐味がある。

自分では持ち得ない感受性を、著者は自分に向けて届けてくれているのだから、

その感受性を素直に受け取り、その感受性で、物語を体験し、自分自身を眺める。

 

それが小説の正しい読み方だと僕は思う。

 

小説はイデオロギーから自分を守るために読むのであって、

イデオロギーに縛られるために読むものではない。

そういう頭の固さみたいなものを取り払うために読むものだ。

 

村上春樹をキモいだのと批判している人は、そういうものの見方ができていないと思う。

 

著者の感受性が自分に適していなかっただけの話で、

村上春樹が偉大だから、批判も許されているのかもしれないが、

自分にも村上春樹の感受性に適合できると期待したおまえが悪い、

と僕は言いたい。

 

著者の感受性に適合できないことは、誰にでもある話で、

僕にだって適合できない著者はたくさんいると思う。

それは普通のことで、例え人気作家で大衆から人気を得ていようと、

それは関係のない話だ。

 

とにかく、著者は悪くない。

 

村上春樹は偉大な小説家だし、

それは、時代を経ても色褪せないと思う。

 

キモいだのなんだの言うのは勝手だが、

話題に乗じて、ネガティブキャンペーンに加担するのはやめた方がいい。

不毛だから。

 

ネガティブキャンペーンに乗じる人で仲間集めしても、

ネガティブな人しか集まらず、楽しくなさそうだなと、

僕は思います。

 

そんな感じで、村上春樹について、小説の読み方について、

書いてみました。最後まで読んでいただき、ありがとうございます。では!