物との向き合い方

こんばんは。

今回は、物との向き合い方というテーマで書いていこうと思います。

最近は、福田恒存の本を読むことが多くて、その中で扱っていたのが、

西洋と日本の物との向き合い方の違いについてでした。

 

ざっくり、どんな感じのことが書かれていたのかというと、

日本的な物との向き合い方っていうのは、

物を物質として切り離しているのではなく、

物にも心が宿っていて、自分の一部だと考えて向き合っていると。

しかし、西洋的な物との向き合い方っていうのは、

物を物質としてしか見ず、交換可能な物として扱うと。

 

これっていうのは、なんとなくわかる、という人もいるのではないかと思います。

八百万の神というくらい、日本的信仰のあり方っていうのは、万物に神が宿るっていう前提があります。

人間にももちろん神様が宿っているし、物質にも神様が宿っていると考えます。

日本的な職人さんって、道具を大切に扱いますが、それは仕事を仕事として捉えるのではなく、

そこに何らかの信仰心であったり、ただの仕事ではなくて、お仕えする事としての尊さみたいな気持ちをお持ちの方が多いのではないかなと思います。

このように、日本的な物との向き合い方っていうのは、物を物質としてだけ見ず、その背景であったり、愛着であったり、物質に宿るものについて思いを馳せながら関係性を築いていきます。

 

しかし、日本でも、西洋化が進むにつれて、物を物としてしか見れない人も増えてきているのではないかな、と思います。

ある論争があって、

つい最近、僕もその論争をしたのですが、

その論争っていうのが、

物を壊された時に、怒るか、怒らないか、

という論争です。

 

誰かに大切な物を壊されてしまった時に、僕は怒ります。

しかし、怒らない人もいて、

怒ってもどうにもならない、とか、

怒ったところで、その人との関係性が悪くなるだけだ、とか、

買い直したりすればいいだけなのに、怒って関係性を悪くする必要はない、とか、

そんな反論をしてきます。

 

その反論を受けた時、僕はうまく言い返せなかったんです。

反論の言っている意味はわかるし、それは一理あるんだけれど、

なんか違う。絶対に何か違うんだよな、というモヤモヤがありました。

 

そのモヤモヤを端的に言い表しているのが、

福田恒存のいう、西洋的な物との向き合い方と、日本的な物との向き合い方の違いでした。

 

僕は、周りの人と比べても、

日本的な物との向き合い方が強い気がしています。

どんなに大量生産された物であったとしても、

僕が気に入って買った以上、その買ったものは一点ものなんですよね。

たとえ今手元にあるiPadは交換可能だとしても、

このiPadはこのiPadだけしか存在していないし、

僕はこのiPadに愛着を持っているんですよね。

だから、このiPadを壊されてしまったら、

その僕とこのiPadとの間にある関係性が損なわれてしまうという訳です。

その関係性っていうのは、交換不可能だからです。

 

iPadは交換可能な物質だとしても、

僕が長い年月をかけて使い慣らしてきた歴史であったり、

時間の流れであったり、

思い入れであったり、

愛着であったり、

そういう関係性を壊されてしまうから、僕は物を壊されたら怒ってしまう。

 

僕にとっては、

その関係性は他のもので交換できるわけではないからですね。

 

これは、西洋の哲学者も指摘していることではあるんです。

マルティンブーバーという哲学者は、二つの関係性を指摘しています。

我ー汝の関係性と

われーそれの関係性です。

我ー汝の関係性は、交換不可能な関係性をさし、

われーそれの関係性は、交換可能な関係性を指します。

愛着があったり、

長い年月をかけていたり、

思い出であったり、

そういうのが深まっている関係性が「我ー汝」

逆に、深まっていない関係性が「われーそれ」なのです。

マルティンブーバーは、人間関係においてそれを指摘しているわけですが、

それを人間関係だけではなく、

物との関係性においても適用できるはずだということですね。

 

物を壊された時に、

怒るか怒らないか、

っていうのは正直、

ケースバイケースで異なりますし、

怒る場面も怒らない場面もあるものです。

 

なので、壊された側が、怒る、怒らないより、

壊した側が、

どれだけその壊してしまった物の奥にあるものを感じ取れるか、

っていうのが大事なのではないかなと思います。

 

ただの物だし、交換可能なんだから、

怒るのはおかしい、

って逆ギレする感じで思うのか、

 

ただの物ではなく、

その背景にはその人の思い入れや、

物との関係性があったのだから、

たとえ怒られてしまったとしても、

真心を込めて謝ろうと思うのか、

 

それはその人自身の生き方を投影しているのかもしれませんね。

怒るのはおかしい、とか、

怒るべきではない、とか、

そんなものは、壊された側の論理であって、壊した側が使うべき論理ではないんですよね。

壊された側が、ちゃんと謝ってくれているし、怒らないでおこう、とかそういう論理で使うべきなんです。

 

物質はいずれ壊れるし、それに執着するのは間違っている、とかいうのも、

それは壊された側が気持ちを整理するときに、使う論理であって、

壊した側が振りかざす論理ではないんですよ。

 

ものを物としてだけ扱う生き方と、

ものには使う人の心が宿っている尊さを感じて扱う生き方と、

どちらの方が精神的に豊かな生き方ができるか、

というのは僕がいうまでもありません。

 

ちなみに言えば、

人間だって、体は物質です。

体が物質なのだから、ものを物として扱う生き方をしている人は、

人間もそのように扱ってしまうし、交換可能である物質であるかのような勘違いをしてしまいがちです。

 

でも、人間には心があるって誰でもわかっていますよね。

人間には心があり、感情がある。

その感情が体にも影響を与えるし、

それによって体調だって変わる。

っていうことを体感ベースでわかっているはずです。

心と心で繋がっている関係性って、

交換可能ですか?

違いますよね。

 

心っていうのは、

間違いなく、

その人自身だけのもので、

関係性ありきですよね。

繋がる心が変われば、

関係性も変わるし、

関係性をどれだけ大切にするかによっても心が変わります。

 

パソコンであっても、

それは同じなんですよ。

パソコンを大切に扱う人のパソコンは、長く使えたりしますし、

イライラしながら使っている人のパソコンは、

すぐ壊れてしまったりするものです。

 

使う人の心が、

ものにも必ず影響を及ぼしているわけです。

自分の心が物にも宿るって考えたら、

その物っていうのは、

自他の区別がつかなくなっていきます。

 

たとえば、車なら長年使い続けてきた車には愛着が湧いて、

相棒みたいな感覚になっていくと思います。

服でも、本当にお気に入りの服を手放す時っていうのは、

身を切り裂くような思いになると思います。

 

それっていうのは、

人間関係でも同じですよね。

物との向き合い方っていうのは、

人間との向き合い方を写しているんです。

物を大切に扱う人っていうのは、

物にも愛されるし、

人間関係も大切にできるから、

人間にも愛されるし、

 

物を大切に扱えない人っていうのは、

物に愛されず、

人も大切にできず、

心が荒んでいくんです。

(物を壊されて怒らない人=物を大切に扱えない人というわけではなく、

ただ単に、物を大切に扱えない人のことを言っています)

 

大切にしていた物を壊された時に、

僕は怒りや悲しみの感情が湧いてきてしまうでしょう。

それは、僕の一部である僕の命の断片を損なわれたと感じるからです。

怒るのがよくないことであったとしても、

そこに文句を言われる筋合いはない。

命の断片を損なった人に文句をいう権利など存在しないからです。

 

しかし、僕は、怒ったからといって、

その人との関係性を悪くしないでしょう。

(一時的に悪くなっても修復できると思うし、その努力をすると思います)

なぜなら、僕は物を大切にしたいと思うように、その人を大切にしたいと思うから。

 

物を大切にしたいという思いを、

背景を、

どれだけ感じられる人なのか、

物の背景をどれだけ感じようとする人なのか、

によって、

関係性は変わっていくでしょう。

 

物の背景を汲み取れる人は、

物を大切に扱うことができると僕は思っています。

物の背景を汲み取れる人は、

物を壊してしまって怒られたとして、

逆ギレすることはないでしょうし、

物はいつか壊れるんだから、

怒るべきではない!とか、

そんなことを言わないのではないかなと思います。

何か一つの完璧な答えがあるわけではないし、

怒ったら悪、

怒らなかったら善、

みたいな短絡的な答えはあり得ません。

 

それなのに、

それを一般化して、

物を壊された時に怒る人は人間としてよろしくない、

っていうのは、

おかしいのではないかなと思います。

考えるな。感じろって感じです。

 

僕はもともと主意主義的なので、

主知主義の頭でっかちロボット人間には言っている意味がよくわからないと思います。

 

ということで、

わかる人に伝わったらそれでいいし、

物との向き合い方を自省する機会にしてもらえたらと思います。

 

最後まで読んでいただき、ありがとうございます!

では!