人間関係の難しさについて

今回は、本とは関係なく、最近思ったことについて書いていく。

人間関係は本当に難しいなと思う。

他人が悪いというより、自分の弱さと向き合うことが多い。

自分としては、こうしたい、ああしたい、というのがあるのにも関わらず、人に伝えれなかったり、自己完結させてしまったりする。

ときと場合によるということがほとんどで、一つの価値基準でだいたいのことに対処できるわけでもなければ、相手の人の価値観、自分とのギャップがあるとなおのこと、その場その場でのベストな解を見つけていかなければならない。

人の悩みの9割は人間関係の悩みであるということはよく聞く話だが、まさにそうなのだと思う。

人間関係がなければ、悩みがないかと言えばそうともいえない。

人は、一人では生きてはいけない。

一つの食事でも、背景には、たくさんの人の働きがある。生産者、生産者のもとで働く人、運ぶ人、卸売りをする人、市場を運営する人、など、間接的に関わっている人も含めれば、莫大な数の人の手を経て自分の手元まで届いているのがわかる。

一つの食事でこの有り様。完全な一人では生きていない。

アマゾンがいくら発達しても、人は人間関係を求めるだろうし、どんな技術、テクノロジー、科学が発達しても自分のメンタルと、人間関係は自分でなんとかするしかない。

最近は、うつ病が増えているが、結局は自分のマインドを変えない限り治らないだろうし、自己肯定感は他人ではなく、自分であげていくしかない。

どんなに時代が進んでも、変わらないものはあるのだと思う。

現代に生きていると、変化のスピードが早すぎて、情報がありすぎて、変化しないものに意識を向けにくくなっていると思う。

やはり、人類始まって以来、人間関係の悩みは変わってないだろう。たしかに、人間関係は複雑化しているとは思うし、昔よりも、SNSの発達であったり、ネットの発達によって、リアルの人間関係は少なくなったかもしれないし、逆に、ネットの繋がりからリアルの人間関係になることもあるかもしれない。

そう考えると、末端は変わったように思う。

しかし、根本的な悩み、本質はいつも変わっていない。

僕も、自我が芽生えて以来、人間関係で多少悩むようになったが、本質はいつも同じだ。

解決策もほとんどの場合似かよっている。

共同体感覚がほしいというのが根本なのだと思う。これは、嫌われる勇気という本の考え方ではあるが、真実だと納得できる。

共同体感覚を味わえてるときに人は幸福感を感じやすいのだとは思う。

人間にはいろんなタイプがいるし、は人それぞれといえばその通りだとは思うが、結局は仲間とも呼ぶべき、共同体に出会えることが幸せだと思う。

それで、何が言いたいのかと言えば、自分は共同体感覚を味わいたいと思いつつ、一方では他人に自分の領域に踏み込まれることを恐れているということだ。

それが自分の良さとも、欠点とも思える。

話がまとまらないが、とにかく、自分の弱さとも向き合うのが大事だとは思う。

そのときに、読書は普遍的な解決策を与えてくれる。

例えば老子老子は、孔子よりも前の時代の思想家である。孔子との二項対立としてあげられやすいが、無為自然を説いた人物で、日本的に言うなら、無常観の根元を説いている。

老子の教えのなかでも、人間関係を取り持つ上での大切なことを学べたりする。

自分の根元的な欲というのは自然と一体であってそれは道を外れないのだという考え方が老子の代表的なものであるが、それでいえば、自然体で接することが、人間関係の道を進む上でも大切なのだろうし、自然体というのは抽象度が高いが故に、それは分かりやすい答えはないし、それが難しいと思うのだが、道をはずれないのは大切にしたいと思っている。

では。