今更ながら火花を読んだ

今回は、最近読んだ本の火花について紹介していきたいと思います。

  • あらすじ
  • 感動したところ

あらすじ

お笑い芸人の物語。師弟関係にある芸人同士の哲学的な問いを含む物語。笑いの本質、漫才とはなにか、という根本的な問いを投げ掛けてくる。芸人ならではの視点を持ちつつ、著者自信の哲学がこの作品には含まれている。

主要人物は、主人公の徳永、先輩芸人で徳永の師匠の神谷。この二人を中心に物語が展開される。

感動したところ

ネットの誹謗中傷について

ネットの誹謗中傷は悪い。それは誰もが知っていることだと思う。

作品の中で、芸人に向けられるネットの意見に関してのことが書かれているが、神谷はこういう。「だけどな、それがそいつの、その夜、生き延びるための唯一の方法なんやったら、やったらいいとおもうねん」

そこでまず、たしかにとなった。

そこからさらに展開して、「ただし、誹謗中傷というのは、他を落とし、相対的に自分を上げるだけで、それによる快楽は長続きしない。一時の快楽に浸るのはただの時間の無駄にすぎず、1番楽な道に逃げているだけだ」ということが書かれていて、なるほどと思った。

自分を守る手段としての誹謗中傷はあるのかもしれないが、その手段に頼ってばかりいるとその人はまったく成長しない。

楽な道に逃げるのは簡単だが、逃げずに向き合う強さは、ネットという安易に楽に逃げれてしまうツールがある現代にこそ必要なのかもしれない。

感動するとはどういうことか

神谷さんから僕が学んだことは、「自分らしく生きる」という居酒屋の便所に貼ってあるような単純な言葉の血の通った激情の実践編だった。

                             (153ページより)

この文にも唸らされた。血の通った激情という表現は秀逸だと思った。

僕自身が最近感じていたことをうまく言語化してくれた。

単純な言葉というのは得てして抽象的でふわふわしている。あるがままの自分で生きるのが大切だと誰かに言われたところで感動しないのは、その人の体験や感情が言葉に乗っていないからだ。

逆にそんな単純な言葉にも感動させられることがある。話が上手な人というのは自分の体験を踏まえながら、単純な抽象的な言葉にその人だけの感情を乗せて伝えることができる。だから人はその人に突き動かされるし、感動するのだと思う。

それはまさに「血の通った激情」なのだ。

バッドエンドは存在しない

一見すると、火花はバッドエンドに思えるが、バッドエンドは存在しないと書いてある。

ただ神谷さんはここにいる。存在している。心臓は動いていて、呼吸をしていて、ここにいる。神谷さんはやかましいほどに全身全霊で生きている。生きている限り、バッドエンドはない。               (171ページより)

小説には必ず結末がある。

人は、ハッピーエンドは好きだとか、バッドエンドがすきだとか議論している。

又吉が言いたいのは、この小説がバッドエンドであっても、神谷はパッピーエンドに向けていつも生きているということなのではないだろうか。

生きている限り、紆余曲折があり、いいときも悪いときもある。しかし、生きている限りはまだ途中で、一見バッドに思えるときでも、それはハッピーの礎なのだと思う。

人生を一つの物語ととらえると、最後はなにかと言えば、一つは死だと思う。死の定義も難しいが、とりあえずは肉体としての死を死と定義する。そのときにハッピーであるために生きているのであり、極論、生きている間ずっとバッドでも、死ぬときにハッピーだったならそれはハッピーエンドの物語になるのである。

ハッピーエンドは自分で作れる。現状いくらうまくいっていなくても、それは途中の話で、未来どうなっているかはわからない。

うまくいっていなくても前を向いて進んでいればいいのだと思う。

 

火花はいい本。さすが又吉。

では。

 

火花 (文春文庫)

火花 (文春文庫)