自分らしさとは、他者との関係性においてのみ存在する

 

昨今、流行っている価値観とは、個人主義的人間観である。

個人主義的な人間観とは、

カンタンに言うと、自分は自分だよね。

自分は自分らしく生きるのが良いんだよ!

という価値観である。

 

これに対し、関係論的人間観というものが、本書には紹介されている。

関係論的人間観とは、他者との関わりあいにおいてはじめて「らしさ」が出てくるというものだ。

個人主義的人間観が大流行している現代において、人は狂ったように自分らしさを追求するようになった。

自分らしく生きよう、自分らしくあろう、自分らしく死のう、

あらゆることについてまわることになった、この自分らしさ、というものは、

逆に自分らしさを漂流させてしまう。

本来、人間が人間らしくあるときというのは、

誰かとの関わりあいがあるときであり、

誰かとの間に「温かみ」があるときのはずだ。

アリストテレスが人間を社会的動物と例えたように、

人間は、自分個人が個人としてあるときではなく、

他者との関係性においてはじめて自己が立ち現れるのだ。

 

本書を読んで、関係論的人間観で生きていくことが大切だと気づかされた。

 

しかし自分らしさの大流行が、

これまでの共同体のあり方とそこに内包される価値が否定され、

社会が流動化し、

人々がどのように生きていけば良いかを迷うようになった昭和から平成にかけて起こったことに思いを馳せるのであれば、

この言葉はやはり、個人主義的人間観ではなく、

関係論的人間観の中で捉え直されなければならない。

なぜならそこで本当に求められているのは、

周りと切断された自分らしさなどでなく、

他者と接合されたそれであり、

他者と接合されながら生まれてくる自分は、

世界から切り離して取り出せる、

まして数値としてカウントできる、個人であり得るわけがないからである。

213ページより引用

 

僕は、たまに悩んだことがあった。

本来の自分を周りの人に見せていないのではないか?

もっと他に自分らしさがあるのではないか?

僕は誰かに合わせて都合の良い自分を演じているのではないか?

と。

 

これはものすごくナンセンスな悩みだった。

他者との関わりあいの中に自分らしさが存在するのだとすれば、

友達ひとりひとり、知人ひとりひとりに違った自分が存在して当然だからだ。

濃い関係性もあれば、薄い関係性もある。

関係性が異なれば、自分らしさも変化するものなのだ。

 

関係論的人間観のおかげで視界がクリアになった。

他者と関わることに勇気を持てる。

本当の生きやすさを求めるのなら、他者との関係性の中に求めるべきだったのだ。

それに気づかせてくれる。