あなたは「内なる声」に真剣に耳を傾けているか
本物の幸福は、単なる快楽からも、また、満足感と諦観からも得られはしない。
二人の女性を対比しながら、幸福についての考察がされている。
一人目は、追っかけ蝶 つまりは、流行ばかりを追っかけている今で言うところのインスタグラマー的人間
二人目は、心の満足を選んだ女性 この女性は前者の女性の快楽主義的生き方が虚しいものだと思っていて、分別がある。
一見すると、後者の女性の方が「立派」だと思える。
しかし、ベネットは両者には共通点があると述べている。
その共通点とはなにか。
幸福の意味をはき違えているということだ。
後者は確かに「立派」だと思えるが、
立派=幸福なわけではない。
得てして立派という概念は世間的に見てどうか、というものであり、
社会という全体性の中で立派なだけであり、個人的な問題として幸福であるとは限らないわけだ。
人はみな幸せになりたいと考える。
しかし、幸福の意味をしっかり理解していると言える人はどれだけいるのだろうか。
いや、僕すら一つの側面における幸福しか見えていないのかもしれない。
引用した文章から、考察を深めるとすると、
幸福は善悪で測ることができない。ということだ。
人間の幸福は好き嫌い、楽しい辛い、という個人的な感情において測るべきものだ。
だから、人類すべての人に共通する幸福などないのかもしれない。
世界平和を望んでいる人はたくさんいるだろうが、
果たして全くの自分の内なる声として、
つまり本音として望んでいる人はどれだけいるのだろうか。
多くの人はたぶん自分が立派でありたいから、世界平和を願っている方が偉そうだから、という理由でしか世界平和を望めていない。
本来の自分の本音、魂の欲求として望んではいないのだ。
人間なんて利己的な存在で
自分に利益がないのに、
利他的になることはないのではないか。
子供を育てる親ですら利己的な存在なのではないか。
と思えることがある。
愛が本当に存在するのか。
愛と言いつつ、親は子供に何かを求める。
勉強しなさい、良い大学に行きなさい、安定した職に就きなさい、
結婚相手にまで口出しをする。
結局のところ親なんて子供を支配したいだけのものなのかもしれない。
ただの支配欲に駆られたクソ野郎が親なのだ。
というと言い過ぎだし、別に僕は親を恨んでいるわけでも親をクソ野郎だといつも思っているわけではない。
ただ、世の中にはそういうクソ野郎的な親すらいるだろう。ということだ。
そのクソ野郎的親は、自分の支配欲を満たしてくれる存在として子供を育てているだけだ。
子供の精神状態が悪かったり、
子供が自立しないのは100%親が原因であり、
育て方が悪かったのだ。
親自身が精神的に自立していないから、子供に依存するし、いちいち子供にイライラしたり、子供に干渉したくなる。
親が大人になりきれていないから、その子供はもっと大人になれない。
その負のループを作り出しているのが親である。
その連鎖を作ったのは何代も前から遡らなければならないが、
それを断ち切ることは今この瞬間から可能である。
どうすれば、その負の連鎖を断ち切れるのか、
それは親が自分の人生を心の底から満足して生きることである。
自分の内側の欲求に従って生きることである。
そうは言っても仕事をやめたらどうなる?
離婚したら子供がかわいそうではないか!
と思う人もいるかもしれないが、
もともとそんな思いを内に抱えながら家族に接するのが間違っていて、
仕事がしたくないならやめればいい。
別に父親が仕事を放棄してもなんとかやっていける。
離婚しても、子供はそれほど落ち込まない。
親が離婚したからといって自殺した子供を僕は見たことがない。
子供にとって一番辛いのは、親が自分の人生を犠牲にしていることだ。
「私は子供のために自分の人生を犠牲にしてあげている」という意識を親は捨てるべきだ。
そもそも、考えてみてほしいが、誰も産んでほしいなんて頼んでいない。
そもそも、人生を犠牲にして育ててほしいとも頼んでいない。
すべてそれをやると決めたのは親自身であり、子供に責任転嫁するべきではない。
親は親自身で自分の人生を楽しめば良いし、
子供を育てると決めたのなら、子供を育てれば良い。
自分の人生を楽しんでいれば、他人の些細な言動など気にならないし、
多少のイライラや多少の不快なことは許せる。
自分の人生を満足して、納得して生きているのなら、子供も素直に自立して生きていく。
すべての親子問題は親が自分の内なる声に耳を傾けていないことから始まっている。
それをみなわかっていない。バカでクソ野郎だから。
クソ野郎的な親が世界から消えたら良いなと思う。
ちょっと本音で書きすぎた笑
どうせ誰も見ていないから大丈夫だけれど。