利他が利己に変わる瞬間

利他的な行動には、本質的に、「これをしてあげたら相手にとって利になるだろう」という、「私の思い」が含まれています。

重要なのは、それが「私の思い」でしかないことです。

思いは思い込みです。そう願うことは自由ですが、相手が実際に同じように思っているかどうかはわからない。

「これをしてあげたら相手にとって利になるだろう」が

「これをしてあげるんだから相手は喜ぶはずだ」に変わり、さらには「相手は喜ぶべきだ」になるとき、利他の心は、容易に相手を支配することにつながってしまいます。

「利他」とは何か より引用

利他と利己は紙一重

ちょっとしたエゴが行き過ぎるとその瞬間に利他は利己に成り下がる。

エッセンスだけ凝縮していうと、

恩着せがましさが利他には含まれない。

恩着せがましい人は利他的ではないし、

これをして「あげた」んだから、には利他的精神はみじんもふくまれていないのだ。

だいたい、表面上を取り繕う人には利他の精神はない。

表面的に冷たそうな人のほうが利他的であることは多い。

というか一見冷たそうに感じた人は僕にとっての師になってくれた場合が多い。

一見すると厳しさを感じたり、一見すると冷たさを感じたりすると、

僕は「お!これはいい人に出会えた!」と感じる。

耳心地の悪いことを言ってくれる人は長期的な目線に立って僕のことを見てくれる。

耳心地の良いことしか言ってこない人は短期的に僕を利用しようとしていることが多い。

何事もそうだが、短期的な目線だけでは上手くいかない。

中長期的視野こそが肝要である。

 

行為の果実を求めない。恩返しを求めない。

もっというと、恩送りをしようとする。

それが利他には欠かせない思想であり、

本物の利他には恩着せがましさがない。

清々しい神社のような空気が宿る行為

それが利他的な行為だと僕は思うのだ。