最近はとくにやるべきことがない。
毎日、毎日、自分のやりたいように過ごしている。
別に授業もないし、まだ研究室でも研究テーマすら明らかになっていない。
バイトは少なくなってしまったから、バイトもない。
院試の勉強といっても、そんなに範囲が広くて大変なわけでもない。
他の大学の院試も調べ始めたけれど、
結局のところ、僕がやってみたい研究テーマは僕の大学でやることができるし、
それについてもあまり考えにくい。
少しだけ思ったのは、
記念受験程度で京大でも受けてみようか。
ということくらいだ。
僕は現役のときに京大を受けたがっていた。
しかし、学力が足りなさすぎて、親に止められた。
今は別に行きたいわけではないけれど、
受けるだけなら自分のバイト代で賄える。
受かってしまうならそれはそれで面白いし、
別に受かったからと言って、
京大に行く必要があるわけでもない。
落ちてしまったとしても、
もともと行くつもりもないわけだからノーダメージだ。
こんな馬鹿げたことを考えるのは僕くらいだろうけれど、
僕にとっては割と重要なことで、
なんで意味もなく京大を受けることが重要なのかというと、
それは鎮魂になるからだ。
少なからず人間は生きていれば何かしらのしがらみにとらわれてしまう。
そうすると自分にできること、できないことがはっきりしてくる。
すると、やるべきことだけをやるようになり、
本心からやりたかったことは往々にして置き去りになってしまうのだ。
僕は京大を受けることができなかった。
親の立場からすれば、
僕を引き止めるのは当然のことだっただろう。
理解はできるし、納得もしている。
けれど、当時の僕の魂は叫び続けている。
鎮魂されずに生き延びている。
だから、今こそ僕の魂を鎮魂してあげたいとも思うのだ。
今なら自分で鎮魂できる。
今なら(かなり余裕で)できる。
今の僕は高校生のときよりもかなり自由だ。
親から物理的にも精神的にも離れることができたし、
思想的にも自由になった。
いろんなことを発想できるようになった。
親から離れることができた、
なんていうと親に怒られてしまうけれど、
高校生のときは心底、親を憎んだし、
心底「こんな家消えてしまえばいい」と思った。
今はそんなことないし、今は別になんとも思っていない。
しかしながら、当時の魂はそう思ってしまったのだ。
人生においてもったいないのは、
鎮魂されることなく残ってしまった魂であるのかもしれない。
できることなら、僕は鎮魂してあげたい。
その儀式としての京大院受験というのは有りかもしれない。