「孤独になれば、道は拓ける」とは言うけれど、独りぼっちでいれば、道は拓けるわけじゃない。

こんにちは。

誰もが一度は見たことがある、

自己啓発系のこの文言。

「孤独になれば、道は拓ける」

 

学部2年のころの僕は、この言葉を真に受けて、

孤独であることを、独りぼっちであることを、

単に肯定するための材料にしてしまっていた。

 

今ならわかる。

これは間違いだと。

孤独になれば道は拓ける。

これはたしかに一理ある。

 

井戸に入るには、

一人でなければならない。

誰かと一緒に井戸に入ることなどできないし、

井戸は一人分の大きさしかない。

誰かと一緒にいるときには、

一人で井戸に入ろうとも思わないかもしれない。

 

井戸に入って、

深く自分と向き合う時間を設けるのが大事だ。

そういう意味で、

孤独になれば道は拓ける、

と本には書いてあるわけだ。

 

どういうわけか、僕にはそれがわかっていなかった。

「そうか、孤独である僕は間違っていない」

「この孤独を肯定すればいいんだ」

そうやって、孤独を肯定していった。

 

でも、違う。

孤独になることと、

独りぼっちでいることは、

まったく意味合いが違うのだ。

 

僕の孤独は単に独りぼっちでいただけだった。

本来、自己啓発などの本に書いてある孤独は、

身の回りに人間関係があふれていて、

友人もたくさんいて、親友と呼べる人も何人かいて、

そういう状況の人に向けて書かれている。

 

つまり、誰も独りぼっちである人に向けて、

孤独になれば、道は拓ける、

なんて言っていないのだ。

 

独りぼっちでいれば、道が開けるわけじゃない。

逆に独りぼっちでいることを肯定しても、

何も拓けない。

 

独りぼっちの人は、

独りぼっちであることに安住するべきじゃない。

そういう種類の孤独は、

単に心をむしばんでいくだけだからだ。

そういう種類の孤独の中に生きていても、

活力が失われていくだけだ。

 

もし僕が大学2年生のころの僕に、

何か言いたいことがあるとしたら、

お前の孤独は危険な孤独だ、

安全な孤独を獲得せよ、

そう言うに違いない。

 

深い人間関係に根差した孤独と、

単純な孤独は、まったくの別物、

 

それをわかって、

「孤独になれば、道は拓ける」系の本を読むのと、

わからずに読むのとでは、

まったく意味が違ったものになると僕は思う。

 

「孤独になれば、道は拓ける」

とは言うけれど、

独りぼっちでいれば、

道が拓けるわけじゃない。