僕はたまにどうしようもない虚無感、孤独感にさいなまれることがある。
いや、そんなに大層なものではないのかもしれない。
ふと、不安になったり、
ふと、苦しさが沸き起こってきたりする。
これはたぶん、誰しもに起こりうるもので、
集合的無意識的なものなのだと思う。
僕がそういう感情に負けそうになるときは、
エネルギーが下がってるとき、
心のなかにノイズがたまっているとき。
だいたいはそのどちらかで、
エネルギーが下がるのは、
普通に生活していると、自然とエネルギーを使う。
現実世界に生きていれば、物質は重力によって、
位置エネルギを失うようにできているし、
温かいお茶もエネルギーを発散して、熱が冷める。
こうやって、世界は普通に過ごしていると、
冷たく、重くなっていく。
冷たく重い感情は、
エネルギーが下がったときにわくもの。
心のなかにノイズがたまっていくのも、
日常のなかにノイズが多いからにほかならない。
だからこそ、普通に、気ままに生きているだけでは、冷たく重く苦しい。
楽しく、Easygoingな生き方をするためには、
日常から、楽しく、Easygoingな感情を生成していかなくてはいけない。
でも、勘違いしてはいけない。
心のなかにノイズがあるとき、
エネルギーが下がっているとき、
人は何かで埋め合わせようとする。
人は、っていうより、
僕はそうしてしまうことが多い。
だから自戒として、
心のなかにノイズがあるときこそ、
静寂に向き合い、静かにその無音の中に違う音を見つけ出すような努力が必要で、
エネルギーが下がっているときこそ、
普段の生活で、エネルギーをいただく意識が大切。
エネルギーをいただくのは、
太陽から降り注ぐ光を受け取ることもそうだし、
ご飯から受け取ることもそう。
エネルギーが下がっているとき、
僕はたいてい、何かをしながらご飯を食べてしまっている。
エネルギーっていうのは、単にカロリーではなく、
活力と思ってもらった方がいいかもしれない。
活力っていうのは、
別にカロリーによってもたらされるのではない。
質素なご飯と味噌汁だけでも、
ちゃんと味わって食べると活力が湧いてくる。
あくまでも僕は、ということになるけれど、
日本人なら昔からある伝統的な和食を味わって食べるだけで、エネルギーが湧いてくるような感覚に至るのではないか、と個人的には思っている。
だから、僕が言いたいのは。
虚無感や苦しさみたいなものが湧いてきたときこそ、
心を静寂に、
エネルギーを自然からいただくような感覚を大切にしていきたいものですね。っていうこと。
遠藤周作がいいエッセイを書いていて、
ちょっと引用して、結びとする。
どんな人でも一生に一度ぐらいは「神も仏もないものか」という言葉を口に出すことはあるだろう。
中略
たとえば最愛の子供が助からぬ病気にかかったとする。世の親ならばあらゆる薬を使い、そして神仏に祈るであろう。にもかかわらずその子は息をひきとる。神も仏もないものか、と親は思わず天にむかって叫ぶ。しかし天は沈黙している。氷のような沈黙を守っている。
中略
『沈黙の声』という本がアンドレ・マルロオにあった。いい言葉だと思う。沈黙とは必ずしも何も語らぬことではなく、語っている沈黙もあるのだ。我々がそれを単純に無言と思っているだけだ。
私はかつて『沈黙』という題の小説を書いたことがあったが、その小説は「沈黙」のなかにかくれている声をきくこと、かくれている徴をみつけることだった。その気持ちは今も変わっていないし、むしろ齢をとるごとに強くなりつつある。
「生き上手 死に上手」63,64頁より引用