「やりがいのある仕事」という幻想

仕事がうまくいかなかったというわけでもない。

ローンはあるけれど、お金に困っていたというわけでもない。

ただ、会社、家族、子供、ローン、両親、いろんなものに少しずつ縛られて、身動きできなくなっていた。気づいたら、自分の自由なんてどこにもなかった。ただただ、働いて、毎日が過ぎて、酒を飲んで、疲れて眠るだけ、その連続に堪えられなくなるらしい。これはどこで間違えたのだろうか?

「やりがいのある仕事」という幻想 193ページより引用

 

これは僕の親を見ているような気分になる。

森博嗣さんは、もともと名古屋大で助教授をしていて、

彼の教え子は大企業に難なく入っていったらしい。

そして、その教え子の中には、上記のような悩みを抱え、自殺していった人がいたらしい。

 

理系にはこういうことは多いと聞く。

僕は、受験生のときにこういうことはおかしいのではないか?

なんで、こういう仕事をして生きていかなくてはならないのか?

大企業に就職してもどうせ親のように苦しむに違いない。

そう思った。

 

現に父親には、

「俺は仕事をやめたいけれど、お前達のせいで働かざるを得ないのだ」

ということを言われたことがある。

なんとも不幸な働き方だ。

 

僕はそうはなりたくないなと、素直に思ったから、

将来はあんまり大企業に就職したり、

なんなら、好きでもないような業界に入るのはやめようと思った。

 

正直、こういう問いを今のうちに持てているのはかなり良いことだと自分では思っている。

なぜなら、こういう問いを持たないまま、

大企業に勤めたら威張れるとか、

そういう幻想で、

いざ好きでもない大企業に入ってみたらうんざりした。

という失敗をしなくてすむからだ。

 

それで、早めに気づけたら良いが、

大企業にはそれだけ人がたくさんいるということだから、

そこから抜け出すのは勇気がいる。

その勇気を持てないまま、

精神的に追い詰められていったとしたら、

それこそ不幸なのではないか。

 

もっと危ういのは、

40代、50代で今僕が抱いているような問いを持ってしまうことだ。

エリートでずっと歩んできた人が、いったんその問いを抱いてしまって、

アイデンティティ・クライシスに陥ると、十中八九鬱になる。

 

20代ならば、まだやり直しがきく。

守るべきものがない。

しかし、40代になって働き盛り、

子供がいる場合には、子供の育ち盛りが重なったら、

それこそ詰む。

これに加えてマイホームをローンで買っていたらそれこそ致命的だ。

本当に身動きがとれないまま生きていくことになる。

 

そこに絶望して死ぬ人もいるのだろう。

挫折をしてこなかった人は中年期にもろさを露呈する。

雑草魂でやってきた人はなんやかんや生き延びる。

そういうすべを若い内から身につけている。

 

しかし、ずっとエリートでやってきた人は、

それに耐えうるだけのメンタルを鍛える機会に恵まれなかった。

これはある意味不幸なことで、

それによって命を絶つこともあるということだ。

 

そう考えると、

エリートとして生きることにもリスクがある。

若い内に失敗しておいた方が良いというのは一面の真実なのだろう。

歴史においても、そういうことが見受けられる。

例えば、徳川家康は、武田信玄に大敗を喫している。

本当に悲惨な負け方をしている。

そのときに絵師に自分の情けない姿を描かせたという。

 

そのときに家康は挫折を経験したのだろう。

松平といえば、当時でも名門である。(家康はもともと松平家

愛知には松平という地名が残っているほどだ。

その名門の家康ですら、やはり若いときに大敗を喫している。

 

しかし、後年を見てみれば、有名なように、

幕府を開き、長年にわたって政治的な権力を握り続けた。

 

長期的な成功には、若い内の挫折は必要なのかもしれない。(十分条件ではないかもしれないが)

 

之を読んでいる人には

大企業に対する幻想や、世間の価値観の幻想から解き放たれることをオススメしたい。

自分の軸を持て!とは良く言われるが

結局、自分の好き嫌い。自分の幸、不幸というのはどういうものなのか

それを考えることである。

 

顕在意識で考えて出てきた、その軸が本当に、本来の自分(魂)が望んでいることなのか、純粋な朗らかな気持ちで臨んでいることなのか、

それを考えていくべきだと思う。