思い出とは、生きてきた歴史を知覚するための装置なのかもしれない

松坂投手が引退した。

僕にとって、松坂投手は、憧れの存在だった。

小学生のとき、少年野球をやっていたのだが、

ちょうどそのときレッドソックスで大活躍。

 

僕はピッチャーだったから、当たり前のように松坂に憧れた。

しかもレッドソックスのあのユニフォームである。

本当に羨望のまなざしを向けていたし、

彼のようになりたい!と少年心に火を付けられたものだった。

彼に憧れた僕は、スポーツ用品店に走り、

おじいちゃんにねだりにねだって松坂モデルのグローブを買ってもらった。

真っ赤なグローブが本当にかっこよくて、

一刻も早く手になじませたいと思って、

ひたすら練習しては手入れをする日々だったと記憶している。

そのグローブは今でも実家に保管してある。

 

松坂に憧れた野球少年も

今ではもうすっかり大人になっている。

僕ももう22歳である。

 

10年という月日はあっという間で、

こうやって偉大な誰かの節目をもってして

やっと認識できる程度だ。

 

ああ。もう子供ではないんだな。

もう俺も大人になっているんだな。

そう感じることが最近多くなってきた。

 

俳優さんがお亡くなりになったり、

思い出深い人が亡くなったときには余計にそう感じる。

 

たぶん、大人になったと感じるのは、

自分が成長したからというよりも、

思い出に残っている誰かがいなくなるときなのだと思う。

 

それは誰であれ、避けられないことだし、

みんな思い出に残っている誰かを失いながら生きている。

 

子供のときにはそんなに多くの思い出がないから、

あんまりそういうことは起きないのだけれど、

長く年を重ねれば重ねるほど、そういうことは増えていく。

 

そして、思い出に残っているということは、

節目の度に思い出を思い起こすことにもなる。

すると、

「あれからもう10年も経ったのか」

と驚愕するのだ。

それと同時に、年を取ったことを自覚する。

 

思い出は、もしかしたら、自分が生きてきた歴史を知覚する装置なのかもしれない。

 

松坂投手に憧れた思い出は、僕にとってもそういう装置だった。

だから彼の引退は、感慨深い。

今でも彼の剛速球に憧れていた当時の自分を思い出せるし、

今でも野球少年だった日々は大切な思い出だ。

 

あの剛速球も一時のもので、

当時は、さも当たり前のように投げ込まれていたのに、

今ではもう松坂投手は引退された。

 

こういうことを見ていると、

やっぱり方丈記が思い起こされるし、

時代の移り変わりを感じざるをえない。

たぶん今のプロ野球を見ても、知ってる選手は少ないんだろうな。と思う。

 

僕が野球をやっていたのは、

ドラゴンズ黄金期である。

吉見、岩瀬、チェン、浅尾などなどの盤石な投手陣がすごすぎた。

あの当時に活躍していた選手しか知らない笑

 

また暇なときに野球を見るようにしようかなとふと思った。

 

 

最後まで読んでいただき、ありがとうございます。

オザキでした。