沈黙は贅沢だ。

沈黙は贅沢だと僕は思う。

世の中では沈黙は敵で、

沈黙しているよりも話している方に価値があると思われている。

たしかに、それはそうなのかもしれない。

沈黙しているよりも、なにか話していたほうが、

時間の使い方として有効かのように思える。

 

けれど、親しい友人ほど沈黙を共有できるはずだ。

別に何もしていなくても、

なにも喋らなくても一緒にいることができる。

そういう人こそ親友だ。

無意味なバカバカしいことを一緒にできる人こそ親友だと僕は思う。

どうしてか、女子の方々を見ていると、

どうしてそうも沈黙を嫌うのか?と疑問に思う。

何なら、僕が沈黙していると責められる。

僕だって話したかったら話すわけで、

そもそも、僕はあんまりしゃべる方ではない。

 

しゃべるのは別に得意だが、

共通の話題を探して、わざわざそれについて語るのがめんどくさいだけだ。

そしてたいてい、僕は語れることが多い。

いろんな話を語りだすときりがない。

 

だから、一方的に教えることは得意だし、

そういう立場がしっかりしているなら、

僕はいつまででも喋り続けられるかもしれない。

 

でもたいてい、立場は明確ではないし、

上下も貴賤も右も左もない。

だからどこまで踏み込んで話していいのか、

よくわからなくなったりもする。

 

よくわからないから黙る。

別に相手を傷つける必要性もないし、

説得したいわけでもないから。

それに僕が意見を言う必要性もないから。

干渉する必要もないし、干渉されたくもない。

 

相手から話してほしいと言われれば別に話せると思うが、

僕は自分からわざわざ自分の正義を押し付けるのが大嫌いだ。

家族くらいには自分の正義を押し付けることもあるかもしれないが、

友人関係においてそれをやる必要はないし、

別に誰もそんなことを求めてはいない。

 

話がそれたが、

沈黙というのは贅沢なのだ。

何もしていなくてもそこにいても良い。

お互いでそうやって許し合っていなければ、

沈黙を共有することはできない。

 

別に何も語らずとも時間を共有できるというのは

贅沢な話だ。

 

たまにそういう贅沢がしたくなる。

もう少し、沈黙の価値を見直したほうが良いと思う。

語らないことと語れないことは別の次元の話で、

語ってほしいなら、黙って話を聞く姿勢を見せるべき。

聞く耳を持ってもいないのに、

黙っている人を咎めるのはもうやめたらどうだろうか。