今日は1日ゆっくりできて、すごく良い1日だった。
朝から昼までNetflixで「サンクチュアリ聖域」をイッキ見することができて、
昼からは西宮神社に行って、エネルギーをもらった。
そのあと、お気に入りのカフェに行って、
遅めのランチと、台湾紅茶をいただいた。
そのお店で売られている紅茶を買うことができた。
オリジナルのブレンドの紅茶で、
帰りには、古本屋や商店街に行って買い物をして、
帰ってきてからは、ヱビスビールを飲んで、
少し仮眠をした。
商店街の小さな本屋に立ち寄った。
以前までは毎週のように通って、
毎週のように本をたくさん買わせてもらっていたから、
その店主のおじいちゃんとは、
たまに世間話をする仲になっていた。
最近は忙しかったのと、
バイトをやめたり、バイトをはじめたり、
いろいろと変化が激しかったので、
なかなか行くことができていなかった。
単純にお金がなかったというのと、
最近は本を読む時間が少なくなっていて、
本当の良書、つまり古典しか読まなくなっている。
古典はこれまでの四年間に買いためているから、
家の本棚を漁れば、いくらでも未読の古典に出会うことができる。
久しぶりに、その本屋に行ったら、おじいちゃんから、
「久しぶりやなあ。最近忙しかったん?
たまにな、君がどうしてるんかな、って考えとったんよ」
って言われた。
「いや、そんなこと言われたら、泣いてまうやろ笑」
って心の中で思った。
そんな風に心配してくれる人がいる、
それってすごく幸福なことだな、
と思う。
そのおじいちゃんの言葉には、
押しつけもなく、嫌みもなく、
純粋な心配だけが感じられた。
それは昔つきあっていた恋人しかり、
よく行く本屋の店主しかり、
どんな人間関係であれ、
どこかの誰かが、自分のことを心配してくれている、
そう思うだけで、幸福な気持ちに包まれる。
誰かが見守ってくれているんだな、
という安心感は、
心に平安を与えてくれる。
そして、安心感があるからこそ、
忙しさに埋もれることがあっても、
エネルギーを生み出して、また頑張れる。
もしかしたら、
自分には誰も見守ってくれてなんかいない、
自分は不幸な存在なんだ、
と思ってしまう人もいるかもしれない。
もしくは、そう思ってしまうときもあるかもしれない。
でも、誰も見守ってくれていなくても、
自分の内に宿る神様は見ている。
お天道様も見ている。
信仰を持つということの強さは、ここにある。
うまくいかないときも、大いなる何かが導いてくれている、
というある種の楽天さ、究極の楽観主義。
人生、悲観していても面白くない。
人生を面白く生きるためにこそ、信仰は存在する。
本来の信仰っていうのは、
楽しいものだ。
本来、信仰心を抱くのは、楽しいことであり、
それは、幸福なことだ。
別に信仰心という言葉でなくてもいい。
それは、周りの誰かが心配してくれているんだな、
と感じるだけでも幸福になれるのと同じことだ。