今回は、幸せは相対的なものではないというテーマで書いていこうと思う。
本当の幸せってなんだろう、
就活をしているとたまに考える。
自分にとって幸せって何だろう?
そう問いかけてみる。
少し前からちょいちょい読んでいる本がある。
加藤諦三さんの本。
僕は加藤諦三さんの本が一つのきっかけになって、ある意味人生が変わった。
加藤諦三さんの本は徹底的に厳しい。
読者に迎合しないし、いうべきことをはっきりと言い切っている。
加藤諦三さんは、心理学の専門家で、特にアダルトチルドレンと呼ばれるような心理現象について、かなり本を書いてきている人だ。
まあ、平く説明すると、アダルトチルドレンもインナーチャイルドもおんなじようなものだと僕は思っている。
これは個人のブログなので、厳密性はどうでもいいので、ざっくりとしか説明しないが、
要するに、幼少期に傷ついた経験が、その後の人生において足枷になってしまっていたりする、っていう話だ。
幼少期っていうのは、良くも悪くも純粋で、無垢だ。
だからこそ、その時の強烈な心理的ストレスがのちの人生に影響を及ぼしてしまうっていうのは、
精神医学や心理学の領域においては常識的なものだと思う。
少し前に、アドラー心理学が流行った時期があったが、
アドラーは、逆に、トラウマは存在しないという立場をとっている。
僕はアドラーのいう勇気の心理学も、人生には欠かせないものだと思っているし、
インナーチャイルド的な自分の内側に抱えてしまうトラウマや心理的な歪みのようなものも現実には存在すると思う。
それで話が逸れてしまったけれど、加藤諦三さんの本を読んでいて、
考えさせられたのが、幸せっていうのは相対的なものではない、っていうことだ。
幸せっていうのは比べることで幸せになるのだろうか?
確かに、自分より不幸な人がいる、とか、今の現状は最悪な状況ではない、と思うことは、
救いにはなると思う。
でもだからと言って、幸せだと言えるか、と言われると疑問が残る。
その本の中に、
もっと不幸な人生がある、という考えで、自分をごまかす、
という節がある。
その節では、事故で両足を失った人の手記が登場する。
両足を失うっていうのは、とんでもない不幸だ。
そんな人の書いた手記には、いかにも「良いこと」が書かれている。
人生というのは与えられた条件で生きるしかない、とか。
だけど、加藤諦三さんは、こう断じる。
“さて、実はこの手記を書いた人は、一見、人生の現実ときちんと向き合えているように見えたが、そうではなかった。本当は、自分の不幸を感じるのを拒否していた。自分は幸せでないと思っていることを認めないで、無理に幸せだと思い込むために、両足がない弟と自分を比較して、自分は幸せだと思おうとしていたのである”
僕たちは、別にその人に会ったことがないから、本当のところでどう思っていたのかは知り得ない。
しかしながら、たしかに加藤諦三さんのいうように、無理に幸せだと思おうとする、っていうのは多くの人がやってしまいがちな過ちな気がする。
だから本当の幸せっていうのは、誰かとの比較ではないところにしかない、という結論が導かれる。
他人との比較で得られる幸せっていうのは、所詮まやかしに過ぎないのだとも言える。
確かに、気休めとしての幸せは得られる。それが必要な時もあるのかもしれない。
でも絶対に言えるのは、いつかは虚しくなるだろうということだ。
多分、それが幸せだと思い込んで耳を塞ぐようにもなる。
そうやって、本当の幸せではないことに気が付きながら、まやかしでどうにか満足しようとする。
そういう人生になるだろう。
僕はそういう人生は不幸だと思うし、もうすでにそれがまやかしだと知っているから、そっちのまやかしの人生に行くことがもうできない。
自分の魂は、そっちに行くことをこの上なく嫌悪してしまっているからだ。
じゃあ、幸せが相対的なものではない、っていうのはわかったと、
それならば、本当の幸せってなんだ?
という疑問が浮かび上がる。
>書ききれなかったので、次回につづく