最近、加藤諦三さんの本を読んでいる。
加藤諦三さんの本って、
パワフルに言い切っている本が多い。
そしてその、言い切りに対してぐうの音も出ないっていうのも、
特徴的な気がしている。
この本はタイトルにあるように、
自分のための人生を生きているか、
ということを読者に問うている本。
自分のための人生というと、
どこかエゴイスティックな印象を受けるけれど、
単にエゴイスティックな生き方を推奨しているわけではない。
どちらかというと、
他人から束縛された人生を生きているのではないか?
という問いかけであり、
他人から束縛されただけではなく、
自分自身の内側からも束縛してはいないか?
という問いかけをしている本だ。
この本の主眼は、
自分自身を受け入れることにある。
自分自身をそのまま受け入れ、
そのままの状態を引き受けるということだ。
人間は、自分自身を受け入れて、
情熱を注ぐべき使命に駆られているときに、
生命力が湧いてくる、とこの本に書いてある。
これは、間違いのないことで、
人間が活力がないときっていうのは、
自己否定と使命感の欠如が根源的にある。
さんざん言われつくされた、
自己肯定感という言葉を僕は嫌っているけれど、
自己肯定が大事だというのは間違っていない。
でも、自己肯定よりも自己受容のほうがよほど大切だ。
それは、自分を肯定するっていうのは、
肯定できる自分であらねばならない、
という束縛につながるが、
自己受容は、どんな自分であっても受け入れる、
という心構えのことだからだ。
肯定できる自分であらねばならない、
肯定できない自分を認めることができないよりも、
どんな自分でも受け入れて前に進むという姿勢の方が逞しい。
思えば、僕の大学時代というのは、
自己受容を必要に迫られ続けた時代であったと思う。
朝起きれない自分を受け入れる。
課題を提出できない自分を受け入れる。
さみしさへの耐久力が弱い自分を受け入れる。
すぐにおなかを壊す自分を受け入れる。
いろんな自分の弱さや、
ダメな部分が本当にたくさんあぶりだされた大学時代だったと思う。
高校までは、ある程度いやいやでもできていたことが、
大学に入ったらできなくなった。
精神年齢が下がったのか、と疑った時期もあったけれど、
大学の自由度の高さによる反作用みたいなものだった。
この本の中でも以下のように書かれている。
人間は自由になっていくプロセスで、ものすごい心的エネルギーを必要とする。小さい子どもや青年がよく眠るのは、必ずしも肉体的な理由ばかりではないだろう。
それまで何かを頼りに生きていた。なにかを頼りに生きるとは、逆にいえばその何かに縛られる、ということでもある。
そしてその何かを頼りに生きるということは、膨大な心のエネルギーを必要とするというのではない。しかし、心がしがみついていたその何かから離れて、自分自身を頼りに生きはじめるとき、信じがたいほど大きなエネルギーを、人は消費するのではなかろうか。そして自由になった心は外の対象にエネルギーを向けていく。何かに情熱を向けていく。
加藤諦三, 自分のための人生を生きているか~「勝ち負け」で考えない心理学, 大和書房, p.162
まあ、単に自由になって、自分の責任で、自分の自由で、
いろいろなことが決めることができるようになって、
その結果として怠惰になったというだけだったのかもしれないけれど、
確かに、頼れるものは自分の身一つだと、
そういう状況だったのは間違いない。
そういう状況が親に頼っていたころよりもエネルギーを使うのもうなずける。
束縛されていた状態から、
一気に自由になり、出てきた膿のようなものも受け入れ、
束縛から解放されて、心を自由にして生きるとき、
本当の意味で自分自身に出合いなおすのかもしれない。
束縛されて、「べき」で生きていたときには、
感じることのできなかったものがあるはずだし、
自由に生きると、感じることのできていなかったものを、
感じざるをえなくなってくるし、
感じることが多くなると、それだけ心のエネルギーを使うのだろう。
要は、「べき」で生きているとき、
人は感性を殺しながら生きているけれど、
「べき」から解放されたとき、
感性が復活してくるということだ。
その本来あるべき感性が復活してきたときには、
必ずネガティブなものも含むというわけだ。
そして、本来の感性を持ち、出てきたネガティブも受け入れるっていうのが、
本来の意味における自分自身を受け入れるということなのかもしれない。
良い本なので、おすすめです。