今回は、前回の続きを書いていこうと思う。
前回は、幸せは相対的なものではない、と書いた。
要約すると、人と比べて得られる幸せは、
まやかしにすぎず、気休めにしかならないということだった。
じゃあ、本当の幸せとは何なのか?
という問題がある。
はっきり申し上げて、
この問いは人類始まって以来、ずっと問われ続けている問題で、
僕のような一介の学生が、完璧な回答をできるわけはない。
論理的にすべてを論証するのは無理だ。
本当に僕の感覚、僕の主観、現時点で思うところを書く。
だから、別に誰かに押し付けたいわけでもない。
こうなんじゃないか、こう思ったら少しは楽しく生きられるんじゃないか、
という提案に過ぎない。
こんな前置きをいちいちおかないといけないくらい、
本当の幸せを語るのは、正直むずかしいし、
本来は、別に言葉で書かなくてもいい領域だと思っている。
でもあえて、言葉にして、残しておくのも悪くないから、やってみる。
僕が、ああ、あれは本当に幸せだったな、と思うのは、
一体感に包まれていたときだ。
例えば、神社でわいわいお祭りをやっているとき。
具体的には、僕が大好きな神社の西宮神社。その十日えびすのお祭りのとき。
みんなで同じ方向を向いて、ぞろぞろと歩いて、
参道が人でごった返しているのに、なんか、一体感があって、
誰も悪いことなんかしないし、別に隣にいるのは知らん人なのに、
なんか若干仲間な感じがあって、みんなで参拝しているあの感じ。
あの感じは、一生忘れないくらいの感動に包まれていて、
ああ、誰も敵じゃないんやな、みんなで一緒に参拝してるんやな、
っていう腹からわかる感じの、悟ったような気分。
あの感じは、僕にとっての本当の幸せなんだなと思う。
僕は神社が好きだから、神社で例えたけれど、
漫画が好きな人なら、漫画の中に没入して没頭して、
漫画と一体になっているような感覚になるんだと思うし、
映画とかアニメとかもそうだと思う。
ほかには、おいしいものを食べたときも、
その料理が、まるで自分の中に溶け込んでいくかのようなあの一体感。
これも一体感の一つだと思う。
料理を通して人は幸せになれる、これは本当にそうだと思う。
愛のこもった料理、光に満ち溢れた料理をほおばっているときの、あの自然に笑顔がこぼれてくるような感じ。
あれは、真に幸せだから、あんなほぐれたような柔らかい自然な笑顔になるんだと僕は思っている。
ハイキューの宮兄弟が、
何回飯食っても、また腹は減って、飯にありつくたびに、幸せやなって感じる、
みたいなことを言っていたけれど、
それは本当にその通りで、だからこそ、飯を誰とどこでどんな雰囲気で食べるのか、っていうのは、人間の根源的な幸せにつながっているんじゃないかなと思う。
お釈迦様が悟った瞬間っていうのも、
苦行を経て、どうしようもない、ってなったときに、
乳かゆっていう飯を食わせてもらったときで、
飯を食って、うまい!って感動しているようなときに、
インスピレーションも降りてくるし、
腹から幸せを感じることができるんじゃないだろうか。
いろんな具体例はいくらでもあげられると思う。
これまでいろんな感動体験をしてきたけれど、
いろんな経験を帰納してみると、一体感に行きつく。
特に、自然との一体感というのは、僕の中で大きい。
神社の神様は、天地自然を象徴している。
その天地自然の空気感を感じるからこそ、
僕は神社に行って感動するし、空気に感化されていつも幸せな気持ちになる。
まあ、とりあえず、そんな感じです。
一体感って、相対化をしようがない。
だって相対化したいもの、そのものと一体になって幸せを感じているのだから。
だからこそ、幸せは相対的なものじゃないと僕は知っている。
相対化っていうのは分離。
不幸を感じるときっていうのは、分離感を感じるとき。
社会との分離感、他者との分離感、自然との分離感、
この分離感が、人を不幸にしていると僕は思う。
神社のお祭りとか、本当にすごいなと思う。
どんな人でも巻き込んで、一体感を作り出していく。
あのとき、人間の表面上の仮面とか、なにもかもを考えていなくて、
ただ単に、その場の空気を、盛り上がっている感じを楽しんでいる。
ああいう瞬間になるべく多く触れること。
できれば身近な人たちとそういう盛り上がりを作ること。
それしかないんじゃないか、と僕は思っている。
まあ言いたいのはそんな感じのことです。
まとまりが悪くて恐縮ですが、
最後まで読んでいただき、ありがとうございます。
では🙌