エーリッヒフロム「愛するということ」を読んだ感想

エーリッヒフロムの「愛するということ」を読んだので、その感想を書いておく。

 

 

この本、本当にいい本なので、おススメ。

 

以下、はじめにより引用

 

人を愛そうとしても、自分の人格全体を発達させ、

それが生産的な方向に向かうように全力で努力しないかぎり、

けっしてうまくいかない。

特定の個人への愛から満足を得るためには、

隣人を愛さなくてはならないし、

真の謙虚さ、勇気、信念、規律がなくてはならない。

これらの特質がほとんど見られない社会では、

愛する能力を身につけることは容易ではない。

実際、真に人を愛せる人をあなたは何人知っていますか?

しかし、その仕事が困難だからといって、

それを口実に、その仕事の困難さや、その仕事を達成するのに何が必要かを知ろうとする努力を放棄してはいけない。

この部分に、この本でフロムが言いたいことが詰まっていると思う。

 

愛っていうのは、どこまでいっても、個人が個人を愛するっていうことだととらえがちだけれど、フロムは、私たち個人個人の愛には社会的な影響があるのだと説く。

 

現代には現代なりの社会的な影響のもとに愛もあると。

 

現代とは、資本主義の時代だ。

資本主義は、なんでもお金に換算できるということが前提になっている。

商品はもちろんお金に換算することができるし、

人間の労働力もお金に換算することができる。

時給という概念も、資本主義があってこそだ。

 

お金に換算することができるということは、

交換可能なものに置き換えることができるということだ。

資本主義を象徴しているものと言えば、僕はコンビニを思い浮かべるのだが、

コンビニはどの地方に行っても同じ商品を売っているし、

どの地方でも同じような接客だし、どの地方でも交換可能だ。

 

逆に、その土地にしかないもの、

例えば、神社や山や川などは、その土地に固有のもので、

交換不可能なものだ。

 

今の世の中を見渡してみると、いかに交換可能なもので埋め尽くされているか、身にしみてわかる。

その土地にしかなかった商店街は、ショッピングモールに代替され、その中に入っている店舗はすべて交換可能なものになっている。

 

資本主義は、安全で快適で便利なものを推進していこうとするという性質がある。

この資本主義の交換可能性は、便利で安全で快適であるがゆえに、

精神的に豊かでない人間にとっては不安を生み出すものでもある。

 

資本主義では、システムの中に組み込まれて、その枠組みのなかで、

歯車として機能することが求められる。

歯車としての機能を求められるがゆえに、人は没個性的になっていき、

徐々に画一化されていく。

日本の教育は、まさにこの没個性を推し進め、社会の歯車を作るための教育に成り下がっている側面が大きい。

 

フロムの指摘は、このような資本主義社会の中に生きていたら、

そこになんの疑問も持たずに生きていたら、

愛するということの本質をはきちがえてしまうのだということだ。

 

愛すらも打算になり、

愛すらも交換可能であるかのように勘違いしてしまうということだ。

 

マッチングアプリにどっぷりはまりすぎてしまう人がいると思うが、

それは交換可能な世界にハマってしまうということだ。

たとえ、マッチングアプリで理想の異性と出会い、交際したとしても、

マッチングアプリの中には、交換可能な異性にあふれかえっている。

その交換可能であるがゆえに、その交換可能性への期待が人を勘違いさせてしまうのだ。

 

つまり、交換可能な範囲の最大値を求めようとしてしまうということ。

資本主義とは、利益の最大化の追求だ。

人間の恋愛も資本主義の中で毒されている限り、

利益の最大化という幻想に毒されることになる。

 

自分を商品として売りわたし、その商品で得られる最大の利益を得ようとしてしまう心理がどうしても働いてしまうということだ。

 

このような社会の中で、無目的に恋愛をしても、無目的に人を愛そうとしても、

その愛は資本主義の枠組みの影響のもとでの愛でしかない。

 

フロムの説く、愛する技術の鍛錬とは、

そのような資本主義の枠組みにとらわれない愛し方を身に着けるということだ。

 

愛はとことんgiveするものだ。

give&takeに愛はない。

愛はgive&giveだ。これはもう言い古されたことだと思うけれども。

 

愛の人と言えば、イエスキリストだが、

真に愛することができる人物というのは、

周りの原罪すらも背負って、周りの人を助けようとする人のことだ。

 

自他を分けて、断罪するのではなく、

自他を分けず、周りの人も我が事ととらえて、周りの人の罪も背負うのが愛。

 

資本主義の常識から言ったら、狂気にも思えるが、

それができる人を愛に習熟した人というのだろう。

 

僕もそういう人間でありたいが、

最近、愛じゃなかったな、と気づかされることが多々ある。

こんなことを書いている僕自身が、資本主義の枠組みにどっぷりとつかってしまい、

その枠組みに執着し、愛から離れていた。

しかも今もなお、その執着を捨てきれずにいる。

 

そんな自分を嫌悪するのだけれども、

そんな自分すらも愛して生きていかなくては、愛の人に近づくこともできない。

自己犠牲は愛じゃない。

 

愛する人がいるとして、

その愛する人のために悲壮感を漂わせて、自己犠牲的に尽くしても、

それは愛じゃない。

ただ単に自己犠牲している自分に酔っているに過ぎない。

 

かといって、自分のことを優先していたら、

自分のことばかりを考え、損得勘定でしか動くことのできない打算人間になり、

愛を忘れてしまう。

 

愛するっていうのはものすごく難しい。

だから努力が必要だし、鍛錬が必要だと。

そうフロムも説いている。

 

僕も未熟だけれど、鍛錬していきたい。