資本主義の常識を軽やかに無視するイタリア人

最近、とても面白い本に出合った。

今回はその本について書いていこうと思う。

その本というのは、「最後はなぜかうまくいくイタリア人」という本だ。

タイトルから面白そう!っていう感じで、

確かにイタリア人ってどこか明るくて、若干失敗しがちなのに、うまくいっている印象がある。

イタリアと言えば、ルイヴィトンのようなハイブランドも多くあるし、

車で言えば、フェラーリもイタリアだ。

世界を代表するようなブランドがなぜかイタリアに集中している。

 

イタリアの産土力(うぶすなりき)とも呼ぶべき力が、関係しているのだと思う。

この本は、長年ワインのバイヤーとしてイタリア人と関わっていた著者によってイタリア人の特性やイタリアという国の特徴について考察を交えながら書かれている。

 

その中でも特筆して日本人が学ぶべきだなと思ったのが、

資本主義の常識を軽やかに無視するイタリア人

という節だ。

 

どういうことか、軽く説明すると、

資本主義というのは、労働者と資本家に分かれていて、

労働者は自分の労働力を資本家に売りつける。

その代価として、賃金を資本家から受け取るというシステムだ。

 

だから、労働者は労働することを義務化していく。

そして、お金を持っている人ほど、資本主義では力を持つようになる。

労働者は労働を義務化してお金を得るために働くようになるのだが、

労働を義務化していくがゆえに、徐々に労働は人間から本来持っているはずの人間性を奪っていくことになる。

本来の人間性を持っているよりも、ロボットのようにただ業務をこなす方が効率的であるからだ。

 

このように、資本主義では、労働をすればするほど人間は人間性をなくしていき、ロボットのようになっていくというのが常識だ。(マルクスによって指摘される通り)

 

この資本主義の常識を、イタリア人は軽やかに無視していると。

 

イタリア人は、公私の境界があいまいで、労働の時間にプライベートが入り込んでいるらしい。

要するに、イタリア人は「プライベートの時間」と「仕事の時間」を分けていないらしい。

 

具体的なエピソードとして、

ホテルのチェックイン窓口で、何人も並んでいるのにもかかわらず、受付の人が客とダラダラおしゃべりしていることが多いらしい。

 

こんなことは日本においてはあり得ない光景だろう。

 

物事には一長一短があるから、たしかにイタリアのチェックイン窓口の効率性は悪い。

しかし、定型業務にせずに、本来持っている自分のパーソナリティや人間性を生かしながら働くという点においては、日本にはない感覚を持っているのも確かだと思う。

 

公私の区別をつけない、という働き方は、もともと日本にもあったのだと、著者はいう。

たしかに、駄菓子屋のおばあちゃんは、公私の区別などしていなかっただろうし、

昭和の高度経済成長期のサラリーマンも、家族ぐるみで会社の人とのかかわりがあったという。

 

別にそこに戻るべきだ!と言うつもりはない。

ただ、今の日本社会は、資本主義に毒されすぎて、殺伐としている気がする。

もっと緩い部分があってもいいし、雑な部分があってもいいし、曖昧なところがあってもいいはずだ。

それを白黒つけすぎているような感じがする。

 

だからこそ、イタリア人のように若干雑に、若干曖昧に、若干ゆるく働くっていう姿勢は見習うべきだと僕は思う。

例えば、コンビニで世間話をするようなことがあってもいいだろうし、スーパーの店員さんと世間話をするようなことがあってもいい。

僕はお酒屋さんでバイトしているのだが、僕自身も最近は定型業務以外にも、若干お客さんと世間話をしたりするようにしている。

 

資本主義っていうのは、良くも悪くも個性を均一化し、コモディティ化させてしまうところがある。効率や生産性をいかにして高めるか、というのが至上命題であるから。

だけど、本来の人間っていうのは、特別な個人として存在しているし、僕という人間は今、ここ、にしかいない。

だからこそ、資本主義に毒されすぎてしまっても社会は殺伐としていく。

資本主義というシステムをうまく使いながらも、緩やかな部分や、個性的な部分を残しながらいかにして幸せに生きていくか、という点において、イタリア人から学べることは多いと僕は思う。

 

ということで、めちゃくちゃおススメの本です!