【お題スロット】捨てられないもの

お題「捨てられないもの」

 

マジで最近書くことがなくなってきたので、

お題スロットというものを使ってみた。

 

そんで出たのが、「捨てられないもの」

捨てられないものって何。

 

僕には捨てられないものなんてたくさんある。

ありあまるほどある。

 

 

本が捨てれない

例えば、本。

本なんてマジで捨てたいと思ってるのにも関わらず捨てられない。

さすがにこの本は読む気ないし、もういらんやろ。

っていう本ですらとっておきたい性分。

 

さすがにそろそろ捨てたい。

本棚一杯だし、また本棚かうスペースもあんまりないし。

 

思い出も捨てれない

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他には、思い出も捨てられない。

思い出って美化されていくじゃないですか

 

だから本当に捨てられない。

 

何の思い出かっていうと、

中学の思い出。

 

中学の時、僕は割と目立つほうだったんですよ。

こう見えても。

 

どう見えたらそう見えるんだよ!って感じかもしれませんが。

 

そういうのも含めて、

悪い意味でのこだわり

ってなかなか捨てられないものだな。って

 

稲荷崎みたいな垂れ幕を部屋に飾っておこうかしら

ってすら思う。

良い意味のこだわりと悪い意味のこだわり

良い意味でのこだわりは、

世の中の人のためになるけれど、

悪い意味でのこだわりは、

自己満足と、自意識過剰。

 

悪い意味でこだわりすぎると、

がんじがらめになって身動きがとれなくなる。

 

例えば、

ローンを20年とかで契約して家を建てると、

その20年間はローンでがんじがらめになりますよね。

 

20年間もがんじがらめになるなんて僕は御免

 

だから、一括で家を買えるまでお金を貯めることを

今のうちから決意しているし、

別に買えなくたって、どうせ死んだら何も残らないんだから、

どうでもいいや。

って思ってる。

 

たしかに不動のものは、安定していてすごく魅力的に思えるけれど、

僕は揺らいでいるものの方が魅力的だなと思う。

 

なんでもそうじゃないですか。

 

花火がなんで美しいか。

桜がなんで美しいか。

青春がなんで美しいか。

 

はかないからですよ。

 

切ないからですよ。

 

その一瞬のはかなさとか、切なさって呼ばれるノスタルジーが僕は好きです。

 

なのに、そういう美しさを求めてるのに、

現代に生きていると、こだわりを持たざるを得ない。

 

だって、こだわらないと、何者にもなれないような気がするから。

 

誰もが何者かになりたがっている。

それは僕もそうだし、

たぶんあなたもそう。

 

みんな何者かになりたいと願っている。

 

なんでYouTuberになりたい小学生が多いのか。

たぶん、わかりやすいから。

 

僕はYouTuberになりたいんです!

って語ってた方が、わかりやすいから。

 

何者かっていうことがわかりやすい。

 

登録者○万人。

いいねの数。

そういう数で表されているからわかりやすい。

 

でも、たぶんYouTuberで成功しても

それで何者かになれたとしても、

いつかはそれを失ったり、

それを手放さなければならないときは来る。

 

死ぬときもそのうちの一つだろうし、

そもそもYouTuberっていう職業自体がなくなることもあるかもしれない。

 

どんな職業でも、どんな職種でも、どんな立場でも

盛者必衰なんです。

 

 

つれづれなるままに~って感じですよ。

 

はたまた、

月日は百代の過客にして~

って感じかも知れないけれど、

 

それはそれでどうでもよくて、

 

万物は流転するんだから、

こだわってもしょうがないよね。

 

どんなに頑張ってみたところで、

結局のところ水は蒸発して水蒸気になってしまうし、

それもいつかは雲になって、雨になって落ちてくる。

 

なんだってそう。

 

あなたの身体だって、毎日細胞が立ち替わり入れ替わってる。

1週間したらまったく別人なわけで、

 

どんなにあがいても、それは起こってしまうんです。

 

で、何が言いたいのか

ってことですが、

 

悪いこだわりは捨てましょ。っていうこと。

 

悪いこだわりを捨てましょ。

っていうことにもうすでにこだわってるやん。

っていうツッコミはやめてくださいw

 

まあ、ただ、

良いこだわりっていうのもあって、

良いこだわりっていうのは、

誰かのためになることであり、

 

 

自分が死守したいもの

 

 

だと思います。

 

僕が死守したいのは、

読書の習慣、

浄化の習慣、

食事の習慣、

ブログの習慣、

在り方

生き様

 

et cetera

 

です。

 

特に、在り方は死守したい。

 

自分がどう生きていたいのか、

逆に、何が嫌なのか。

 

そういう自分としての禁忌、

他の誰がやっていても僕だけは死んでもやらない、

というものを守りたいときは

必至に守り抜くべきやと思います。

 

それは捨ててはいけないものだし、

僕自身も守っていく所存です。

 

 

捨てたいのに捨てれないものを書くつもりが、

最終的には捨てたくもないし捨てれないものを書いてしまいましたが、

 

最後まで読んでいただき、ありがとうございます。

 

あなたが明日も明るく軽く元気に過ごせますように!

 

 

【書評】村田沙耶香さん「地球星人」 「宇宙の目」で眺めてみよう

 

 

「宇宙人の目」で世の中を見てみると、

なんとも滑稽なものだ。

世間一般で「常識」とされているものは、

「地球人の目」で見たもので、

ただの偏見だ。

 

それを共有しているだけ。

 

地球星人は、いろんなしがらみを抱えて生きている。

進学、就職、結婚、出産、子育て、転職、出世…et cetera

そんなものは、地球星人が作り出した幻想で、

宇宙人からしたら、そんなものには価値がない。

 

僕は研究室の抽選に落ちた。

昨日は絶望した。

だけど、落ち込まないようにした。

なぜなら、地球星人のしがらみなんて、

ポハピピンポボピア星からみたらちっぽけなものだから。

 

そんなものに価値はない。

悩むようなことでもない。

僕たちが抱えるすべてのしがらみをとっぱらってみると、

あることに気づく。

 

そんなことで死にはしない。

ということ。

 

結局、生存するという目的において、

そんな常識は役に立たないし、

たかだか研究室の抽選に落ちただけだ。

そんなものに落ち込んでいるのは馬鹿馬鹿しい。

 

なんとしてでも生き延びること。

それができるのなら、たいした問題ではないのだ。

 

絶望したときに初めて読書ができる。

絶望していないときの読書なんて偽物だ。

 

絶望できたら、ラッキー。

ホンモノの読書ができる時間を神から与えられたのだ。

 

今まで大切だと思ってきたものにこだわりすぎていた。

本がなかったら、もっと絶望していたのかもしれない。

本はいつも僕に新しい視点をくれる。

結局、新しい視点から眺めたら、大抵の問題はちっぽけだ。

 

悩んだときこそ、「宇宙人の目」で眺めてみよう。

悩んだときこそ、こだわりを捨ててみよう。

いじめといじりの違いってなに?

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小学生のころ、僕はいじめられっ子だった。

うーんと、

当時はみんないじってる”つもり”だったんだと思う。

 

だけど、僕本人はいじめられていると感じていた。

いじめられる奴も悪いっていう意見があるけど、

いじめる奴が1番悪い。

そこに異論は認められない。

 

まあいじめられる側にも問題はあるっていうのは、

いじめられる側も、

いじめられるのが嫌なら学ばなければならない。

ということ。

いじめられたことから学んで、

それを生かしていくのは大事なことではある。

 

僕は幸い、いじめられたことから学ぶことができたし、

心を壊す前に成長できたから良かったのだけれど、

 

心を壊すところまで我慢してしまう人もいる。

そういう人に、いじめられる奴が悪い。

だなんて言う奴の神経がわからない。

 

 

いじっている”つもり”だけど、いじめている。

そういう自覚のない、いじめこそ1番悪質で、

いじめられていると感じた本人は誰にも理解されずに苦しむことになる。

 

いじめといじりの違いってなんだろう?

って考えてみると、

 

愛があるかないか。

 

まあ、月並みだけれど、

とても大事なところに行き着く。

 

愛っていうと仰々しいから、

ここでは敬意とでもしようかしら。

 

まあ、愛でも敬意でも良いのだけれど、

とにかく相手を思いやる心が感じられないことが決定的な差を生む。

 

いじる側にも責任はあるし、

どこまでいじったらいいのか。

という距離感をつかめないと、危うい。

 

距離感がある程度近くなって、

ちょっと突っ込んでいじってみるというのは良いと思う。

 

なぜなら、そこにはもう愛があるから。

距離感が大して近くもないし、

愛がない状態で、

突っ込んでいじったらそれは、不快なだけ。

最悪の場合は絶縁される。

 

そういう失敗を繰り返している友達を知っているし、

本当にバカな奴だなと思う。

ただ、バカな奴なのだけれど、

そういうバカなところが可愛いなとも思ったりする(笑)

 

距離感を測れない人も一部いるようだし、

それはカンタンに直せるようなものではないから、

それを理解してくれる人と一緒にいるようにすれば良いのだと思う。

 

僕は、距離感の測り方という技術も大切なんだと思う。

人との距離感なんて言語化できないし、

いくら定規で測ろうとしても絶対に測れないから、

体感でわかっていくしかない。

 

こういうこと言うのってたぶんHSP気質のある人だと思うし、

たぶん僕はHSS型HSPと呼ばれる部類の人だ。

 

僕は割と外向的に振る舞えもするし、繊細な心も持ってるから、

いつもどっちつかずで、どっちのことも理解できるから、

余計に悩む。

 

 

 

 

それは誰のため? 本当に自分のため?

自分はずっとmeタイプだと思いこんでいたけど、実はweタイプなのかもしれない。

人間はいろんなタイプに分類できる。


内向的、外交的
繊細さん、非繊細さん
meタイプ、weタイプ

偶数体壁、奇数体壁
などなど、

 

今回取り上げるのはmeタイプ weタイプ

 

meタイプは、個人主義的な人で、みんなで何かをやろうとするよりも自分で充実したい人
weタイプは、みんなでなにかやろうとする一体感を求める人

 

これを知ったとき、僕は、真っ先にmeタイプだと思ったし、その要素が強いと思っている。


しかしながら、最近思うのは、誰か相手がいる方がより楽しんでいるということ。

例えばコーヒー淹れるにしても、誰かのために淹れている方が嬉しいと感じるし、
ブログにしても、誰かに求められて書いている方がいい記事が書けるようだ。

 

ずっと
人は孤独な時間にしか成長しない!
孤独に自分を磨き続ける人間がカッコいい!
そう思ってきたし、それも一理あることだと思っている。

 

しかし、孤独に自分を磨いた先には必ずそれを還元していく相手の存在があったのだ。

最終的に、技を磨いたら人に施したくなる。

あー。そういうことだったのか。
なんとなく腑に落ちる感覚があった。

 

こんなにブログ書きまくって、文章力身につけた目的は読んでくれる誰かのためであったのかと。
こんなにコーヒー淹れまくって、美味しいコーヒーを淹れられるようになった目的は飲んでくれる誰かのためであったのかと。

 

結局、人は一人では生きてはいけない。

そんな単純明快な真理、
子供でも知っているそんなことに今さら気づく。
痛々しく生々しい血の通った教訓でした。

人は見かけによらないどころか…

人は見かけによらないってよく言われるけど、
人は見かけによらないどころか真逆なことも割とあるように思います。

ほんとに、外面でめちゃめちゃ取り繕ってるのが大人ってものです。

大人ってみんな大小はあれど、何かしらの傷ついた過去を背負ってるわけで、
その過去を見せないために外面では、やらかさないぞ!と鎧を着てるんですよね。

ナム・セヒさんっていう韓国ドラマに出てくる人なんて、その典型で、
めちゃめちゃドライで、論理的に合理的に外面では取り繕ってるくせに、
過去に傷ついたから鎧を着てるだけで、本当はめちゃめちゃ感情的な人だったわけです。

僕は、外面では堅物な印象をもたれるのではないかと自負してますが、酒を飲むと誰よりも笑います(笑)

酒を飲んでいる方の僕が本来性です。

バカだから読書しなきゃと外面を取り繕ってみたけれど、本来性が楽観主義の楽天主義なので正直に申し上げると、本の知識は役に立ってません(笑)

いや、誤解のないように言い直すと、
役に立ってるものは知恵で、知識はどんどん抜け落ちてます。

知恵っていうのは、応用範囲が広いもののことで、例えば上のような、「人は見かけによらない」みたいな格言的なものです。
それで、知識には感動することはないけど、知恵には感動したりするんですよね。

得てして、感動したものは覚えるもので、
そういう感動した知恵しか覚えてません。

だから、僕にとっては知恵は役に立つけど、知識は役に立たないのです。

【映画】ベンジャミン・バトン に感服した

映画「ベンジャミンバトン」マジで良かった。

いやー。3時間という時間を全く感じない。

で、原作誰だ?って思ったら、
なるほど。納得した。
フィツジェラルド原作

さすが、フィツジェラルドって感じ。

村上春樹
ノルウェイの森」にて主人公の好きな小説として「グレートギャツビー」が登場するが、
ノルウェイの森を読んだ当時、めちゃくちゃな衝撃を受けた僕は、
なんとフィツジェラルドの「グレートギャツビー」も読んだ。

英米文学に慣れていなかったせいもあり、
途中で投げ出しそうになりつつも、ラストシーンの皮肉感は未だに覚えている。

グレートギャツビーもたしか映画化されているはずなので、
「ベンジャミンバトン」と合わせて見てみると面白いかもしれない。

フィツジェラルドの作品の特徴としては、
最後にわかりやすい答えを提示しない。
ということがあげられる。

で、結局この物語を通して何を伝えたかったのだろう?

ということは読者それぞれで導いていくしかない。
ヘミングウェイ老人と海もそうだったが、
面白いのは面白いし、感動するには感動したんだけど、
結局何が言いたいんだろ?
と疑問が残る。

まだまだ人生経験の浅い若造には到底真に理解できるものではないのかもしれない。

ただ、こういう意味わからん物語を若い内に読んでおくのは
長い目で見たときに、めちゃくちゃ役立つと思う。

知識と教養の違いは何か?

知識は短期スパン
教養は長期スパン

ということだ。

長い目で見てみなければ、その効果を体感できるものではない。
だから、教養を身につけるのはとてもまどろこっしいし、
何か正解があるわけでもない。

ただ自分の直感を信じて、興味の赴くままに読書すればよいのだ。

老人と海を読んでみても、何が言いたいのかさっぱりわからない。
しかし、それで良いのだと僕は思う。

さっぱりわからなかった。
ということが自分の中に残る。
すると、何十年かたったときにふとまた読んでみようと思う日が来るかもしれない
そしたら、いかに今の僕が若かったのかを理解できるのだろう。

教養の面白さは、終わりがないことだ。

どこまでいってもわからないことだらけ。

それが、何十年とたったときにふと腑に落ちる瞬間に出会えるかもしれない。

そんなロマンを感じさせてくれるのが、
古典的な名作であり、
フィツジェラルドの作品は古典と呼べる作品であり、
人生を通じて味わい尽くしたいものだ。

【ワンピース】コビーに学ぶ新時代の生き方

ワンピースの中で一番好きなキャラと言えば、コビー。
いや、たしかに麦わらの一味の中では断然ゾロなのだけれど、
全体的に見たときに、一番好きなのはコビーかな。


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悪役的なキャラで一番好きなのはバギー
バギーとルフィのやりとり、特にインペルダウンは最高に面白いから好きだ。 

 

そんで、一番好きな場面といえば、マリンフォード
そう。コビーが一番活躍するところである。

 

 

マリンフォードって一番の大転換期を描いている。
あの戦争前後で話ががらりと変わる。

僕がマリンフォードで一番印象に残っているのが、
スモーカーの
「勝ってなお渇くばかりだ」
というセリフ。

 

海軍と白ひげの戦争は、ある意味終わっていたのだけれど、
海軍の中でも、絶対的正義を信仰している奴ら(赤犬や中将たち)が海賊は撲滅するべき!って言って、戦いをやめようとしない。

そんな中で、海軍の中にも違和感を感じた人たちもいて、


代表的なのがスモーカー、コビー、ヘルメッポ、ガープ、センゴクあたり

海軍と言っても、一枚岩ではなくて、
旧時代型と新時代型がいると思う。

 

旧時代型というのが
絶対的正義を信仰している奴ら(赤犬たち)で、


新時代型というのが
スモーカーやコビーたち。

 

要は、あの戦場で違和感を持っていた人たちは新時代型だと思う。

 

マリンフォードでは、エースが死んだ後、かなりカオスになる。
黒ひげとセンゴクはドンパチやってるし、
マルコたちと赤犬はドンパチやってるし、
本当に混沌としている。

 

混沌として、その中で
「これは何か変だ」
「何かがおかしい」
と違和感を感じていたキャラは、今後の物語の中でもキーになってくると僕は思う。

 

これを、今の世の中にも応用してみよう。
いきなり何?って感じかもしれないけれど、
マリンフォードの状況と、今の状況は結構似ている。

 

例えば、
コロナ一つとっても、
自粛する派、しない派
ワクチン打つ派、打たない派
いろんな考え方で二分化されていて、
思想的な戦争状態だ。

 

世の中は不安が渦巻き、かなり混沌としているように思う。


そんな中でコビー的人物が求められているのではないか?
と僕は思うわけだ。
要するに、この世の中に対して「何かおかしい」
と違和感を持って、ドンパチやっているところの間に割って入れる人が必要なのではないか?
と。

 

おそらく、そういう人が新時代に活躍できる人だし、
違和感を持つのは本当に大事。

あとは、旧時代型の人も、そろそろ一神教善悪二元論から脱却することは必要だと思う。
善悪で、絶対的正義を決めつけすぎて、本来の正義の目的を見失っては元も子もないわけだ。

 

絶対的正義を追い求めすぎた象徴が赤犬であり、赤犬に対しては多くの人が違和感を感じるのではないかと思う。

 

でも実際、赤犬的な人は結構いるし、ネットの記事などを読んだりしていても、かなり偏った言論をしている人もたまに見かける。
そういう人は、自分が信じたいものしか信じることができていない。


たしかに、人間というのは都合の良い生き物で、覚えていたいことしか覚えていないし、見たいものしか見ようとしないものだ。
しかしながら、それでは何も良くなっていかない。成長することはできない。

 

「勉強の哲学」という本の中で、

勉強とは、自己破壊である。

と書いていたが、
なるほどな。と思う。
勉強すると、する前の価値観が壊れる。
今まで考えていたものが間違っていたと気づく。


これは自分を破壊しているのと同じわけだ。

孔子も、論語の中で似たことを言っている。
学びて時に之(これ)を習ふ、亦(また)説(よろこ)ばしからずや。

 

これを超訳論語の解釈では、こう訳す。

学ぶということは危険な行為だ。なぜなら自分の感覚を売り渡す行為だから。
しかし、学んだことを自分のものにするために努力を重ねていれば、あるときふと本当の意味での理解が起きて、自分自身のものになる。
学んだことを自分自身のものとして、感覚を取り戻す。
それが「習う」ということだ。それはまさに悦びではないか!

なんと素晴らしい訳なんだろう!と初めて読んだとき雷に打たれるがごとく感動したのだが、
まさにこれが学習の本質である。論語とは学習の本質を説いた書物なのだ。

学ぶ、勉強するという行為は危険な行為だ。
しかし、ぜひ勉強してほしい。
自分を壊してほしい。
創造的破壊をしてほしい。

「痛みを伴わない教訓には意義がない。
人は何かの犠牲なしに何も得ることなどできないのだから。

しかし、それを乗り越え、自分のものにしたとき、
人は何にも代えがたい鋼の心を手に入れるだろう」
by鋼の錬金術師

引用しすぎてごちゃごちゃしてきたw

まとめると、

創造的破壊をできる人間がコビー的人間だ。
コビーはルフィという海賊の師とガープという海軍の師の両方を持っている。
どちらからも学んでいるのがコビーなのだ。

 

信じたいものとは逆のことも虚心に学ぶのがコビー的人間だ。

たしかに、僕もバイアスがないわけではないし、それなりにバイアスはかかっている。
しかしながら、賛成と反対がわかれるような事案に関しては、
両方の意見を虚心に聞くようにしているし、
なるべく両方を統合できないだろうか?という視点を持つように心がけている。

 

皆さんも、新時代型のコビー的人間を目指してみてはどうだろうか?