昨日、「ティファニーで朝食を」を見てきた。
なので、その感想を書いておこうと思う。
恥ずかしながら、まだカポーティの原作を読むことができていない。
村上春樹が翻訳を手がけているし、村上春樹が翻訳しているということへの信頼感が僕としては大きくある。
映画を見て、より興味が湧いたので、そのうち読むことになるのだろうと思っている。
実際に映画を見てみた感想としては、
自由と不安と葛藤の描き方が印象的だった。
オードリーヘップバーンが演じるホリーは、いろんな自由を追い求めている。
恋愛の自由、
経済の自由、
生活の自由、
などなど。
そういった自由を追い求めるのだけれど、そこに付きまとう不安の描き方が、絶妙で、さすがは名作、という感じがした。
そして、自由を求めて、愛を失いかける。
自由っていうのは、どこか手放しで賞賛されがちだけれど、自由には不安がつきまとう。
個人主義や、自由という、リベラル化が進むと不安が生じるっていうのは、歴史的にも証明されている。
その不安を絶妙に表現しているのが夏目漱石だったりもするが、それについて書くのは骨が折れるから、またの機会に譲る。
オードリーヘップバーンのすごいのは、自由と不安の葛藤の表現力だと思った。
自由を満喫しているようで、なぜかネガティブな雰囲気を醸し出していたのがとても印象的だったのだ。
どんなに自由になっても、人間の精神は鍛えられない。
不安というのは精神的な問題だし、不安を解消するためにいくら外的に自由になったところで、その不安は内的なものなのだから、根本的な解決にはなり得ない。
自由の中に幸せはあるのだろうか?というカポーティからの問いかけのような気がした。
自由を求めるが故に自由に縛られる。
これを、「非執着の着(ひしゅうちゃくのちゃく)」と呼ぶ。
昔から仏教で説かれてきたことだ。
執着を捨て去ることを仏教の修行では追い求めるが、執着を捨て去ることに執着していたら本当の意味で執着を手放すことにはなっていない。
自由というのは、執着がなくなるということと似ているが、何か物質に頼って自由になろうとしても、非物質(精神)は自由にしてもらえない。
自由の本来性、
それを考える。
個人主義に突き進めば、自由になれるのか。
経済的自由を手に入れれば、自由になれるのか。
そもそも、自由を追求しても幸せはあるのだろうか。
それらの問いを抱いた。
誰かと関わると、それだけ縛りが増える。
深く関われば関わるほど、それは強くなるし、折り合いをつけていかないといけないことも増える。
でも、人と深く関わることを避けていたところで、幸せにはなれない。
人間というのは、そういうジレンマの中で生きているのだなと思う。
その葛藤の描き方が絶妙でした!
ということで、ティファニーで朝食を、オススメです。
最後まで読んでいただき、ありがとうございます。では!