森見登美彦 「夜は短し歩けよ乙女」を読んだ感想

久しぶりに森見登美彦の小説を読んだ。

 

 

森見さんの小説のすごいところは、情景がありありと思い浮かぶところだと思う。

本当に自分が京都にいて、京大生になっている状況を追体験することができる。

これは、僕だからという点もあると思う。男であり、受験生時代に京大を目指していたから、特に親和性が高いのかもしれない。

 

また、森見さんの小説は語彙が巧みだ。

僕が使ったことのない語彙がたくさん登場する。

 

数年前、太陽の塔という小説を読んだときには、

法界悋気(ほうかいりんき)という言葉を知った。

法界悋気というのは、他人を羨む気持ちを表している(はずだ)

確か、クリスマスの時に周りがわいわいしているところを横目に見て、

法界悋気っていう言葉が出てきていたと思う。

 

僕はそのせいで、毎年クリスマスになると、法界悋気という言葉を思い出すようになってしまったw

 

夜は短し歩けよ乙女にもいろんな知らない語彙が登場していて、

小説を楽しく読みながら、無意識に語彙力が身についてくれていたらな、と淡い期待を寄せている。

 

平成20年とかに文庫化されているような小説だから、

ネタバレもクソもあるまい。

 

ということで、ネタバレも含みながら感想を書いていこうと思う。

 

まず、森見登美彦の小説は大学2回生くらいで読むのが一番楽しめると思う。

僕自身は、今大学院1年だから、正直に言って、昔の方が楽しく読めた。

大学2回の時の感動や、大笑いに比べると、少し物足りない感じがしてしまった。

僕の感性が衰えている証拠である。

 

自意識過剰な面白い大学生を面白いと思えるだけの感性を持ち合わせているうちに読むべきだと、心底思った。

基本的に、アホな大学生しか出てこない。

一番アホなのは、パンツ総番長と呼ばれる男で、

意中の女性と再会するために、再会するまでパンツを履き替えないという荒行に挑んでいる男だ。

単にアホだ。

こいつマジでアホすぎるやろwって突っ込みながら読むのが面白い。

大学2回くらいであれば、自分の同期と思って突っ込めるから、なお面白い。

 

僕はやはり、書き出しの部分と、締めくくりの部分が好きだ。

“これは私のお話ではなく、彼女のお話である。”

 

書き出しが面白そうであれば、その本は面白い可能性が高い。

書き出しというのは、筆者の全神経が宿っていると僕は思う。

一冊の本を書くっていうのは、そんじょそこらのブログを書くのとは訳が違う。

その書き出しとなれば、なおのこと訳が違う。

だから書き出しが面白そうかどうか、それは一つの判断基準だと僕は思う。

 

締めくくりにおいて「先輩」は、外堀を永遠に埋め続けることをやめ、決定的な一歩を踏み出し始める。

本当に良かったね。そう思った。

 

自意識過剰な男にありがちな、臆病さを存分に発揮しているのが「先輩」なのだが、

物語の終盤でもなお、その臆病さを遺憾なく発揮している。

私はついに所存のほぞを固めて、喫茶「進々堂」を目指した。

言うまでもないが、こちらから誘った以上、ここで逃げ出すなど論外である。

 

森見登美彦,夜は短し歩けよ乙女,角川文庫

 

一応,逃げ出すことは頭に浮かんでしまっているところが,妙にリアルである。

 

一つ、自意識過剰な男が実践できるデートでの会話術が記載されている。

それが、何を喋るかを考えるのではなく、聞きたかったことを聞く、ということだ。

なんや、そんなことかい、って思ってしまうようなことだけれど、

意外と、自意識過剰になっていると盲点になってしまいがちなことなのだ。

 

自意識過剰ということは、自分に意識が向いているということ、

自分との対話であったり、世間から自分がどう見られるかということであったり、

そういうことばかりを気にしてしまう状態をさす。

 

その状態を抜け出すためには、自分ではなく、相手に意識を向けるということ、

その大切さを最後の最後で悟っているのが、面白い。成長したね。って言いたくなる。

 

そうか、この物語は「先輩」の成長物語でもあったのか、

と今更気づいた。

 

まあ、そんな感じで、自意識過剰な大学生が成長していく物語である。

興味があったら読んでみることをおすすめする。

最後まで読んでいただき、ありがとうございます!

では!

 

 

 

本当にありがたい人

もうすぐ、研究室の先輩が卒業してしまう。

僕にとって、この一年は、本当にありがたい一年だった。

 

特にありがたかったのは先輩の存在だった。

確かに同期の存在も先生の存在もありがたいものだったけれど、

先輩がいてくれて本当に良かったな、と思う。

 

先輩は、僕に足りない部分を指摘してくれた。

僕にはない観点、おろそかになりがちな観点、

それを忌憚なく指摘してくれる人だった。

 

はじめのころは、

自分にはない思考だったり、

自分には苦手な考え方だったりして、

受け入れがたい!

そんな考え方したくない!

そんなこと考えなくてもええやん!

って思っていたものだった。

 

でも今思えば、

自分にはない考え方を教えてくれる人、

自分に足りない部分を指摘してくれる人、

そういう人は、本当にありがたい存在なのだ。

 

耳の痛いことを言ってくれる人っていうのは、

一見すると厳しいけれど、

それだけ自分に愛を向けてくれているのだ。

 

そもそもそうやって耳の痛いことを人にいうのは、

めんどくさい。別に言わなくても、指摘しなくても、スルーしてしまえる。

なぜなら、他人だから。他人にいちいち口出しする必要はないから。

 

でもそれでも、あえて言ってくれる人っていうのは、

自分に愛を向けてくれている人だと僕は思うようになった。

 

今までもそうだった。

中学の剣道部の顧問だったり、

塾の先生、

厳しいけれど、愛の深い人に出会った最初のころは、

第一印象は最悪だった。

なんで、そんなに言われなければならないのだ!

理不尽だ!放っておいてくれ!

って反発したものだった。

 

けれど、やはり、後になってみれば、

そういう耳の痛いことを言ってくれる人っていうのが、

僕の人生にとって転機のきっかけを与えてくれていたり、

僕の成長を促してくれている人だったりする。

 

そりゃ、最初のころは、反発してしまうかもしれない。

そりゃ、渦中にいるときは、心中穏やかな状態を保っていられないかもしれない。

それでもいいのだ。

僕にはもうわかっている。

そういう耳の痛いことを言ってくれる人こそが、

僕にとって本当にありがたい人なのだと。

 

これからも、必要なタイミングで、そういう人が現れてくれるのかもしれない。

そんな人に出会ったのなら、僕は今よりも、その人との時間を大切に過ごしたい。

そんな風に思っている今日この頃。

にしても、卒業シーズンはさみしい。

情報を得ること、不安になること、博打を打つこと

最近、決断をするときに、どうするべきなのか、と考える。

例えば、新しいバイトを決める時、

いくつか選択肢があったとする。

そのとき、今であれば、

タウンワークや、

他のサイトで口コミとかも

見ることができると思う。

 

そうやって情報を得ることができる。

情報を得ることは大切なのだと思う。

情報を事前に知っているか、知らないかで、

後悔するか、しないで済むか、

それが変わってくるからだ。

 

僕はどちらかというと、

そういう情報を取るのが苦手だ。

情報がたくさんあって、

いろんな条件を知って、

それで比較して検討するのが苦手だ。

 

情報というのは、良い情報もあれば単にネガティブになるだけの情報もある。

だから、究極的には、

情報をいくら得ても、

プラスとマイナスを考えると、

そんなに変わらないのではないか、

と思ってしまう。

 

しかも、僕が知りたい情報は載っていないことも多い。

知りたい情報を得ることはできず、

それなのにネガティブな情報だけを得て、

決断がブレる。

そんな状況に陥ることがある。

 

ネットの情報というのは、バイアスがかかった生の情報ではない。

投稿者の主観を通したものにすぎない。

 

そういう情報であることを忘れてしまうこともあるし、無駄に不安になって、無駄にエネルギーを浪費することにもなりかねない。

 

最終的には、えいや!という賭けに出るような気持ちで情報ではないところ、

つまり、興味や、好奇心や、思い、というものを重視して、

博打を打つことも一興なのではないかと思う。

 

願わくば、後悔も少ない方がいい、

願わくば、自分の望む条件に当てはまることを。

しかし、わからないことに悩んでも仕方ない。

どうなるかは、神のみぞ知るところ。

神ながらたまちはえませ。

(結果は神様に全託いたします)

そうやって、わからない未来に突っ込んでいくのは、僕に合っている気がする。

 

「くどい!」を聞くためだけに見るドラマ

僕はドラマや、映画は何回も好きなものを見る。

最近何回も見ているのは、「僕の姉ちゃん」というドラマだ。

 

僕は、このドラマの6話目が好きだ。

ネタバレしまくるけれど、

 

※ネタバレ注意⚠️

 

6話目では、順平が真田さんからフラれる。

やんわりとフラれるのだった。

やんわりとフラれて、やんわり終わりそうな恋に諦めをつけられず、

2回フラれても、もう一回、メールを送ろうとするのだ。

 

もう一回、メール送るのくどい?

という問いに対する

姉ちはるの答えが、

 

くどい!(即答かつ語気強め)

 

このやりとりが好きで、

その部分を見るためだけに周回することもできるレベルなのだ。

「羊をめぐる冒険」を読んだ率直な感想

村上春樹の「羊をめぐる冒険」を読んだ。

今回は、その感想を書いておきたいと思う。

ネタバレを含むので、以下ネタバレ注意

 

率直に申し上げて、

よくわからなかった。

 

  • 羊とは何を意味するのか?
  • 羊をめぐる冒険は何だったのか?
  • 鼠はなぜ自殺しなければならなかったのか?
  • 羊博士が失ったのは何だったのか?
  • <僕>のガールフレンドはなぜ急に山から去ったのか?
  • 羊男は何だったのか?

 

あげればきりがないほど、よくわからなかった。

それでも、それなりに考えることはできる。

わからなかったことは、そのままにしておけばいい。

わかったことから何か考えること、何か受け取ることが、小説を読む意義だ。

 

鼠が戦っていたものたち

鼠は、権力機構に抗って死んでいった。

鼠が戦っていた権力機構は、現代に存在する何か、を象徴しているような気がする。

権力機構とか言うと、それなりに陰謀チックな響きを伴ってしまうが、それは仕方のないことだ。

羊は影のようなものなのだと思う。

影のように、光の当たるところに付きまとってくるもの。

影の中から、光の当たる人を誘惑するもの。

そんなものなのだと僕は思った。

 

権力やシステムというのは、影の一つの形なのだと思う。

羊という影は、さまざまなものの抽象的な比喩なのだろう。

一つの形として現象化したものが、権力機構というわけだ。

 

鼠は、その権力機構に、飲み込まれそうになった。

その権力機構から逃れるために、自殺という強硬策に出るしかなくなった。

そう考えるほかない。そして、その権力機構を永遠に葬り去るために、

<僕>の力を借りざるを得なかった。

 

条件付きの自由意志に気づく<僕>

しかし、複雑なのは、鼠を探すために、

<僕>は権力機構に操られることになったという点だ。

権力機構の黒い服の男に、まとまった金を与えられ、

条件付きの自由意志に基づいて、鼠を探すように仕向けられた。

 

最終的には、条件付きである自由意志に<僕>自身が気づくことになり、

その条件付きである現実から、離れることになった。

 

人間にとって、自分の意志が本当に自由意志なのかどうか、

という問題はいつも付きまとう。

広告ビジネスは、現代では盛んにおこなわれているし、

広告ビジネスが多くなればなるほど、

人間の自由意志は条件付きのものに成り下がってしまうような気がする。

 

羊をめぐる冒険によると、その権力機構に思想的な背景はないらしい。

陰謀論でいうところの、戦争ビジネス的な、

金を儲けることのみを考えている組織のようなものなのだと思う。

権力機構は、世の中の人々を操りたがる。それが一番、儲かるからだ。

自由意志に見せかけた条件付きの自由意志に基づいて人間を行動させようとする。

それは、今のyoutubeの広告や、SNSでもそうだし、

ひと昔前のテレビ広告でもそうだった。

 

「羊をめぐる冒険」から受け取ることのできたメッセージ

「羊をめぐる冒険」の中から受け取れたメッセージとしては、

自由意志に見せかけられた条件付きの自由意志に気づくことの難しさ、

そして、その操られた自由意志に気づくことの大切さである。

月並みな表現になってしまうが、

僕たちが自由に選んでいると信じているものが、

本当は、何らかの権力機構の情報操作によるものなのかもしれない、

と疑ってみること、その疑問を持つことは、

現代を生きる中でも重要なことだと僕は思う。

 

うまくまとまらないが、取り急ぎそんな感じ。

またゆっくり考察することは今度やってみようと思う。

 

最後まで読んでいただき、ありがとうございます!

では!

 

 

祈りと感謝は似ている

僕はよく神社に行く。

神社に行ったら、祈る。

 

今日、ふと思ったのは、

祈りと感謝は似ている。っていうこと

 

昨日、緊張するときは、自分以外のことに気を向けて、

感謝すると意外と自意識から解放されて、緊張しすぎないでいられる。

 

っていうことを書いた。

 

感謝するっていうのは、ありがたいなと思うということだ。

ありがたい、と思うことは祈りの気持ちに似ている。

祈りっていうのは、人や神様に向けるものだ。

感謝も、人や神様に向けるものだ。

 

日本の神様は、ご縁結びの神様だと言われる。

ご縁っていうのは自分で結べるものではないし、

かなり偶然性に頼っているところがある。

偶然をつかさどるのが神様なのだとしたら、

ご縁を結んでくれる偶然性、

運の良さを授けてくれるのが神様なのだろう。

 

自分だけの力で生きられているわけではないのだな、

という悟り、

大いなる存在の働きによって与えてもらっているのだな、

という気づき、

こういうのは感謝の根源的な悟りだと思う。

 

祈り、とかいうと、いかにもスピリチュアルで、

胡散臭い感じがしてしまうものだけれど、

感謝、というと、べつに胡散臭い感じがしない。

 

そりゃ人間、無力だし、自分だけで生きられるほど強くない。

だから、懸命に生きれば生きるほど、

周りに助けられていることに気づかされる。

周りに助けられている、周りに支えられている、

そういう気づきっていうのは、

人生を豊かにしてくれるものだと僕は思う。

 

周りに助けられているっていうことは、

その周りの人に出会わせてくれた大いなる存在がいて、

その偶然を生み出してくれた存在がいるかもしれない。

そういう存在がいるのだとしたら、感謝せずにはいられない。

僕はいろんな偶然に助けられて、今楽しく生きられている。

 

良き出会いに恵まれて、今楽しく生きられている。

多少、苦しいこともあるし、つらいこともあるけれど、

それも乗り越えていけると思えるほど、周りに支えられている。

もっというと、神様に支えてもらっている。

 

僕はだから、神様に感謝しているし、

自然と祈りのような気持ちが湧いてくる。

 

祈りは自由だ。

こうしなければならない!

みたいなものは存在しない。

感謝は祈りの一つの形体なのだと思う。

現実主義的な時代である今だからこそ、

感謝という形の祈りだけは忘れずに生きていきたいものですね。

 

最後まで、読んでいただき、ありがとうございます。

では!

緊張するときの対処法

最近、緊張してしまうような場面に多く出くわす。

緊張しやすい僕が、緊張してしまうときに、緊張しすぎないようにできているときに考えていたことを今回は書いておく。

 

緊張するときってどういうときか?

緊張するときは、基本的に自分のことで精一杯のときだ。

自分のことしか考えることができない。

 

もし失敗したらどうしよう、

失敗して皆んなに醜態を晒すのが怖い、

皆んなから見られているのが怖い、

などなど、

 

緊張しすぎているときっていうのは、

大抵、自分のことばかりに気が向いている。

 

自分のことばかりに気が向いるときに緊張するのならば、

緊張しないためには、自分以外のことに気を向けることだ。

 

もっと言えば、他人の幸せを祈ればいい。というか、僕は他人の幸せを祈ることで、緊張しすぎないでいられる。

ただし、自分が緊張しないために、他人の幸せを祈っても意味がない。なぜなら、それは自分に気を向けているだけだからだ。

 

ただ、純粋に、本気で、他人の幸せを祈るのだ。

それがシンプルでかつ、根本的に緊張しすぎないために必要なことだ。

 

僕は、自意識が強いタイプだ。

昔から緊張しいで、昔から自分に意識が向いてしまうことが多かった。

でも、たまに、本当に自然に人前でも緊張せず、実力を発揮できることがあった。

幼稚園児だったころのこと。

 

幼稚園児のころの学芸会か何かだったと思う。当時のビデオを見たことがあるのだが、周りの子たちが失敗してしまいそうなときに、僕が助けてあげていた。

単純なカスタネットか何かの演奏だったと思うが、周りの子たちが演奏するべきタイミングも僕が教えてあげたりしていた。

思えば、あのときは緊張など気にもとめず、ただ純粋に周りの子たちのことを考えていたのだろう。

幼かったこともあり、まだ自意識も小さかったからかもしれないが、あの体験は僕にとって意味のある体験だったのだと今では思う。

案外、幼少期の成功体験っていうのは、今にも通じるものがある。

 

僕は緊張しやすいが、

本気で、純粋に周りの人のことを祈り、周りの人の幸せを考えている時、緊張しすぎず、ナチュラルに行動できている気がする。

 

ということで、緊張しすぎないためには、自分以外のことに気を向けること、他人の幸せを祈ると良いと思う。

 

祈るとか、よくわからん!

という人は、とにかく今生きられていることに感謝するだけでもいいと思う。

 

今生きられているということは、必ず誰かの支えがあり、お世話になった人がいて、今日、飯を食えるのは、いろんな人が働き、汗を流してくれているからで、

 

たとえお金で買っているだけなのだとしても、お金の裏で動いてくれている人のことを思えば、感謝の念を持つことはできるはずだ。

 

こういう感じで、自分以外のことに気を向けることが、意外と自意識から解放してくれる。

そして自意識から解放されると、緊張も和らぐものなのだ。

 

最後まで読んで頂き、ありがとうございます。

では。