剣道をスポーツとして扱うことに対して大反対な理由

こんにちは。

おざきです。

今回は、剣道とスポーツの違いについて書いていきたいと思います。

近年の傾向として、日本固有の武道をスポーツとして扱うような風潮がありますよね。

結論からいえば、剣道はスポーツではありません。

よってスポーツとして扱うことは決してあってはならないことです。

 

ここからは、その理由について書いてみようと思います。

根本的には一つしか理由はなくて、

それは、

剣道は道だから

です。

 

道というのは、以前にも書きましたが、理念が大事です。

剣道でいえば、剣道の理念は、「剣の理法の修練による人間形成」です。

 

理念というのは目標と言うより、目的です。

 

目的がそもそも勝ち負けでもなければ、楽しむことでもない。

たしかに、楽しむ剣道もたまにはあってもいいし、勝ち負けを通じて学ぶことも必要ではあります。

しかし、それはおまけであり

本筋は、人間形成です。

 

木の幹がしっかりしているからこそ枝葉が生まれるように、

剣道の幹である理念を大切にするからこそ、楽しむ場面があったりしてもよいのです。

 

一方スポーツには理念がありません。

商業的にも使われるし、プロと呼ばれる人たちはスポーツでお金を儲けている人たちなわけです。

 

理念があるから剣道の方が崇高で気高いのである!っていうことではなくて、

そもそも性質が全く異なるものを一緒に扱うのは違うよね。っていうことです。

 

剣道のルールは曖昧だといろんな人がネットに書いていたりするのを見たりしたのですが、

剣道は曖昧だから良いんです。

剣道の理念をもう一度書いておくと、剣の理法の修練による人間形成です。

 

ルールが明確でないことは、これに由来していると個人的に思っています。

なぜなら、ルールが明確ではなく、一本の基準が曖昧、審判も人間という曖昧な存在であるからこそ、慢心しないのです。

 

それは試合となれば、審判の旗の軽さも多少は違いますし、一本にする基準も少し違ったりもします。

ちゃんとした審判がいる試合、学生審判の試合、いろいろあります。

一本の基準が違うことは、昨今の合理主義のアホな考え方では、一見良くないことに思えるでしょう。

しかしながら、一本の基準が違っても、誰が見ても一本になるような一本は必ず存在しています。美しさを追い求めるのが道ですから。最高に美しい一本は絶対にあります。

そこを目指しているからこそ、多少一本の基準が曖昧でも、慢心しないのです。

 

剣道でよく使うのが、勝って反省負けて感謝です。

 

「勝って兜の緒を締めよ」とはまさにこのことです。

勝っても負けても向上心を持ち続ける。それが剣道としてのあり方であり、そこには合理主義を超えた合理性があるのです。

 

曖昧だからこそ、たまには理不尽とも思える負け方もあるでしょう。

しかし、偶然は神なり。それが神道の考え方です。

理不尽なことにメッセージ性を受け取って、それすらも自分の成長につなげていく。

それが剣道の理念の人間形成につながっていきます。

 

そもそも、日本という国は火山国であり、地震国であり、自然災害の大変多い国です。

自然災害というのはまさに理不尽じゃないですか。大切な人がたった一回の大地震で死んでしまうなんて本当に理不尽以外のなにものでもない。

こういう理不尽なことに相対することが多い日本人だからこそ、剣道みたいな曖昧な文化ができあがったのかもしれないとも思っています。

 

日本で生き抜くためには、理不尽すらも受け入れて、前進していく胆力が必要です。

そのために人間的な成長、人格形成、人間形成が必要だから、剣道の理念ができあがったのではないでしょうか。

そんな崇高で今まで続いてきたものを、現代で書き換えてしまっていいとは到底思えない。

 

 

その理念を壊してまで、お金目的でスポーツとして扱い、商業的な活動をしていくのは甚だおかしいと思いますし、断固として反対です。

 

剣道をちゃんとやったことのない人はこういう問題については本来意見を言うべきではないですから、剣道家以外の意見は全く無価値です。

 

変えてはいけないものがこの世界にはあるのです。

 

最後まで読んでいただき、ありがとうございます。

 

あくまで個人的に思っていることも含んでいますから、ほかに意見があるのも別にいいですし、僕にはあなたの意見は興味がないです。100%僕が正しいので、別に大丈夫です。

 

では。