もっとひどいことにもなりえたのだ

最近、村上春樹の「ねじまき鳥クロニクル」を読了した。

なので、その感想について書いていこうと思う。

 

まず、僕がこの物語から受け取ったのは、

もっとひどいことになりえたのだ。

ということ。

 

ねじまき鳥クロニクルの登場人物に、

本田さんと間宮中尉という人物が登場する。

この二人の登場人物は、戦争の経験者で、

満州国とモンゴルの国境の地形を正確に把握するための部隊に所属していた。

そのときに、間宮中尉は、モンゴル人やロシア人に井戸に落とされる。

間宮中尉は本来そこで死んでしまうはずだったのだけれど、

本田さんの直観というか、霊感というかに助けられて、

井戸から抜け出すことになる。

 

間宮中尉の上司にあたる人物、名前は忘れてしまった。

その人物は皮剥ぎボリスというあだ名のロシア人に、

全身の皮をはぎ取られ、赤黒い肉の塊となって死ぬ。

 

考えてみれば、

僕らの親の親世代は、普通にそういう時代を生きてきた人たちで、

今よりも、もっとひどいことが起きていた時代を生きていたわけだ。

 

僕たちの世代は、自己肯定感が低いとか、自殺が多いとか、

そういうひどい時代を生きてはいるけれど、

戦争の時代を生きていた人たちよりは、

ましな生活を送っているのではないかと思ったりする。

 

たぶんいつの時代にも、問題点はあって、

いくら縄文が豊かな時代だったと歴史学者に言われても、

たぶん食料の問題とか、集落におけるいさかいや、

獣からの脅威、疫病の影響、

そういう問題点は今よりもひどいものだったのではないだろうか。

 

江戸が良いという歴史学者もいるけれど、

江戸にも江戸なりのよくないところはあったのだと思うし、

今の時代には今の時代なりのよくないところはあるのだと思う。

 

でも、戦争の時代に、戦場に駆り出された人たちに比べれば、

僕たちはいくぶんましな生活を送っている。

要するに、僕たちはもっとひどい時代に生まれていた可能性があったのだ。

今の時代にいくら良くないところがあって、

悲惨な時代だと認識していたとしても、

もっとひどいことにだってなり得たのだ。

 

現状は最高の状態ではないけれど、

最悪の状態でもない。

ねじまき鳥クロニクルという物語の結末だって、

最高の結末ではないけれど、

最悪の結末ではない。

 

にしても、小説というのはすごいなと思う。

僕は戦争を経験していないのだ。

戦争を経験していないのに、

その悲惨さを、疑似的に体感することができた。

自分が人生を通じて体験しえないことでも、

疑似的にではあるものの、

想像力を目いっぱい活用すれば、

それに近い感覚を体感することができる。

 

ねじまき鳥クロニクルは、正直に言って、難しい。

村上春樹の長編がわかりやすいものだったことは、

今まで一度もないのだけれど、それでも難しい。

特に第三部。

第一部、第二部まではまだわかりやすいし、

「この流れで第三部ではクミコが戻ってきてハッピーエンドなのかな」

と思って読んでみると、痛い目を見る。僕は痛い目を見た。

 

途中は投げ出したくなるくらい冗長に思える部分もあった。

でもなんとか読み通すことができて、非常に良かったと思っている。

 

ということで、難しいですが、おすすめです。