久しぶりに、見たくもなかったけれど、
「聲の形」を見た。
見なくもなかったというのは、
泣くのはわかっているし、
胸が痛くなるのもわかっていたからだ。
でも、たまには、見たくもない映画、
感じたくもない痛みを感じるのも、
悪くはない、と思ったから見た。
号泣した。
まあ、これは普通に予想できたことだった。
「聲の形」の映画の中で、
一つテーマがあるとしたら、
「罪悪感」だと思う。
人間、生きていたら、人を傷つけてしまったりするものだ。
この映画の主人公の石田も、西宮も、
だいたいの登場人物たちが、抱えているもの、
それが、「罪悪感」。
この「罪悪感」とどう向き合うのか、
ということが、この映画の中のメインメッセージだと僕は思っている。
いうならば、罪悪感の鎮魂。
それがテーマになっていると思う。
この映画の中では、
石田の罪悪感が鎮魂されたとき、
人の顔についていた×が、
剥がれ落ちていく。
なんで×が剥がれ落ちるという描写だったのか。
罪と罰、という意味合いだったのかもしれない。
石田は、小学生のときに、西宮をいじめてしまい、
その結果として、親に迷惑をかけてしまったり、
逆に自分がいじめの対象になってしまったりする。
そういう幼少期に植え付けられてしまった罪の意識、
そして、それに対する罰が与えられるのではないか、
という恐怖心、
それが人の顔につけられた×印。
でも、これは、現実にも厳として存在することだと思う。
誰しも、生きていたら、何か人を傷つけることはあるし、
そこに対して、罪の意識をもってしまうことはあるはずだ。
僕自身にも、罪の意識はあるかもしれない。
小学生や中学生のときは、ひどい奴だったと思う。
自分の好き嫌いで、人を裁いてしまうことが多かったと思う。
つまり、嫌いな人を無視したり、
あからさまに嫌いだという雰囲気を醸し出したり、
そういうことをしてしまっていた。
今はそんなことをしないと思うけれど、
当時は当たり前に、そんなことで人を傷つけてしまっていたと思う。
この映画がしんどいと感じるのは、
そういう記憶を呼び起こすからだと思う。
僕にとって、それを思い出すのはしんどいことだし、
できれば、そんなことを思い出したくはない。
それで、
どうしたら罪の意識を鎮魂できるのか?
この映画みたいに、
傷つけてしまった人の命を救うことで、
自分も救われる、みたいなことは、
なんとなく現実的ではない。
ちゃんと謝ることができるのなら、
それも、一つの解決策にはなるのだろうけれど、
現実的に、それがかなわないこともあるだろう。
じゃあ、いったいどうしたら、
現実の世界で、罪の意識を鎮魂できるのだろう?
もっと簡単に言えば、自分のことを許せるようになるのだろう?
これは、難しい問だから、
現時点で完璧な答えを僕自身が持てているわけではない。
ただ、現時点で感じていることは、
その自分の罪すらも、学びに変えて、相手が変わるきっかけになっているかもしれない。と思うこと。
誰かを傷つけてしまったことは、もう取り返しはつかないし、
時間の流れは不可逆。
起こってしまった出来事を悔やんだところで、それは後の祭り。
起こってしまったことは水に流して、生きていくしかない。
それでも、一つの福音があるとすれば、
傷ついた経験があったからこそ、成長できた、
という解釈の反転が、相手に生じているかもしれないということだ。
生きていれば、誰かを傷つけてしまったりすることはある。
なるべく、それは避けたいことだけれど、
それは全くのゼロというわけにはいかないだろう。
傷つけてしまったことを悔いても仕方がないし、
本当に悪いことをしてしまったと思うのなら謝ればいい。
謝ることもできないなら、相手の幸せを祈ればいい。
相手が、傷ついたことも自らの糧に変えて、
強く生きてくれることを祈ればいい。
今の僕から提示できる、罪悪感の鎮魂法は、
こんなところだ。
にしても、「聲の形」を見た後に、鏡で自分の顔を見たら、
すさまじく目が腫れていて、ぞっとした笑
ということで、罪悪感を持ってしまうのなら、
その罪悪感の大きさの分、より相手の幸せを祈るしかない。
という感じです。
最後まで読んでいただき、ありがとうございます。
では。