最近、宮澤賢治の銀河鉄道の夜を読み返していた。
数年前に読んだときは、まったくわかっていなかったな。
っていう感想を抱いた。
宮澤賢治の言葉の奥にあるものを感じることができていなかった。
宮澤賢治の言葉の奥には深い祈り、静かな熱き祈りがある。
これは「雨にも負けず」の詩にも表れている。
そういう魂の声とも呼ぶべき、
声なき声を言葉の奥に感じることができていなかったなと、
心底思わされた。
僕は、どちらかというと感受性の強い方だと思うし、
人の言葉に傷ついてしまったりすることもある。
でも、僕は宮澤賢治の言葉を読んでいて、思った。
生き様が乗っかっていない言葉に耳を傾ける必要はないのだと。
生き様の乗っかっていない軽い言葉に、
いちいち傷ついてしまったり、
何かしり込みしてしまうきっかけにしてしまったりすることがあった。
でも、宮澤賢治ほど生き様を乗せて言葉を発している人は、この世にはほぼいない。
そんな人物は、ほぼ存在しない。
宮澤賢治くらい生き様を乗せて言葉を発しているのなら、一聴の価値はある。
けれど、ただの嫉妬心や諦観から発される言葉の方が多い。
そんなもの聞く価値がない。
そもそも、現代人は、生き様ということ自体を考えることがない。
だから、現代人が何を言っても、言葉に生き様が乗っかることはない。
ここで言う生き様とは、熱き祈りのことだ。
生き様に対しての深い洞察がない人物の発する言葉の軽いこと。
そんな軽い言葉にいちいち傷ついたり、
何かをあきらめるきっかけにする価値はない。
そんなことを宮澤賢治の物語や詩から感じた。
僕は宮澤賢治のように、静謐なのにその奥に感じる熱さみたいなものを、
言葉に乗せることはできていない。
それは生き様が伴っていないからだ。
生き様の乗っかった言葉を発せられる人間になりたい。
熱き祈りの乗っかった言葉を発せられる人間でありたい。
そう思う。