内的なものと外的なものの話

最近、内的な自己、外的自己について考えることがある。

内的自己っていうのは、自分の内側にある自己、本来の自己

外的自己っていうのは、社会に接するときにあらわれる外的な自己

 

誰しも、自分の欲求をすべて表現するわけじゃない。

誰しも、社会からの圧力に応答しながら、外的な自己をまとって生きている。

 

そういう話。

 

僕にとっての内的自己と外的自己について考える。

僕は大学時代は、内的自己を充実させる時代だったと思っている。

大学院の今は、その充実させた内的自己を基にした外的自己を形成している。

 

大学時代は、かなり孤独な時間が長かったので、いやでも内的なものを向き合う時間が長かった。というか、社会全体が内側に閉じこもるような時期だったから、社会全体としても内的なものを向き合わざるを得なかったのかもしれない。

 

僕はその内的なものと向き合う時期を、村上春樹の小説と一緒にいた。もしくは内的なものと向き合う時期を、神社で過ごした。

僕にとっては、その時期があってよかったなと、今になって思う。その時期は苦しいことのほうが多かったと思うし、死にたさみたいなものを抱えて生きていた。(今も抱えているけれど、今はいくぶん楽)

 

僕にとっての本来性は、自分がいいなと思ったものをみんなに伝えたり、感動をするような体験を積み重ねること。

僕はそのために生きている。

 

内的な自己がそんな感じで、僕にはあこがれの人がいる。

あこがれの人たちがいる。

その人たちがいる場所に住みたい。

これが内的な欲求で、そのために僕は就活している。

受験生のころから、それは願い続けてきたことで、僕はそのために就活という外的なものを利用する。

 

就活というシステム、社会からの圧力、

それを利用して、自分の力でそれを成し遂げたい。

僕の内的ものはそれを求めている。

 

だから、内的なところでは、僕は何をしていようがどうでもいいし、年収が低かろうとどうでもいい。

外的なところで、自分に適したこと、やりやすいことを探している。

 

以前、僕は、自分が幼くなっているような気がするみたいなことを書いた。

昔はやりたくないことを嫌々でもやれていたのに、やれなくなったみたいなことを書いた。

これは、たぶん、内的な自己が大きくなったことに由来しているような気がする。

 

今はある程度嫌々でもできる。

でも昔に戻ったわけではない。

一回できなくなって、内的な自己が充実されて、

外的なものを支えることができるようになった。

 

かなり地盤が固まったんだと僕は思っている。

たぶん二年前の自分なら、就活できていなかっただろう。

今はできる。

内的なものに支えられた外的自己、これが大事なんだと思う。