「おりる」思想(集英社新書)を読んだ感想

「おりる」思想という本を読んだので、その感想を書いていこうと思う。

 

 

この本は第一部と第二部に分かれていて、

第一部では、「おりる」というアイデア

第二部では、朝井リョウの作品を基にした「おりられなさ」

について書かれている。

 

第一部と第二部では、抱く感想が違ったりもした。

僕は朝井リョウの作品には親しんできたつもりだ。

とはいいつつ、

ちゃんとすべて読み通せたのは4作品で、

100ページくらい読んで飽きてしまったものもある。

 

僕が感銘を受けたのは、「どうしても生きてる」という短編集で、

これを読んでから、朝井リョウにドはまりした。

それから「死にがいを求めて生きているの」もすごく面白かったし、

「スター」も好きな作品だ。

 

朝井リョウと言えば、「何者」のイメージが強い。

僕は「何者」は映画だけ見たことがある。

けれども僕は基本的に、

映画で内容を知ってしまった小説は読む気にならない

という性分を抱えているので、

「何者」は積読されたまま放置されている。

 

それで、『「おりる」思想』の中でも朝井リョウの作品について言及されているのだが、

その批評?が面白かった。

ぼくが初めて朝井の小説を読んだころに感じたのは、これほどしらけた様子の登場人物たちの中に、じつは「好き」という直球の前向きさが封じ込まれている、ということへの意外さと、自分の中にそうした要素があるのなら、それに沿って好きなように生きればいいのに、という素朴な疑問、さらに、そう思いつつも朝井作品の登場人物らが自分にとっての「好き」と距離を取ってしまうことへの妙な納得感だった。

「おりる」思想, 飯田朔, 集英社新書, 230頁

僕も同じような感想を抱いたことがあった。

なんというか、しらけているのに、しらけきれないっていう感じ。

「おりられなさ」と書かれているけれど、まさにそんな感じで、

日本の社会は生きづらいし、苦しいし、しんどい。

 

でも日本の社会を変えるようなことは難しいし、そういうマクロはあきらめている。

自分の人生についても、正直あきらめそうになっている。

でも自分の人生については、あきらめきれない。

そういう葛藤が朝井リョウの作品の中では描かれているように思う。

 

朝井リョウの作品の中で描かれているのは、

人間の上下意識だと僕は思う。

誰かが上で、誰かが下という考え方だ。

 

例えば、お金持ちは偉くて、貧乏人はさげすまれるべき対象だという価値観。

特別な才能を持っている人、または注目を浴びている人が偉くて、

そうではない人は偉くない、もしくは下である。という価値観。

こういう価値観を総じて上下意識と呼ぶ。

 

ピラミッド型の思考でもある。

昭和の日本っていうのは、この上下意識を利用して、

戦後の復興を遂げたわけだ。

要するに、戦争に負けて、一番下まで落ち切った日本は、

ピラミッドの上のほうに理想を求めて経済的に発展することを求めたのだった。

 

でも平成になり、経済的には復興して、世界的にも裕福な時代になっても、

社会的な問題は全く解決しなかった。

解決しなかったというより、新しい問題が次々と噴出してくる世の中になった。

 

そしたら平成になってからは、

経済的にいくら発展しても世の中はよくならないという時代に突入した。

でも、日本人は何を使って戦後になりあがったのかと言えば、

上下意識なわけで、

その意識を利用してきたからこそ、

いまだにその上下意識の呪縛から逃れられないでいるのである。

 

たしかに経済的に発展して、物質的にすごく豊かになった。

コンビニは便利だし、アマゾンも便利だ。

スマホも今やなくてはならないものになったし、

誰でも素晴らしいテクノロジーを手に入れられるようになった。

けれども、政治はいつまでたっても腐敗し続けているし、

日本の政治が良くなったと思っている人はたぶんほとんどいない。

 

僕にとって大切なのは、

上下意識から「おりる」ことである。

誰かより上でありたいとか、誰かに勝っている状態でなければ気が済まないとか、

そういう意識から「おりる」ことが大事だと思っている。

 

別に自分が特別であることを証明しなくてもいい、

別に誰かと比較して優れていなくてもいい、

そうやって他人との比較や上下意識からいかに脱するか、

これは人生を通じて向き合っていくべき課題だと認識している。

 

僕は自分でいうのもなんだが、学歴の上ではピラミッドの上のほうにいる。

だから、たまーに上下意識に飲み込まれていると、

学歴のない人を下に見てしまっている自分がいたりする。

僕にだって上下意識はある。

それに飲み込まれているとき、

つまりハッキングされているときもある。

けれども、ハッキングされてしまっているな、と気づくこと。

 

これが大事なのだ。

ハッキングされている状態から抜け出すには、

ハッキングされているということを自覚すること、

ハッキングされているかもしれないと疑いを持つこと。

これしかない。

 

集合的無意識からのハッキングというのは、

いとも簡単に起きる。

それは映画「マトリックス」で描かれている通りだ。

この本の中で言われているのは、

「生き残る」のではなく、「生き直す」ということだ。

言い換えれば、今までの生き方の基準(上下意識)を「手放す」ということだ。

 

生きづらさ、というのは思い込みによって生まれる。

こうしなければならない、ああするべきだ、

というhave toの考え方。脅しのような感じ。

 

よく言われたであろう、

「学歴がないと大変」だとか、

「結婚しないと大変」だとか、

そういう脅し文句だ。

実際の人をよく観察してみれば、○○しないと大変、

と言っている本人のほうが大変そうである。

結婚を進めている本人が結婚に満足していないだろうし、

学歴を得ることを推奨する本人が学歴にコンプレックスを抱えていたりする。

 

ちなみに、本当に大変な目にあって乗り越えている人が、

〇〇しないと大変だ!いうことには真実味があるのだろうが、

本当に苦労して乗り越えている人は、

あまり人に押しつけがましく価値観を述べたりすることはないのだ。

 

学歴があっても大変だし、結婚しても大変なことはある、

それが真実なのだ。生きている限り、大変なこと、悩みは尽きない。

過剰に社会から、周りから押し付けられている価値観から、

一度脱却することが大事だ。つまり「おりる」こと。

 

一回、おりてみたけれど、やっぱり結婚したいから結婚する。

それはご自由にどうぞ。だし、

一回、おりてみたけれど、やっぱりお金をたくさん稼いで出世したい。

それもご自由にどうぞ。がんばれ!って感じだ。

 

一回、脱却してみて、自分という本質、

内面に軸足を持ってくるのが大事だと、本書にも書いてある。

では、内面に軸足を持ってくるということはどういうことなのだろうか?

本書では「自分が苦痛に思うことはやらない」と書かれている。

 

たしかに、苦痛に思うことをやらないことは、「おりる」ことにつながるだろう。

でも、自分が苦痛に思うことをやらずに生きていくことは本当にできるのだろうか?

苦痛に思うことをやらないで生きることは僕はできないだろうと思っている。

かならず、社会との摩擦の中で人間は生きていくことになる。

そこに生きづらさを感じながらでも生きる必要はあるのだ。

生きづらさを生み出すものは何なのか?

 

それはさっきの上下意識でもあるのだが、

これについては、内的自己と外的自己について語る必要がある。

人間には内的自己と外的自己がある。

簡単にイメージしてもらいたいのは、外面と内面だ。

 

人間が社会的に生きていくために、

後天的に身に着けるのが外的自己。よそいきの自分である。

そして、外的自己という鎧の内側に存在するのが内的自己だ。

家をイメージしてもいい。

内的自己が家の基礎の部分。外的自己が外に見えている家の部分。

人間は誰しも、この内的自己と外的自己がある。

 

「おりる」というのは、

内的自己に立ち返るということでもあると思う。

「おりる」必要があるということは、

内的自己(家の基礎)が脆弱であるということでもある。

メンタルが強い人は、どういう人かというと、内的自己が充実している人である。

内的自己が充実していて、

社会の荒波(集合的無意識、上下意識からのハッキング)を受けても、

微動だにしない強い基礎を持っていれば、

簡単には「おりる」という発想に至らない。

 

社会の中で生きるときに、なんで「おりる」という発想になるのかと言えば、

世の中から押し付けられる外的自己(競争意識、上下意識など)

に内的自己が押しつぶされてしまうからだ。

肥大化している外的自己に耐えうるだけの内的自己の充実が図れていないと、

「おりる」必要性が出てくる。

 

精神的に強くなるために必要なことは、内的自己を充実させることだ。

内的自己を充実させていれば、常に内面に軸足を置きながら、

外的自己をうまく利用して社会と折り合いをつけて生きていくことができる。

要するに、強い精神性を身に着けていれば、

競争社会の中でもその精神性を大切にしながら、

競争に身を投じることも可能であるということだ。

 

内的自己と外的自己を描いている小説が、

トルストイの「光あるうち光の中を歩め」であるから、

読んでみると良い。

 

内的自己を充実させて精神的に強くなるためには?

こんなブログに書き示せるほど、僕はまだまだ精神的に強くなれていないw

 

どんな結論やねん!とツッコミが飛んできそうで仕方がない。

 

 

でも、そんな簡単に精神的に強くなれるわけはないよね。

簡単に内的自己が充実するなら苦労はないわけで、

毎日挑戦していくほかないのだと思います。

とりあえず、目の前にいる人との関係性を深めていくこと、

感動するような体験を積み重ねていくこと、

それがヒントになっていると僕は思っています。

感動したいなら、ブルージャイアントを爆音で見ればいい。

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  • 山田裕貴
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