最近、エネルギーがなかった。
周りの人にも「元気ない」とか、「エネルギーないね」とか、言われて、
かなり深刻なほどエネルギーがなかったと思う。
エネルギーないときって、
たしかにエネルギーない自覚はあるのだけれど、
エネルギーが戻ってきたときに、
やっとエネルギーなかったな、と気づく。
なんで、エネルギーないときに、
自分にはエネルギーがないと気づけないのだろう。
自分にエネルギーがある状態でないと、
自分の状態にすら気配りできないということなのだろうか。
エネルギーがないときって、著しくパフォーマンスが下がるし、
明らかにリアクションが悪くなっている。
周りに心配されるっていうのは、
周りの人の気をひいているということになるし、
ひいては、周りの人からエネルギーを奪っている。
例えば、恋人との関係性で、エネルギーが自分にない状態になっているとする。
そういうときに、周りに心配をかけているとしたら、
それは、もはや自分だけの問題ではない。
周りの人からエネルギーを奪って、
その恋人にそのエネルギーを与えてしまっているのだとしたら、
それは周りの人にとっても迷惑な話だ。
自分と恋人との関係性だけが大切なのではないし、
周りの人ともいい関係性を築いていくことは言うまでもなく大切なことだ。
自分と恋人との関係だけを優先させるのは、
そういう意味でもやってはいけないことだ。
たしかに、恋人との関係性も大切だし、恋人を優先する気持ちもわかるし、
そうなりがちなのもわかる。
けれども、それではだめだ。
人を大切にするっていうのは、
自分と相手だけではなく、その相手の背景にいる人も大切にしてこそだ。
関係性を大切にするというのは、
相手が元気でいることができ、
周りに良い影響を与えられる状態でいられるようにするということだ。
恋人との関係で、元気がなくなり、
周りの人に心配をかけるような付き合い方をしていては元も子もない。
お互いがお互いを大切にするというのはエネルギーを循環させるということ。
エネルギーを循環させることができるなら、相手から奪わないし、相手に与えても枯渇しない。
どうすればエネルギーを循環させることができるのか、
それはお互いが我慢しないことはもちろん、
お互いがエネルギーの高い状態でいるということだ。
だいたいの場合、どちらかが我慢しすぎている状態になるし、
我慢を強いるのと、我慢を強いられる関係性になりがちだ。
それがエネルギーの奪い合いの関係性。
エネルギーの奪い合いをやっている場合じゃない。
自分が幸せでないと誰かに幸せを与えることなんてできない。
でも自分が幸せであるためには、周りの人が幸せであってほしい。
そういうパラドックスが幸せにはある。
自己犠牲的なやり方で、相手を幸せにしようとしても、
それは自分のエゴだし、頑張っているのは幸せじゃない。
相手を幸せにしようとして、何かをしてもたぶん相手は幸せにはならないだろう。
そういう作為的なことじゃなくて、もっと不確実でもっと柔らかいところにしか幸せはないのではないだろうか。
作為的じゃないところ、偶然性、たまたま、いいタイミング、
そういうのは、相手のことを常日頃から気にかけているから起きることでもある。
思いがけず利他という本がある。
思いがけない利他って、本当の利他だ。
利他的になろうとして利他的にふるまっているうちはまだ偽物に違いない。
利他的になろうとしなくても、利他的に自然になっている状態が本物だろう。
そこには自意識もエゴもなく、作為もない。
ただ、相手の幸せを祈る気持ちが現象になって立ち現れただけだ。
水は、やがて蒸発し、雲となり、雨となって循環するように、
祈りの気持ちは、やがて現象となって降りてくる。
自然っていうのは循環だ。
エネルギーも循環することが大事といったが、
循環することが自然であるからだ。
誰か一人だけにエネルギーを注ぎ続けている状態は、自然じゃない。
そういう関係性はいずれ破綻するのは目に見えている。
なぜなら自然じゃないから。
自然じゃないことはいずれ壊れるように、この世はできている。
日本では、自然を崇拝してきた。
なぜ自然を拝むのか、
自然は人間にすべてを教えてくれているから。
どうしたら関係性がよくなるのか、それも自然に学べるし、
どうしたらエネルギーを循環していけるのか、それも自然に学べる。
日本神話は、自然をそれぞれ神さまに例えて、物語にしている。
天地自然、万物を神様にあてがって、
それぞれの関係性から学べるようにしてくれている。
本当に日本の神話はすごいのだ。
人生に行き詰まったら、日本神話に帰ればいい。
そこからメッセージを受け取って、日常に生かしてけば、
自然な方向に導かれ、自然にうまくいく。