2022年版 ブックオブザイヤー by ZAKIOLOGY

今年も残すところあと数日ということで、

今年読んだ本の中から厳選して、

特に面白かった本を紹介していきます!

何冊紹介できるか、というのは僕の体力次第ですね笑

 

小説編

死にがいを求めて生きているの

去年の年末くらいから、

朝井リョウ氏の小説を読み始めて、

今年はエッセイも読んだ

時をかけるゆとり

っていう本なのだけれど、

それもめちゃくちゃ面白かった。

朝井リョウ氏の学生時代は、

単純にバカだなーっていう感じで、

めちゃくちゃ面白い笑

 

この小説は、面白いのだけれど、

苦しい感じもあった。

 

ありがちな若者というのを

鮮やかに描いている。

ありがちな若者っていうのは、

えてしてイタい。

すごくイタいのである。

 

そのイタさゆえに、

読んでいて苦しさがある。

 

若いからイタいところがあるのかもしれないし、

イタいから若いという側面もあるのかもしれない。

 

そもそも平成という世代自体がイタいのかもしれない。

そのイタさを生み出したのが社会的なものだったのかもしれない。

 

物質が豊かになって、なんでも物がそろっていて、

別に生きていくことに困ることはないのだけれど、

なんとなく停滞している感があって、

単に生きているだけでは満たされないものがあって、

 

みたいな、

そんな物質的に豊かになって、

幸せなはずなのに、

幸せを感じることが難しい、

っていうジレンマに陥っていた世代が平成世代なのかもしれない。

 

平成のあいだに本当にいろんなものが便利になって、時代はとんでもない速度で変化しました。世の中が便利になるというのはつまり、効率や有用性、生産性がますます重要な物差しとして機能するということです。その中で人間だけが「ありのままでいい」という精神状態を保つというのは、実は相当の思考や胆力が求められる難しい営みだと思うんです。そのアンバランス感、都合のいい言葉で人間の一筋縄ではいかない精神を誤魔化してきたことのツケが、今、回ってきているのだと感じます。あなたはあなたのままでいい、生きているだけでいいんだよという言葉だけでは救いきれない何かが、今作だけでなくその後書いた何作かの小説に影響している気がします。

541ページより引用

上の言葉を物語に展開しているのが、

この作品なんだと思う。

 

今20代の人は、この作品に共感すると思う。

 

1Q84村上春樹

今年これを読めて本当に良かった。

院生になったら読まなかっただろうし、

社会人になったらもっと読まなかったと思う。

 

物語自体は、そんなに突飛な話ではない。

二人の男女が運命的に出会い直す物語

たったそれだけの物語なのに、

村上春樹の手にかかると、

これほどの長編が生まれ、

これほどのファンタジーに生まれ変わる。

 

村上春樹の小説が面白いのは、

物語自体というよりも、

その文体にある。

 

って誰かが言っていたが、

僕もそうだと思う。

 

1Q84神の子どもたちはみな踊る

は似ているなと思う。

 

いつ二人は出会うのだろう?

と思いながら読み進めていくことになる。

でも全然出会わない。

不思議なことがいろいろ起きる。

不思議だなー。と思いながら、

まだ二人出会わないのか。と落胆する。

いつ二人は出会うのだろう?

とまた思い、また不思議なことが起きる。

それの繰り返しだ。

 

これだけの長編を読み通すには、

文字通り、どっぷり浸かることが必要になる。

どっぷり浸かる小説体験というのはなかなか面白いことだと思う。

古典編

正法眼蔵随聞記

内容はたいして覚えていない。

良いことが書いてある。

格言みたいな言葉が書いてある。

仏教の教えは良いな。

と思う。

仏教の言葉は、わかりやすい。

わかりやすく、簡潔に、生活への処方箋を与えてくれる。

例えば、こんな感じ。

 

ある日、教えて言われた。

世間の人は自分から、

「わたしは、師の教えを聞いても、どうもわたしの考えと合いません」

と言う。

わたしが思うのに、この言葉は間違っている。

そういう人の気持ちを察してみると、聖教などの道理を自分で理解し、もし、その理解したところと合わないのはすべて間違いだと思うのであろうか。

もしそうなら、なんで師にたずねるのか。

また平生の自分の分別判断に基づいて言うのであろうか。

もしそうなら、自分の分別判断などというものは、それこそ無限の過去以来の根拠のない思いに過ぎない。

仏道を学ぶ心がけというのは、自分の気持ちに合わなくても、師の言葉、聖教の言葉ならば、一応それに従って、もとからの自分の見解をすてて改めていくことである。

この心が仏道を学ぶ秘訣である。

 

言志四録

言志四録もわかりやすい。

だって、修養書だから。

自分をいかに律して、

糺して、高らかに生きていくのか、

っていうことにフォーカスされているから、

わかりやすい。

 

こういう場合は、こうせよ。

みたいな、教えの総集編みたいなものである。

 

昔の人の言葉っていうのは、

すごく良い。

かっこいい。

端的に語るし、

こうすべし!

っていう力強さを感じる。

 

僕みたいな人間は、

文章にいつも逃げ道を作ってしまう。

こうかもしれないし、こうでないかもしれない。

みたいな構文をいつも使っている。

 

こういう構文を使う人間は弱い人間だ。

端的に言い切る人間は強い人間。

 

人間の本性は天にうけ、身体は地からうけたものである。

天はまざり気がなく、形もない。

形がないから、何処にも自由自在に通じることができるから、善の一つで押し通せる。

地はいろいろ入り混じって形があるから制限がある。

だから時には善、時には悪となるというように、善悪を兼ねている。

この地はその活力を天にうけて、その地の地たる働きをするもので、

風雨を起こして、万物を生ずるがごときはこれである。

しかし、ときには風雨は物を破損することもあるから、善悪を兼ねている。

しかし、その悪は真からの悪ではなくて、ただ活力の過ぎるか及ばないかによるものである。

本性が善であるということと、身体が善悪を兼ね備えているというのも、これと同じようなことである。

現代語訳は陳腐な感じがしてしまう。

原文の方が読み応えがあって、

言い回しがかっこいい。

新書またはビジネス書編

わかりあえない他者と生きる(マルクスガブリエル)

これはブログにも書いたと思う。

 

zakiology.com

パッと開いたところに書いてあることが、

面白いので、引用してみる

通常は三つの立場があります。普遍主義、相対主義虚無主義です。

虚無主義が価値などというものはないとする立場です。

しかし私の論証に従えば、相対主義虚無主義は同じです。

もしある人が相対主義者だとして、倫理においてヨーロッパの価値観とは相反する中国の価値観があると考えるなら、実際は価値など存在しないと言っているのです。

ですから相対主義者にはなりえません。普遍主義者か虚無主義者かです。

たしかにー。

って思ってしまった。

その後の文章で、

普遍的な価値の内容を探っていくには対話が必要だって言っていて、

対話には他者が必要だっていう論法。

 

要は対話っていうのは、自分が間違っていたら教えてもらう。

っていうことで、

普遍主義っていうのは、無自覚に自分は間違っているかもしれない、

と疑うことから始まっているということらしい。

 

たしかにこの構えっていうのは、大事な構えで、

一人で生きていると、無自覚に間違ってしまうかもしれない。

だからこそ、めんどくさい他者との関係を持つべきだ。

っていうことにもなりえる。

 

他者と対話する価値っていうのは現代はより大きくなっていると思う。

なぜなら、SNSで見る情報にはその人なりのバイアスがかかっているから。

一人で生きていると、どうしたってそのSNSのバイアスに引っ張られる。

バイアスっていうのは、ときに人を攻撃的にしてしまうし、

間違っているということに気づけなくなってしまう。

 

だからこそ、わかりあえなくても、

めんどくさくても、

まどろっこしいと思っても、

他者と対話することを諦めてはいけないのだと思う。

 

最澄を生きる(ひろさちや

最澄って女っぽいところがあると思う。

大乗仏教自体が、母なる感じがあるし、

すべてを包み込んで包括していくところがかっこいい。

名前的に、最澄が好きだし、シンパシーを感じる。

僕の名前にも澄み切るという意味が含まれていて、

最澄みたいな澄み切った心を持って生きていきたいなー。

と漠然と思った。

 

役に立つ人間になりなさい、

って良く言われるけれど、

大乗仏教的な観点で見れば、

役に立っていない人間などいない。

っていうことになる。

 

最澄が言った「忘己利他」

己を忘れて他を利する

っていう意味だけれど、

 

他を利するっていう意味だけ見ると、

生産性が高くて、価値を生み出すのが良い

って思いがち。

 

たしかに、日本人の生産性は低いっていうことで、

今は円安になっているわけだし、

生産性は高いにこしたことはないのかもしれない。

 

でも大事なのは己を忘れるっていう方で、

己を忘れて行動するからこそ、

自然と利他的になっていくのかもしれないなー。

と思う。

 

比叡山出身のお坊さんたちが、優れた思想を残したのは、

一概に最澄が優れた人物だったからなんだなー。と思う。

悪人正機っていう親鸞の唱えた説は、

最澄に言わせれば、

大乗仏教の中にもともとあったものなんだと思うし、

念仏を唱えれば救われるっていう考え方自体も、

そもそもみんな救われるっていう大乗仏教があってこそなわけで。

 

あー、そうそう。

阿吽っていう漫画こそ、今年ナンバーワンだったわ。

 

ここに描かれている最澄は、マジでかっこいい。最高。

俺は霊仙も好きだけどね。

ぜんぶ、すてれば(中野善壽)

この本も、すごく良かった。

この本を一言でまとめると、

不安定を楽しむ。

っていうことなんじゃないかな。と思った。

捨てれないっていうのは、

安定したいっていう思いの現象化な気がする。

 

安定したいから、物質に執着してしまうわけで、

根本的に安定なんてあり得ない。不安定を楽しもう!

っていう思いに変わったら、いろんな執着が捨てられるような気がする。

 

最近の若い人に「安定志向」の傾向があるようです。

変化が激しい世の中で、少しでも落ち着けるよう願う学生も多いのだとか。

僕が言いたいのは一つ。世の中に安定というものは存在しません。

永久に存在する企業もないし、自治体だっていずれは消えていくと言われています。

そもそも僕たち人間が生かされている自然世界そのものが、

常に流れ、変化をし続けているのであって、今日と明日で一つとして同じものはない。

一日単位では気づきにくい微々たる変化だったとしても、

大きな流れの中では激動している。

 

そんな世界の中で必要になるのは、安定を求める心ではなく、変化に対応する力。

冷たい風を一瞬感じて立ち止まる力。

そして、足先の方向をクルッと変えて、また颯爽と歩き出す力。

変化に強い自分を鍛えていくことを、若い人にはおすすめします。

 

 

だってさ。

かっこいいこと言うよな。

なんとなく仏教的な感じがするの、わかる?笑

 

 

書き残すこと

ってな感じで、

もう疲れたーーーーーー。

年末って忙しい。

まだ僕は10月くらいな気分なんですよねー。

なんでかって言えば、ここ数ヶ月、時空が歪んでいたからーーーー。

何言ってんだこいつ?

と思わずに、最後まで読んでくださいね。

ここ数ヶ月、ずーーーーーっと研究活動に明け暮れていて、

時間感覚が狂ってしまったわけなんですよ。

 

今年は、寅年ってことで、

子で種をまき、

丑で根をはり、

寅で発芽

っていうことらしくて、

寅年らしい年になったんじゃないかなーと思った。

最近ブログも寅年っぽくて、

今年書いた記事は結構良い感じ。

良い感じっていうのはグーグルの検索にちゃんと登録されるようになったということで、

結構アクセス数ものびてきた感じがしている。

別にアクセス数かせごう!

って思ってブログ書いてないから、

どうだって良いことなのだけれど、

まあ続けてきただけのことはあるな。って思う。

 

来年は卯年かーーー。

もう24歳でっせ。

あー辛い、何が辛いって、

え?もう干支が2周したん?早くない?

って思わないといけないことが辛い。

 

ってか、卒論書けよ。って今思った。

まだ卒論書いてないんですよね。

12月の始めまで実験してたんでね。

周りの方々は、続々と卒論を提出しているようで、

1文字も書いていないことに焦りを禁じ得ない僕なのでありました。

 

こんな5000字も書く余裕あるなら、研究背景の一つや二つ書いてしまえば良かったなああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああ。

「あ」の多さでわかるように、

非常に後悔しているのであります。

 

もはや、何を書いているのかもわからなくなってきたわけですが、

そろそろ終わりにして、

そろそろ寝たい。

 

誰だよ「年内にブックオブザイヤー書く」って宣言した奴。

自分を恨むわけですが、

一応、とりあえず、一端、これで終わりにしておきますね。

本を追加するかもしれないけれど、それは年超してからかもねーーーーーーーー。

 

 

まじでしょうもない最後になってしまいましたが、

来年もたくさん読んでねー。

できれば、広告を、、、、って、

こういうこと書いちゃいけないらしいから書かない。

来年も書いているはずなので、読んでやってくださいね。

良いお年をお迎えくださいねーーーーー。

これにてドロン💀