「くどい!」を聞くためだけに見るドラマ

僕はドラマや、映画は何回も好きなものを見る。

最近何回も見ているのは、「僕の姉ちゃん」というドラマだ。

 

僕は、このドラマの6話目が好きだ。

ネタバレしまくるけれど、

 

※ネタバレ注意⚠️

 

6話目では、順平が真田さんからフラれる。

やんわりとフラれるのだった。

やんわりとフラれて、やんわり終わりそうな恋に諦めをつけられず、

2回フラれても、もう一回、メールを送ろうとするのだ。

 

もう一回、メール送るのくどい?

という問いに対する

姉ちはるの答えが、

 

くどい!(即答かつ語気強め)

 

このやりとりが好きで、

その部分を見るためだけに周回することもできるレベルなのだ。

「羊をめぐる冒険」を読んだ率直な感想

村上春樹の「羊をめぐる冒険」を読んだ。

今回は、その感想を書いておきたいと思う。

ネタバレを含むので、以下ネタバレ注意

 

率直に申し上げて、

よくわからなかった。

 

  • 羊とは何を意味するのか?
  • 羊をめぐる冒険は何だったのか?
  • 鼠はなぜ自殺しなければならなかったのか?
  • 羊博士が失ったのは何だったのか?
  • <僕>のガールフレンドはなぜ急に山から去ったのか?
  • 羊男は何だったのか?

 

あげればきりがないほど、よくわからなかった。

それでも、それなりに考えることはできる。

わからなかったことは、そのままにしておけばいい。

わかったことから何か考えること、何か受け取ることが、小説を読む意義だ。

 

鼠が戦っていたものたち

鼠は、権力機構に抗って死んでいった。

鼠が戦っていた権力機構は、現代に存在する何か、を象徴しているような気がする。

権力機構とか言うと、それなりに陰謀チックな響きを伴ってしまうが、それは仕方のないことだ。

羊は影のようなものなのだと思う。

影のように、光の当たるところに付きまとってくるもの。

影の中から、光の当たる人を誘惑するもの。

そんなものなのだと僕は思った。

 

権力やシステムというのは、影の一つの形なのだと思う。

羊という影は、さまざまなものの抽象的な比喩なのだろう。

一つの形として現象化したものが、権力機構というわけだ。

 

鼠は、その権力機構に、飲み込まれそうになった。

その権力機構から逃れるために、自殺という強硬策に出るしかなくなった。

そう考えるほかない。そして、その権力機構を永遠に葬り去るために、

<僕>の力を借りざるを得なかった。

 

条件付きの自由意志に気づく<僕>

しかし、複雑なのは、鼠を探すために、

<僕>は権力機構に操られることになったという点だ。

権力機構の黒い服の男に、まとまった金を与えられ、

条件付きの自由意志に基づいて、鼠を探すように仕向けられた。

 

最終的には、条件付きである自由意志に<僕>自身が気づくことになり、

その条件付きである現実から、離れることになった。

 

人間にとって、自分の意志が本当に自由意志なのかどうか、

という問題はいつも付きまとう。

広告ビジネスは、現代では盛んにおこなわれているし、

広告ビジネスが多くなればなるほど、

人間の自由意志は条件付きのものに成り下がってしまうような気がする。

 

羊をめぐる冒険によると、その権力機構に思想的な背景はないらしい。

陰謀論でいうところの、戦争ビジネス的な、

金を儲けることのみを考えている組織のようなものなのだと思う。

権力機構は、世の中の人々を操りたがる。それが一番、儲かるからだ。

自由意志に見せかけた条件付きの自由意志に基づいて人間を行動させようとする。

それは、今のyoutubeの広告や、SNSでもそうだし、

ひと昔前のテレビ広告でもそうだった。

 

「羊をめぐる冒険」から受け取ることのできたメッセージ

「羊をめぐる冒険」の中から受け取れたメッセージとしては、

自由意志に見せかけられた条件付きの自由意志に気づくことの難しさ、

そして、その操られた自由意志に気づくことの大切さである。

月並みな表現になってしまうが、

僕たちが自由に選んでいると信じているものが、

本当は、何らかの権力機構の情報操作によるものなのかもしれない、

と疑ってみること、その疑問を持つことは、

現代を生きる中でも重要なことだと僕は思う。

 

うまくまとまらないが、取り急ぎそんな感じ。

またゆっくり考察することは今度やってみようと思う。

 

最後まで読んでいただき、ありがとうございます!

では!

 

 

祈りと感謝は似ている

僕はよく神社に行く。

神社に行ったら、祈る。

 

今日、ふと思ったのは、

祈りと感謝は似ている。っていうこと

 

昨日、緊張するときは、自分以外のことに気を向けて、

感謝すると意外と自意識から解放されて、緊張しすぎないでいられる。

 

っていうことを書いた。

 

感謝するっていうのは、ありがたいなと思うということだ。

ありがたい、と思うことは祈りの気持ちに似ている。

祈りっていうのは、人や神様に向けるものだ。

感謝も、人や神様に向けるものだ。

 

日本の神様は、ご縁結びの神様だと言われる。

ご縁っていうのは自分で結べるものではないし、

かなり偶然性に頼っているところがある。

偶然をつかさどるのが神様なのだとしたら、

ご縁を結んでくれる偶然性、

運の良さを授けてくれるのが神様なのだろう。

 

自分だけの力で生きられているわけではないのだな、

という悟り、

大いなる存在の働きによって与えてもらっているのだな、

という気づき、

こういうのは感謝の根源的な悟りだと思う。

 

祈り、とかいうと、いかにもスピリチュアルで、

胡散臭い感じがしてしまうものだけれど、

感謝、というと、べつに胡散臭い感じがしない。

 

そりゃ人間、無力だし、自分だけで生きられるほど強くない。

だから、懸命に生きれば生きるほど、

周りに助けられていることに気づかされる。

周りに助けられている、周りに支えられている、

そういう気づきっていうのは、

人生を豊かにしてくれるものだと僕は思う。

 

周りに助けられているっていうことは、

その周りの人に出会わせてくれた大いなる存在がいて、

その偶然を生み出してくれた存在がいるかもしれない。

そういう存在がいるのだとしたら、感謝せずにはいられない。

僕はいろんな偶然に助けられて、今楽しく生きられている。

 

良き出会いに恵まれて、今楽しく生きられている。

多少、苦しいこともあるし、つらいこともあるけれど、

それも乗り越えていけると思えるほど、周りに支えられている。

もっというと、神様に支えてもらっている。

 

僕はだから、神様に感謝しているし、

自然と祈りのような気持ちが湧いてくる。

 

祈りは自由だ。

こうしなければならない!

みたいなものは存在しない。

感謝は祈りの一つの形体なのだと思う。

現実主義的な時代である今だからこそ、

感謝という形の祈りだけは忘れずに生きていきたいものですね。

 

最後まで、読んでいただき、ありがとうございます。

では!

緊張するときの対処法

最近、緊張してしまうような場面に多く出くわす。

緊張しやすい僕が、緊張してしまうときに、緊張しすぎないようにできているときに考えていたことを今回は書いておく。

 

緊張するときってどういうときか?

緊張するときは、基本的に自分のことで精一杯のときだ。

自分のことしか考えることができない。

 

もし失敗したらどうしよう、

失敗して皆んなに醜態を晒すのが怖い、

皆んなから見られているのが怖い、

などなど、

 

緊張しすぎているときっていうのは、

大抵、自分のことばかりに気が向いている。

 

自分のことばかりに気が向いるときに緊張するのならば、

緊張しないためには、自分以外のことに気を向けることだ。

 

もっと言えば、他人の幸せを祈ればいい。というか、僕は他人の幸せを祈ることで、緊張しすぎないでいられる。

ただし、自分が緊張しないために、他人の幸せを祈っても意味がない。なぜなら、それは自分に気を向けているだけだからだ。

 

ただ、純粋に、本気で、他人の幸せを祈るのだ。

それがシンプルでかつ、根本的に緊張しすぎないために必要なことだ。

 

僕は、自意識が強いタイプだ。

昔から緊張しいで、昔から自分に意識が向いてしまうことが多かった。

でも、たまに、本当に自然に人前でも緊張せず、実力を発揮できることがあった。

幼稚園児だったころのこと。

 

幼稚園児のころの学芸会か何かだったと思う。当時のビデオを見たことがあるのだが、周りの子たちが失敗してしまいそうなときに、僕が助けてあげていた。

単純なカスタネットか何かの演奏だったと思うが、周りの子たちが演奏するべきタイミングも僕が教えてあげたりしていた。

思えば、あのときは緊張など気にもとめず、ただ純粋に周りの子たちのことを考えていたのだろう。

幼かったこともあり、まだ自意識も小さかったからかもしれないが、あの体験は僕にとって意味のある体験だったのだと今では思う。

案外、幼少期の成功体験っていうのは、今にも通じるものがある。

 

僕は緊張しやすいが、

本気で、純粋に周りの人のことを祈り、周りの人の幸せを考えている時、緊張しすぎず、ナチュラルに行動できている気がする。

 

ということで、緊張しすぎないためには、自分以外のことに気を向けること、他人の幸せを祈ると良いと思う。

 

祈るとか、よくわからん!

という人は、とにかく今生きられていることに感謝するだけでもいいと思う。

 

今生きられているということは、必ず誰かの支えがあり、お世話になった人がいて、今日、飯を食えるのは、いろんな人が働き、汗を流してくれているからで、

 

たとえお金で買っているだけなのだとしても、お金の裏で動いてくれている人のことを思えば、感謝の念を持つことはできるはずだ。

 

こういう感じで、自分以外のことに気を向けることが、意外と自意識から解放してくれる。

そして自意識から解放されると、緊張も和らぐものなのだ。

 

最後まで読んで頂き、ありがとうございます。

では。

体調を崩しておりました。

お久しぶりになってしまいました。

タイトルにもあるように、

先週から体調を崩してしまい、

書くことができなかったんです。

 

にしても、一人暮らしで体調を崩したときは、

なんであんなにも心細いのでしょうかw

めっちゃ不安になりましたし、

めっちゃメンタル的にも落ち込んでいましたw

 

思えば、大学時代に本格的に体調を崩したのは、

ほぼ初めてでした。

大学一年生のときに、一回肺の病気にかかって、

入院したことはあるんですが、

それを除けば、初めて大きな風邪をひいたような気がします。

 

細かい体調不良は、今までもたしかにあったのですが、

一週間、ずっと体調が悪い、

というような風邪は、

初めてだったかもしれません。

 

ずっと独りぼっちで、

ずっと寝ていなければならない。

弱音を吐けるような人はそばにはいなくて、

ずっと不安な気持ちを抱えていました。

 

しかも、そのタイミングで就活の予定も立て込んでおり、

スケジュールの調整をしていただいたり、

キャンセルをしてもらったりしなければならなかったんですよね。

 

そして、研究でも催促されている案件があったり、

書かなければならない書類があったりと、

寝込みながらこなさないといけないようなタスクもあって、

より元気を失っていくという、悲惨な状況でしたw

 

独りぼっちで不安というメンタル的にも辛い状況で、

かつ肉体的にも体調不良で辛い状況という感じでした。

 

心身相関というものがありますが、

心がダメなときは、肉体が頑張ってくれて、

肉体がダメなときは、メンタルで補って、

っていうことが健康なときにはできると思います。

 

僕のこの一週間は、肉体も心もどっちもダウンしているような、

そんな助けようのない状態でした。

 

それでも何とか、今は体調も治って、

メンタル的にも何とかなっているのは、

助けてくれた人がいるからです。

 

つい二日前くらいのことです。

もう、どうしようもないくらいに寂しさがこみあげてきて、

もう、無理!ってなった瞬間がありました。

 

そのときに、僕は方々にLINEを送りまくって、

寂しいから一緒に飯を食べてほしいという旨を送りましたw

 

研究室の同期は、電話をかけてきてくれて、

話を聞いてくれました。

 

研究室の先輩は、修論発表が控えているのにも関わらず、

一緒にご飯を食べに行ってくれました。

 

そうやって助けてくれる人がいたから、

今、こうやって復活してブログを書けています。

 

今思うのは、どうしようもない状況になったときに、

ちゃんと人に甘える、とか、

ちゃんと寂しいって言う、とか、

そういうのって、最近ちゃんとできてなかったな、ということです。

 

歳をとってくると、

人に甘えるのが下手になってくるような感じが、

僕にはあります。

 

子供のころは、人に甘えることが生きること、

みたいな感じだったと思うのですが、

大人になるにつれて、人に甘えていてはいけない!

っていう価値観が強くなっていくと思います。

 

それは当たり前のことですし、

自分でやるべきことをやっていく、

自分の足で立って生きていく、

っていうのは大事なことです。

 

でも、本来持っていた人間の甘え上手なところも、

非常時には大切な気がするんです。

自分ではどうしょうもない状況になったときに、

周りの人に助けを求められるっていうのも、

生きる上では欠かせないスキルだと思うんですよね。

 

無責任に生きるとか、

人に迷惑をかけて生きるとか、

そういうのとは違うんですが、

 

誰かの助けが必要なときに、

ちゃんと甘えれないと、

誰も助けてくれないし、

最悪の場合、

自殺してしまうようなこともあるんじゃないかなと思います。

 

世の中の自殺の問題って、

人に甘えるのが下手な人が多いっていう問題でもあると思うんです。

日本人は真面目だから、

思いつめすぎてしまって、

誰かに助けを求めて、

もっと甘えていいところを、

自分だけで背負ってしまうような感じですかね。

 

そういうときに、周りの人にちゃんと甘えていけば、

案外、人は助けてくれるし、

人に助けてもらったりすると、

案外あっさり元気になれたりもするもんです。

 

そういう感じで、僕は、

体調を今後は崩さないように努力していこうと思いますし、

誰か助けを求めている人が周りにいたら、

積極的に助けていきたいと思っています!

 

最後まで読んでいただき、ありがとうございます!

では!

久しぶりに漫画を買った。初発の願いを思い出させてくれる漫画「うみべのストーブ」

最近、久しぶりに漫画を買った。

「うみべのストーブ」という作品。

 

 

なんか本屋でピンと来たので、買ってみた。

この漫画がすごい!みたいなやつの女性ランキング一位らしい。

ランキングなどどうでもいいことだけれど。

 

いや、マンガは最近でも買っている。

ウィッチウォッチとか、ワンピースとか、キングダムとか、

そういう「マンガ」は日常でも読むことが多い。

 

別に明確に漫画とマンガを分けているわけではないけれど、

なんとなく、この「うみべのストーブ」のような作品は、

漢字の漫画っていう感じがする。

 

ほかに、どんな作品が漫画っぽいのか?

と問われても、今のところ思いつかないし、

さっき、なんか、再読していて、

漫画って感じだなー、と思ったから、

それをこうやって書き始めているだけだ。

 

一応、作品の感想などを書いておく。

これは短編集で、

7つの作品が収録されている。

よくあるマンガのような感じではなく、

これは小説のような感じだ。

文学的だから、日常に寄り添ったような形の物語が収録されている。

 

こんな形の漫画ってあんまり読んだことがなかったな、

と読んでみて思った。

たしかにこういう漫画があってもいいな、

たまにはこういう漫画も読みたいな、

と思った。

 

俵万智さんが、帯に推薦文を書いていて、

「忘れそうなほど小さくて、でもとても大切な何かを見つめなおす」

っていうことを書いていた。

 

たしかにそんな感じだ。さすが俵万智さん、と叫びたくなるような推薦文だ。

 

僕は、「きみが透明になる前に」という作品が好きだ。

詳細は省くけれど、

家族になるとか、夫婦になるとか、

ってその人の抱える嫌な面も好きな面も、

すべてひっくるめて引き受けることになる。

 

例えば、夫婦なら、夫が仕事でイライラして帰ってくるようなこともあるし、

そのイライラをぶつけられて、妻のほうもイライラしてしまうようなこともある。

家族になるっていうのは、そういうことの集積のような感じで、

たしかに、いろんないい面もあるけれど、

その分、引き受けるべきよくない面もそれ相応にあるものだ。

 

恋の賞味期限は三年だとよく言われる。

たしかに、人の好きなところだけを見て、恋をして、

そうやって浮かれた気分に浸っていられる時間は限られている。

 

恋に恋しているような状態になったことは僕にもあると思う。たぶん。

でも、恋だけでは人間は生きてはいけなくて、

ちゃんとその人とともに生きていく、

という覚悟を決めて生活をしていくっていうのは、

本当に尊いけれど、尊いがゆえに地味で、たまに苦しくて、淡い。

 

日常っていうのは地味で、淡くて、初心や一番大切な感情が埋没していってしまう。

日常を生きていたら、普通に生きていては、そういう大切だったはずのものがどんどん忘れ去られていく。

そういう忘れ去られてしまうかもしれない大切なものがあることを思い出させてくれる、そんな良い話だった。

 

この漫画には、こういう話が7つも収録されいて、

別にどうってことのないことだけれど、でも大切だったなにか、

そういう自分にとっての初発(しょはつ)の願いってなんだったっけ?

っていう問いを与えてくれる。

 

ということで、とてもおすすめの良い本です。

 

最後まで、読んでいただき、ありがとうございます。

では!

感情に愛着を持つ

最近は、本当に忙しい。

忙しいと言っているのがばかばかしく思えてくるくらい忙しい。

自分で忙しい状況を作っているわけではない。

 

忙しい状況が雪崩のように襲ってきている。

 

緊張するような状況に陥ることも最近は多い。

 

僕の性質として、

緊張して力むと終わる。というものがある。

緊張して力むと、まず思考停止する。

そして思考停止して何もしないなら、まだ救いようがあるものの、

思考停止した状態で何かしてしまう。

その結果として、何かやらかしてしまうっていうことだ。

 

人間には2つのタイプが存在すると思う。

緊張状態で力を発揮しやすい人と、

緊張状態で力を著しく発揮できない人だ。

僕は間違いなく後者である。

 

緊張するっていうのは準備不足だとよく言われる。

緊張しなくてもいいくらい準備に時間をかけることが正解なのだ、とよく言われる。

たしかにその通りだ。

 

それは間違いなく正論であり、緊張して力を発揮できないくらいの準備しかしていなかった自分が悪い。

けれど、僕のようなタイプは、準備万端と思える状態になるまで準備しても、力んで失敗してしまうというときもあるのだ。

 

これだけ準備してきたのだから大丈夫だ。心配いらない。

そう思えたらいいのだが、

これだけ準備してきたのだから失敗できない。頑張らねば。

と思ってしまったら失敗してしまうのだ。

 

僕はそれを「力みん(りきみん)」となずけている。

準備不足で失敗するのは、まあ、あるとして、

準備したうえで、力んで失敗するときの、あの感情を僕は「りきみん」となずけて人格化しているw

 

出た出た、「りきみん」やん。

って思ったら若干りきみが取れるっていうことだ。

「りきみん」っていう感情に愛着が持てるようになる。

感情っていうのは自分の内部に存在していて、

その感情もある程度、性格を有している。

 

自分の中にある特徴的な、そして失敗してしまいがちなときに沸き起こってくる感情にこそ、愛称をつけて、愛着を持つ。

これっていうのは結構使える知恵だと思う。

自分の中にある感情を敵視しても、その感情は解決しない。

その感情を受け入れて、

それをうまく御(ぎょ)せるようにならないと、

根本的な解決には至らない。

 

感情っていうのは、悪いものではない。

人間が進化してきて、それでも残っているものなのだから、

それには必ず意味があるし、

神様が授けてくれたありがたいものなのだ。

 

神様からの愛を感じながら、自分の感情に愛称をつけて慈しむような気持ち。

それが大事なのではないか、と最近は思って、

りきみんとも仲良くしようと努力している最中だ。

(本当に仲良くなるには時間がかかりそうだが、少しずつ仲良くなってきてはいる)