感情に愛着を持つ

最近は、本当に忙しい。

忙しいと言っているのがばかばかしく思えてくるくらい忙しい。

自分で忙しい状況を作っているわけではない。

 

忙しい状況が雪崩のように襲ってきている。

 

緊張するような状況に陥ることも最近は多い。

 

僕の性質として、

緊張して力むと終わる。というものがある。

緊張して力むと、まず思考停止する。

そして思考停止して何もしないなら、まだ救いようがあるものの、

思考停止した状態で何かしてしまう。

その結果として、何かやらかしてしまうっていうことだ。

 

人間には2つのタイプが存在すると思う。

緊張状態で力を発揮しやすい人と、

緊張状態で力を著しく発揮できない人だ。

僕は間違いなく後者である。

 

緊張するっていうのは準備不足だとよく言われる。

緊張しなくてもいいくらい準備に時間をかけることが正解なのだ、とよく言われる。

たしかにその通りだ。

 

それは間違いなく正論であり、緊張して力を発揮できないくらいの準備しかしていなかった自分が悪い。

けれど、僕のようなタイプは、準備万端と思える状態になるまで準備しても、力んで失敗してしまうというときもあるのだ。

 

これだけ準備してきたのだから大丈夫だ。心配いらない。

そう思えたらいいのだが、

これだけ準備してきたのだから失敗できない。頑張らねば。

と思ってしまったら失敗してしまうのだ。

 

僕はそれを「力みん(りきみん)」となずけている。

準備不足で失敗するのは、まあ、あるとして、

準備したうえで、力んで失敗するときの、あの感情を僕は「りきみん」となずけて人格化しているw

 

出た出た、「りきみん」やん。

って思ったら若干りきみが取れるっていうことだ。

「りきみん」っていう感情に愛着が持てるようになる。

感情っていうのは自分の内部に存在していて、

その感情もある程度、性格を有している。

 

自分の中にある特徴的な、そして失敗してしまいがちなときに沸き起こってくる感情にこそ、愛称をつけて、愛着を持つ。

これっていうのは結構使える知恵だと思う。

自分の中にある感情を敵視しても、その感情は解決しない。

その感情を受け入れて、

それをうまく御(ぎょ)せるようにならないと、

根本的な解決には至らない。

 

感情っていうのは、悪いものではない。

人間が進化してきて、それでも残っているものなのだから、

それには必ず意味があるし、

神様が授けてくれたありがたいものなのだ。

 

神様からの愛を感じながら、自分の感情に愛称をつけて慈しむような気持ち。

それが大事なのではないか、と最近は思って、

りきみんとも仲良くしようと努力している最中だ。

(本当に仲良くなるには時間がかかりそうだが、少しずつ仲良くなってきてはいる)