自愛が足りない
みんな自愛が足りない。
もっと自分を愛しても良い。
安全なのかハッキリしているわけでもない治験中のワクチンを何も考えずに打ってしまうのはなんでなのか?
自愛が足りないから。
自分のことを本当に大切に思うのなら
そんなことはできないはずだ。
自分のことを心底愛し、心底信じてあげていたら、
自分の生命力を信じることもできるはず。
みんな自愛が足りない。
自愛が足りないから自分を信じられない。
僕は自分のことを理屈抜きに素晴らしい人間だと思っているし、
今後なにがあっても素晴らしい人生を歩むことを確信している。
だから、ワクチンなんか打たなくても絶対になんとかなるし、
そもそもワクチンなんか必要ない
理屈をこねくりまわしてもいかにワクチンが必要ないかを説明することはできる。
でも、根本的に間違っているのは死生観であり人生観。
ソクラテスの弁明でも読んでみればよろしい。
映画「セッション」のなかでアンドリューはこう言っていた。
I’d rather die drunk, broke at 34 and have people at a dinner table talk about me than live to be rich and sober at 90 and nobody remembered who I was.
(誰の記憶にも残らないクソみたいな90歳になるよりも、俺は34歳で飲んだくれて、ぶっ壊れたとしてもチャーリー・パーカーのように誰かの記憶に残っていたい。)
神道には”中今”という思想がある。
中今とは”ただ、いま”に生きるという意味でもある。
一日一生(いちじついっしょう)と言い換えても良い。
一日一生とは、今日一日に一生分が詰まっているということ、一生分の雛形としての今日を生きるということ、今日一日で一生分生ききって死ぬようにして眠ろうという教え。
これが意味するのは、今日、生きていることはそもそも奇跡であり、
今日、生ききることができないような奴が一生を語るなということでもある。
今日という一日を生ききることは一見簡単なようで難しいことだ。
本当に、自分のやるべきことなすべきことをやりきって一日を終えるのは大変なこと。
それもせずに、のほほんと90歳まで生きるより、僕は今日死んでも良いからやれることをやりきって生きたい。
そう思う。
でも、それは極論で、結局たぶん明日も命はあるし~なんて思った不届き者がいるのなら、
どれだけの人が今日一日で命を落としたのか調べてみると良い。
現実に、次の朝目覚めることができない人は大勢いる。今日も明日もその先もずっと。
なんで自分が明日そのうちの一人にならないと言いきれる?
明日は我が身と思って生きれば良いではないか。
死生観が腐っているから日本人は腐っている。
思想が腐りきったら人間は終わる。GHQもよくやってくれたものだと憎らしいが、そんなことを言っても現実は変わらない。
なんで、日本の老舗企業は信仰心が深いのか。
松下幸之助や出光佐三などがなんで神社参拝を欠かさなかったのか?
出光佐三は宗像大社を崇敬していたことで有名であるし、
松下幸之助もたくさんの神社に参拝していた。椿大社など。
彼らには思想、哲学があったからにほかならなない。
彼らには揺るぎない信仰心、死生観があった。
ある意味自分の命を過大評価していなかったとも言える。
明日、自分の命があると思っていなかったのだ。
明日も自分の命があるとは思わない。
でもどうか神様、この命を世のため人のため、自分の使命を果たすためにどうかお使いください。
そういう気持ちで参拝していたのではないだろうか。
だから彼らはまさに”神憑って(かみがかって)”経営の神様と呼ばれるほど偉大な存在になった。
僕はそういう生き方にものすごく感化されるし、神社に行くと、そういう人たちがいたという歴史に感化される
だから、みんな神社参拝をした方が良い。本当にガチの神社参拝は感覚が変わる。
神社参拝は自愛するための最善の方法でもあるし。
ということで神社参拝をしましょう!!
そして、ちゃんと自分を愛してあげてください。