本当はもっといろんな話をみんなとしたかった。

半年前くらいにサブログの方に書いていたことを転載しておきます。

久しぶりに読んでみたら、意外と良いこと書いていたので。

それではドウゾ!

常々思っていることだけれど、

やっぱり僕は身体感覚を大事にしていきたい。

 

そう強く思っている。

今の世の中、オンライン空間があるから、

どうしても、

人と人とがわざわざ会わなくてもいいようになってしまっている。

 

身近にいる人ですら、

テキストメッセージだけのやりとり。

仲の良い人ともたまにしか会わない。

 

もしかしたら、僕以外の人はどうでもいいのかもしれないけれど、

僕はやはりリアルな実感として同じ空間を共有したり、

同じ時間を共有したりすることを諦めたくはない。

 

どんなにまどろっこしいめんどくさいことであったとしても、

それは死守するべきことであって、

どんなにそこから目をそむけてみたところで、

結局は人間は人間なのだと。

 

生物としての人間とか、

身体感覚を有した存在として、

つまり言いたいのは、

生身の感覚とか、

肌感覚とか、

そういう「本来の人間らしさ」を持ったまま生きていきたい。

 

今日もそれを強く感じたし、

たとえ、僕が何をしていても、

何もしていなくても、

誰かが同じ空間でしゃべっていたり、

同じ釜の飯を食ったり、

そういう人間的な、

あまりに人間的な営みがどうやっても好きでたまらない。

 

僕の本質として、天の邪鬼であるから、

あえて本当に楽しいときとか嬉しいときに、

感情を表に出さないようにしたり、(できてるかは知らんけど)

特に女の子の前では、ちょっとおとなしそうに(大人らしく?)演じてみたり、

あんまり本来の子供っぽさを出さないようにしている。

たぶん、やっぱり男として強く在りたいとかそういう気持ちが強いのだと思う。

結局、メッキに過ぎないのだけれど(笑)見栄っ張りなんだろうね。

 

たまーにそういう自分を客観視すると、

とても愚かでとても滑稽に感じるけれど、

それでもそれが僕という存在で、

そういう性質までもがもはや愛しいとすら感じる。

 

今回の話に関連している僕が大っっっ好きな本を一冊紹介してみる。

スマホを捨てたい子どもたち 野生に学ぶ「未知の時代」の生き方 (ポプラ新書)

その本がこの本。

この本は本当に面白いし、

これからの社会を生きる上でも大切なことが書かれているので、

ぜひ手にとってみてほしい。

 

この本で言いたいのは、

一言でまとめると、

生物としての人間という意識を取り戻せ!

っていうこと。

 

スマホやらパソコンやら、

デジタルデバイスによって、

僕たちは生物としての人間らしさを失っていると。

 

僕は上でも書いたように、

これには完全同意。

本当に、大事なことだと思う。

 

僕がわざわざ人と会う機会を作ろうとするのも、

わざわざ飯を一緒に食おうとするのも、

結局は、みんなと仲良くなりたいし、

そうやって信頼できる人たちに囲まれて生きたいから。

 

だから、僕は多少無理やりにでも人には会うようにしたい。

こんな世の中になって、本当に悲しく思う。

人と人とがお互いの体温を感じながら、

人の温かみを感じながら生きていける世の中のほうが絶対に良い!

 

どんなことがあっても、僕はそれを信じているし、

今後もそれは変わらないことだと思う。

 

人のぬくもり、温かみ、慈しみ、愛しさ、

そんな生身の感覚と、

心の奥が暖かくなるようなそんなものを大事にしていきたい。

 

こんなことを言っているとバカなやつだと思われるかもしれないけれど、

それでも僕は人に愛されたり、人を愛したり、

そうやって生み出される愛念(あいねん)こそが人には必要だし、

僕はいつもみんなが明るく、軽く、暖かく、熱く、元気になってもらえるように祈っているし、今後もそれは変わらない。

僕の行動原理は愛念。人間愛。でありたい。

結局、みんなのことが好きってこと。

 

それで、ここからは、今思うことを加筆するんだけれど、

僕はもっといろんな話をしたかった。

もっとみんなと一緒に時間を共有したかった。

でも、踏み込みすぎて拒絶されてしまうのが怖かった。

 

どうしても後悔せずにはいられない。

語るべき何かはもっとあったはずなんだ。

語られるべき物語がまだたくさんあるはずなんだ。

どうしたってやるせない。

 

俺にはどうすることもできなかった。

俺だってできる努力はしたつもりだった。

でもなんだ?この胸の痛みは。

物理的に心臓を捕まれているような痛み。

大丈夫、心配ない。

こんなことは時間が解決してくれる。

 

人の縁は月の満ち欠けのようなもの。

欠けてしまう時間帯は一定期間必要。

たしかにその通りだよ。えべっさんは正しいよ。

でもね。俺は待ち続けたよ。この四年間。

待ち続けたけど、さらに月は欠けていってしまった。

新月はこんなものではないのかもしれない。

そう思うと末恐ろしい。どうかこれが新月でありますように。

 

これが僕にとっての第一章なのだとしたら、

第一章、終わり!

って叫びたい。

次の頁から第二章が始まって、

一章で突き落とされた読者に、

新しい希望と展開が待ち受けていないと物語として面白くないじゃないか。

ミステリにはありがちなこの展開は、

たしかに月の満ち欠けに似ている。

 

心の月が他の心の太陽によって照らされる、

そんな展開は待ち受けているのだろうか。

 

でも、それでも、いずれまた新月は訪れなければならない。

だとしたら、なんでまた新しい展開を期待するのだろう。

 

ニーチェなら、そんなもの当たり前だろ!

それがニヒリズムだ!

神は死んだんだ!

だからこそ、人生に積極的に挑め!

と熱くツァラトゥストラに語らせるんだろうけれど、

今の僕にはいささか熱すぎて、やけどしてしまいそうだ。

陰極まったら陽兆すんだろ?

さっさと陽兆しやがれ。