最近思うのは、踏み込まれたくない領域というものについて。
誰にでも、この領域にはだれにも踏み込まれたくない、という領域があると思う。
神社の御神域みたいな感じ。
この先に踏み込むっていうことはそれ相応の覚悟を持てよ
という領域が僕にはある。
僕は基本的に人に干渉されることが嫌いだ。大嫌いだ。
特に、しつこい人が嫌いだ。同じことを何回も言われるのは嫌いだ。
例えば、トマトをあげると人に言われる。
でも僕はトマトは嫌いだし、いらない。と言う。
それなのに、いいから食べろよ、と言ってくる人がいる。
僕はそういう人が嫌いだ。
一度断ったら、それを覆すことはない。ほとんどの場合。
僕はこれがやりたい、と言う、
それなのに、それは向いていない、とか言う人がいたりする。
いや、僕がやりたいと言っていて、
それはその人には関係のないことで、
否定されるような筋合いはないし、
僕はその人の人生に興味がないし、
干渉されるような覚えはない。
しかも、別に僕からその話題を振ったわけではない。という場合が多い。
お前はどうしたいの?って聞かれたから、
わざわざ、僕はこうしたい、と答えただけだ。
それをわざわざ否定したりする人がいる。
よほど暇なんだなと、僕は思う。
僕は究極的には他人に興味がない。
興味がない、というのは勝手に生きればいい、と思っている。
別に僕がどうこう言うような話ではないし、
勝手に生きて勝手に死ねばいい、と思っている。
僕が他人から干渉されるのを嫌悪するのには、
僕の父親が関係していると思う。
要は、抑圧的な親だった。
僕がこうしたい、ああしたい、ということに関して、
いちいち否定したり、いちいち口出ししたりしてきた。
それがものすごく嫌だった。
まあ、親っていうのはそういう生き物でもあるから、
別に今となってはどうでもいいことなのだけれど、
その経験は強烈に、僕の中の好き嫌いの判断基準を形成している。
僕の中には僕の自然がある。
僕の自然の中に飛び込んでくる直感がある。
僕は最近、トルストイにハマっている。
トルストイは、僕の中にある自然にガンガン飛び込んでくるのだ。
簡単に言えば、感性が非常によく合う。
僕にはそういうことが人生の中の中心にある。
僕の中の自然に飛び込んでくる感覚。
これだ!っていう直感、それが僕の人生の中心にある。
そして、僕のこれだ!という直感を僕は信じざるを得ないし、
それを否定する材料を僕は持ち合わせていない。
哲学者の東浩紀さんも同じようなことを動画で言っていた。
損得勘定でそれを選ぶことが得だと合理的にはわかっていても、
自分の中にいるもう一人の自分がそれを選ばせてくれない、
みたいな感じのことだ。
その感覚はぼくにもよくわかる。
損得で言えば、こっちを選んでおいた方がいい、
そういうのはある程度自分でもわかっている。
でも、僕の中にある自然はそれを許してくれない。
トルストイもそういう感じの人だ。
トルストイは、もともと信仰心の篤い人だった。
純粋で、信念があって、っていう感じだったのだけれど、
社会からの外圧によって、それを信じられなくなる。
要するに、いったん堕落する。欲に溺れてしまう。
トルストイのすごいのは、そこから復活するところだ。
今、復活という小説を読んでいるのだけれど、トルストイの主張が明確に表れている。
もともとは、自分の中の自然を信じられていた主人公も、あるときから、自分を信じることがつらくなって、やめてまう。
社会からの常識に沿って生きるほうが楽で、逆に自分の信じたいものを信じたり、自分自身の自然を信じようとすることはつらく、苦しいことが多い。
そして、主人公はまさに社会からの圧力に負けて、欲に浸って、自己保存欲や、自己顕示欲が強く表れるんだけれど、
たぶんこれから、そこからどうやって復活していくのか、ということが描かれるんだろうと思っている。
僕の言いたいのは、そういうその人の信じている自然、というのは、他人がむやみに侵していい領域ではない、ということだ。
それこそ、相当の覚悟が必要だ。そこに踏み込んでいるという自覚がない人が多い。